奈良県立美術館『森川杜園展』をみて赤膚焼奥田木白のことを考えてみたいと思います。一刀彫りの森川杜園(1820-1894)と奥田木白(1800-71)杜園の20年先に生まれ明治4年に亡くなっています。
木白さんを勉強する中で、先学の研究で木白は能人形も得意分野に入っています。今回の展覧会できになったものをご紹介します。
杜園が奈良人形の制作を始めたのが天保8年(1837)18歳といわれています。出世作となったのが嘉永2年(1849)奈良奉行所与力・橋本政方の依頼で還暦を祝う記念品として制作依頼された「後高砂」38体が分っているそうです。ところで「後高砂」と言う演目があるのかと思いますとそうでは無く、有名な尉姥 と「高砂やこの浦舟に帆を上げて」 が私の中でも残ってますが、後半の住吉明神(後シテ)がこの姿だそうですね。橋本の箱書きで「金春大夫に要請して同家に伝わる衣装を着けて舞姿」を書写したようですが、展覧会では5体ケースに並んでいます。30センチ以上ですが1体だけ22センチと小振りです。4体は卍文がありますが、1体だけ異なった文です(NO.12)。
嘉永4年(1851)まで作られているようです。
(杜園展カタログから)
一方奥田木白は町人出身で天保7年(1836)に楽焼きの四季茶盌を奉納しています。天保10年(1839)には金銀釉の技法を学んだそうです。
近年大和郡山市のコレクションに入ったのが木白印の「後高砂」です。14センチと小さいのですが明らかに杜園との関係が思い浮かびます。次回はもう1点紹介します。