窯元日記復活

赤膚焼研究  奥田木白作『交趾(こうち) 釉駅鈴香炉』

赤膚焼研究  奥田木白作『交趾(こうち) 釉駅鈴香炉』を取り上げます。



交趾とはベトナム地方のことなんだけど、日本では中国南部から南を読んでいたみたいですね。本焼きした素地に色釉を掛けていますね。京焼でも幕末から盛んに焼かれていますが、木白さんの作品としては交趾釉駅鈴は2点知られてますが、他の産地では知れません。ご教示いただければ幸いです。駅鈴は古代のものですが、本居宣長のコレクションにありますね。このために、松坂や中国にも出かけることになりました。
次回につづく。



交趾(こうち)は「ベトナムの古名。交阯とも表記される。古代中国人がその南方の地を北の幽都の対句として交趾と呼んだ例は,《墨子》や《韓非子》にすでに現れる。しかし現ベトナム北部が交趾と呼ばれるのは,前漢武帝が南越を征服し9郡を置いた中に,交趾郡が置かれたのが初見である(前111)。交趾郡はその後領域に種々の変化はあっても,ほぼ唐初に交州と改められるまで存続する。その後も交趾県の名は唐末まで残る。独立後も中国はベトナムを交趾と呼び,975年ディン・ボ・リン(丁部領)を交趾郡王に封じたのをはじめ,12世紀中頃までこの称号が王または王嗣に与えられた。 」(出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版)

交趾焼は「もとは交趾産の陶器という意味であるが,おそらく桃山・江戸初期に交趾通いの交易船が運んだ陶器のことで,実際には中国南部で焼かれた陶器が多いと考えられている。最も有名なものは茶人が珍重する交趾香合で,緑・黄・紫などの鉛釉でいろどった,さまざまの形の三彩香合であるが,すべて広東付近の製品ではないかといわれている。また三彩の鉢や皿で,明後期の中国南部産と考えられるものもあり,華北産の明三彩をこの名で呼んだ例もすくなくない。 」(出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版)

駅鈴→「日本古代の駅伝制で公務出張者や公文書伝送の駅使らに駅馬利用の資格証明として貸与された鈴。駅鈴には身分によって利用しうる駅馬の頭数を示した剋(こく)という刻みがあったといい,親王・一位に10剋,二~三位に8剋,四位に6剋,五位に5剋,六~八位に3剋,初位以下に2剋の駅鈴が貸与されるが,隠岐国造(おきのくにのみやつこ)家に伝わる八稜鈴には刻みがないので正しいものか否か問題になっている。あるいは大和朝廷時代から律令時代初期までは実際に刻みがあり,やがて刻みをやめて剋数を記した書類を添付することにした可能性がある。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版」


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