窯元日記復活

大和郡山城跡公園石碑「むら立ちて咲く蓮のはなそと濠の  たかいし垣に朝日照りつつ 耕平」

大和郡山にすんでいる人間は西公園で通じるのですが、「城下町マップ」をみると城跡公園になっていますが、石碑が建っています。
「むら立ちて咲く蓮のはなそと濠の
  たかいし垣に朝日照りつつ 耕平」
裏面には<土田耕平(1895-1940)長野県上諏訪町に生まれ島木赤彦 を師としアララギの編纂に従事し選者となる。昭和三年明石より大和郡山上箕山に住む。歌は第2歌集斑雪の郡山城跡作中の一首。書は奈良市疋田の家人上村孫作。柳沢郡山藩移封250年を記念して  昭和51年3月  柳沢文庫 >とあります。





「郡山城址三首
岡こえて城のみ濠は遠からず朝咲く蓮はすを見むとわが來し
濠のおもて咲きうづめたる蓮の花のさかんなる氣をたちてききをり
むらだちて咲く蓮の花外濠の高石垣に朝日照りつつ」
もう一首
「  郡山
秋暑き里に移りすみ養魚池の臭にほふ端居を妻とかなしむ」
もあります。


土田耕平とは?
「土田耕平作品集」と言うサイト hohrei.web.fc2.comから引用させていただいたのですが・・。
<歌人。童話作家。明治28年(1895)長野県諏訪市大和に生まれる。10歳で父と死別、18歳で母を亡くす。諏訪中学に入学するも3年で退学し、下諏訪小学校に奉職。この頃島木赤彦に逢い、以後師事して、歌を「アララギ」に発表。のち、私立東京中学に編入学。赤彦と同居してアララギの編集を手助けする。

中学卒業後帰郷して小学校に勤務するも間もなく罹病。療養のため伊豆大島に渡る。その後は諏訪、伊那、飯山、須磨、明石、大和郡山など転居すること30数回に及び「漂泊の歌人」などともいわれた。

不眠症、胃腸病、心臓症、腎臓病などを患いながらも、アララギや信濃毎日新聞歌壇の選者などに当たる。この間、童話集の「鹿の目」「蓮の實」「原つぱ」「夕焼」「裾野」、歌集の「青杉」「斑雪」を世に送り出す。

耕平の「清澄歌風は歌壇の注目するところ」となり、「写生を基調とした透徹した歌風」「赤彦の写生道をそのまま生かした作風」で青年層などに共鳴されたという。
耕平終焉の地
昭和15年(1940)、長野県飯田市鼎の寓居にて永眠。享年44歳。郷里の諏訪市大和寿量院の先塋の傍に葬る。没後、歌集「一塊」が未亡人、斎藤茂吉らによって編まれた。その後、遺稿集3巻(1943)、童話集(1949)、著作集4巻(1985)などが出版されている。

「下伊那はわれに三度の古里ぞ山に雪ふるを見つつかなしむ」 碑陰に刻む。

大和郡山市城址公園。昭和3年、この地の箕山に仮寓。のち帰郷して泉野に帰村。                           むら立ちて咲く蓮の花そと濠の
    たかいし垣に朝日照りつつ>
奈良をテーマにした句もも結構ありますね。
<歌集 「斑雪はだれ」     土田耕平 底本:土田耕平著作集第1巻 昭和60年 謙光社刊

  歌集 「斑雪はだれ」     土田耕平
            
            底本:土田耕平著作集第1巻 昭和60年 謙光社刊
            
諏訪温泉寺        大正10年 (1921)
上伊那 大正11年 (1922)
在京吟 大正10,11,12年 (1921~1923)
飯山にて             大正12年 (1923)
諏訪地藏寺        大正12年 (1923)
下伊那 大正12,13年 (1923~1924)
奧信濃 大正13年 (1924)
關西移居            大正13年 (1923)
妙法寺山居詠     大正14年 (1924)
須磨在住吟        大正14,15年 (1924~1925)
明石太寺             昭和2,3年 (1927~1928)
大和在住吟(1)             昭和3,4,5年 (1928~1930)
大和在住吟(2)             昭和5,6年 (1930~1931)
京都郊外            昭和7年 (1932)
大和在住吟(一)>


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「大和郡山」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事