このタイトルだけだと、なんのこっちゃという感じですよね。
この本は小説です。短編集。
著者はルシア・ベルリンというアラスカ生まれの女性。1936年に生まれ、2004年に亡くなっています。
知る人ぞ知る小説家だったらしいのですが、その作品たちが独特で、胸に迫り、確実に質の高いものであることから、理解者の輪が広がり、読者が増え、読者が読者を呼び、ついに日本でも翻訳され、文庫化されました。私も身近にいる人たちの声によって買って読む気になった一人です。
そして引き込まれた。
著者の体験が素材となり、それらの素材はざらざらして、決して心地いいものではないのですが、語り口がユーモアを帯び、人生の中の印象的な物語を一つの作品として掬い取っている。単なる体験談ならば先が読めてつまらなくなりそうですが、この人に限ってそんなことはない。ハッとさせる終わり方をして、納得し腑に落ちる。
例えば、著者の祖父や祖母の影響で、本人もアルコール依存に苦しむことになるのですが、物語が原因の追求には向かわない。悪者探しにもならない。それはおそらく、著者もアルコール依存者が通うセルフヘルプグループ(同じ症状で苦しむ人同士が理解し合い、支え合う場)の体験が濃厚にあるからなのでしょう。
依存症を克服した後には、刑務所で文章表現の教員もしていたという。そのときの話も出てきます。その結末は悲しいものでしたが、自分を表現することが初めてできた人たちの喜びは十分に伝わってきました。
どんな人生だって作品になる。どんな人にも固有の物語がある。この真実を体現した人。
そう、素材だったその辺にごろごろしているものたちが、語りの魔法にかかって物語に化ける。そしてその物語には、真実という宝石が掬われている。
多くの作家たちが励まされたという話も頷けます。
とにかく書いてみようという気になるから。
でも、決して真似はできないだろうとも感じる。真似たところで二番煎じですから、爆発力も落ちる。
「文体」のことを考えさせられました。それは「語り口」とも言えるのですが。
どうやってそれができるのだろう、と。
この作家に似た人をあえて浮かべてみたら、梶井基次郎と志賀直哉でした。でも、もちろん違う。
それぞれに固有の文体がある。
梶井にユーモアはなかった。結核という絶望の中の一瞬の光を絶えず求め、文章で掴み取ることができた。それでも生活は荒んでいた。
志賀は、もっとストイック。やはりユーモアというより鋭さ。酒を飲んでる暇なんてねえ、という職人気質(勝手に)。
「個性」が文章になったとき、「文体」と言われるのかもしれません。
じゃあ、個性ってなんだろう?
もともと、その人に備わっていたもの、なのでしょうか?
備わってはいても、発揮されなければ、その存在は隠されたまま。
じゃあなにが、個性を発揮させるのに有効なのか?
「詰め込み教育」でも、「イエスマンの養成」でもない。「ペーパーテストで100点を取る技能」でも、「就職で面接官に好印象をもたらすテク」でもない。
おそらく、多くの人たちが困ってしまうところ。
ルシア・ベルリンの文章を読むと、体験が(人が)受け止められている感覚がある。そしてその受け止め方が柔らかい。そこに、この人の文体の秘密がありそうに思います。
きっと、読んだ人の中にも、柔らかい受容体験が広がっていく。じわじわと、確実に。ざらざらした否定を飲み込んでしまう柔らかさで。
小説を読むことは、書くこともでしょうけど、個性化を促すことになるのだと、この小説を読んで学んだ。
そして、その営みが本当なら、読むこと書くことには「解放」が訪れる。
「癒し」や「デトックス」や「号泣」を含む「解放」。
そんな解放がなかったなら、この人は決してアルコール依存から抜け出せなかったはずだから。
自分の弱さに寄り添ってくれる短編集なのだと思います。
ルシア・ベルリン 著/岸本佐和子 訳/講談社文庫/2022
この本は小説です。短編集。
著者はルシア・ベルリンというアラスカ生まれの女性。1936年に生まれ、2004年に亡くなっています。
知る人ぞ知る小説家だったらしいのですが、その作品たちが独特で、胸に迫り、確実に質の高いものであることから、理解者の輪が広がり、読者が増え、読者が読者を呼び、ついに日本でも翻訳され、文庫化されました。私も身近にいる人たちの声によって買って読む気になった一人です。
そして引き込まれた。
著者の体験が素材となり、それらの素材はざらざらして、決して心地いいものではないのですが、語り口がユーモアを帯び、人生の中の印象的な物語を一つの作品として掬い取っている。単なる体験談ならば先が読めてつまらなくなりそうですが、この人に限ってそんなことはない。ハッとさせる終わり方をして、納得し腑に落ちる。
例えば、著者の祖父や祖母の影響で、本人もアルコール依存に苦しむことになるのですが、物語が原因の追求には向かわない。悪者探しにもならない。それはおそらく、著者もアルコール依存者が通うセルフヘルプグループ(同じ症状で苦しむ人同士が理解し合い、支え合う場)の体験が濃厚にあるからなのでしょう。
依存症を克服した後には、刑務所で文章表現の教員もしていたという。そのときの話も出てきます。その結末は悲しいものでしたが、自分を表現することが初めてできた人たちの喜びは十分に伝わってきました。
どんな人生だって作品になる。どんな人にも固有の物語がある。この真実を体現した人。
そう、素材だったその辺にごろごろしているものたちが、語りの魔法にかかって物語に化ける。そしてその物語には、真実という宝石が掬われている。
多くの作家たちが励まされたという話も頷けます。
とにかく書いてみようという気になるから。
でも、決して真似はできないだろうとも感じる。真似たところで二番煎じですから、爆発力も落ちる。
「文体」のことを考えさせられました。それは「語り口」とも言えるのですが。
どうやってそれができるのだろう、と。
この作家に似た人をあえて浮かべてみたら、梶井基次郎と志賀直哉でした。でも、もちろん違う。
それぞれに固有の文体がある。
梶井にユーモアはなかった。結核という絶望の中の一瞬の光を絶えず求め、文章で掴み取ることができた。それでも生活は荒んでいた。
志賀は、もっとストイック。やはりユーモアというより鋭さ。酒を飲んでる暇なんてねえ、という職人気質(勝手に)。
「個性」が文章になったとき、「文体」と言われるのかもしれません。
じゃあ、個性ってなんだろう?
もともと、その人に備わっていたもの、なのでしょうか?
備わってはいても、発揮されなければ、その存在は隠されたまま。
じゃあなにが、個性を発揮させるのに有効なのか?
「詰め込み教育」でも、「イエスマンの養成」でもない。「ペーパーテストで100点を取る技能」でも、「就職で面接官に好印象をもたらすテク」でもない。
おそらく、多くの人たちが困ってしまうところ。
ルシア・ベルリンの文章を読むと、体験が(人が)受け止められている感覚がある。そしてその受け止め方が柔らかい。そこに、この人の文体の秘密がありそうに思います。
きっと、読んだ人の中にも、柔らかい受容体験が広がっていく。じわじわと、確実に。ざらざらした否定を飲み込んでしまう柔らかさで。
小説を読むことは、書くこともでしょうけど、個性化を促すことになるのだと、この小説を読んで学んだ。
そして、その営みが本当なら、読むこと書くことには「解放」が訪れる。
「癒し」や「デトックス」や「号泣」を含む「解放」。
そんな解放がなかったなら、この人は決してアルコール依存から抜け出せなかったはずだから。
自分の弱さに寄り添ってくれる短編集なのだと思います。
ルシア・ベルリン 著/岸本佐和子 訳/講談社文庫/2022
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