朝がまた来る

旧ブログ名「母のようになりたくないのに」です。
毒親、ママ友、育児、病気のこと…40代パート主婦が呟いています。

息子と過ごした4週間①

2024-12-10 21:37:35 | 子育てのこと

今年の夏休み、息子が一時帰宅をしました。

迎えは夫が行きました。「新幹線や高速バスで帰ってくるのはつまらない。」という事で、“青春18きっぷ”を利用して普通電車を幾度か乗り継ぎ帰ってきました。

「いま息子を回収した。これから帰還します。」

「〇〇行の電車に乗ったよ。ボックス席が新鮮。」

「駅そば食べたよ。」

「乗り換えでのためダッシュしました。」

都内に入り、最寄りの路線に乗り換えるとまたLINEが届きました。

「息子、目が潤んでます。“泣きそう”だって。」

添付された写真の息子は笑顔でしたが確かに目が潤んでいました。

 

「ただいま!!」

うわー!変わってない!うわー!懐かしい!うわー!うわー!うわー!

興奮気味の息子。600数十日ぶりの我が家です。

「おかえりなさい。手を洗ったら、おじいちゃんにも帰ってきたことを報告しなさい。」

手洗い、うがいを済ませた息子がお仏壇へ向かいます。

大好きなおじいちゃんの遺影を見た瞬間。

息子は声をあげて泣きました。

私は息子を抱きしめてもう一度「おかえりなさい。」と言いました。

 

ブログをご覧いただきありがとうございます。

本来なら家庭復帰までのプロセスは「面会→外出→数日の外泊」を繰り返して慣らすそうですが、施設側の後押しもあり「思い切って夏休みは丸っと一時帰宅してみましょう。」となりました。前例のない長期一時帰宅に児童相談所は難色を示していましたが「週に1回児相と面談をする。」と約束をして実現できました。

息子と相思相愛だったおじいちゃんも喜んでいたと思います

我が家は毎年夏の間、電気代(エアコン)節約のため家族全員リビングに布団を敷いて寝ています。

息子が帰ってきて久しぶりに家族みんなで横になって(さすがに“川の字”にはなれませんが。←狭くて

毎年やってたことなのに何だか修学旅行の夜のような気分でした


娘としての最後の務め。

2024-11-21 17:12:37 | 毒親のこと

桜の見ごろも終わったころ、見覚えのある市外局番からの電話がありました。

母親関連の電話だろうとすぐにピンときました。

いつもなら着信と共にスマホの画面には「〇〇市 社会福祉課」とか「生活保護課」などの相手先が表示されるのに、その着信には電話番号だけが表示されていました。

電話に出ると相手は不動産屋さんでした。

「〇〇〇〇さんの娘さんですか?」

「昨日、社会福祉課の方が自宅訪問に来られたそうですが、お母さんに会えなかったそうです。」

「電話も何度もかけてるそうですが出ないそうで…」

「1人暮らしの高齢女性のため、念のため部屋の中を確認したいのですが、娘さんはお母さんと連絡が取れますか?」

スマホを持つ手がどんどん冷たくなっていきました。震えていたかもしれません。

何年も母と連絡を取っていないこと、現在母がどこに住んでいるか知らないこと、私の許可などなくても母の部屋に入ってください。何かあればまた連絡ください。と伝えました。

数時間後。

またスマホが鳴ります。先ほどと同じ市外局番です。

しかし今度は相手先の名前が表示されました。

「〇〇市警察署」

その時、全てを理解しました。

 

母は布団の上で眠るように亡くなっていたそうです。

部屋を荒らされた形跡もなく、また亡くなって数日程度しか経過していなかったため身体はきれいな状態だったそうです。

遺書や服用していた薬の散乱などもなかったため、自ら命を絶ったわけではないとのこと。

 

娘としての最後の務めを果たす時がきました。

夫は「俺も何か手伝うよ。」と言ってくれましたが丁重にお断りをしました。子ども達にも全て終わってから伝えることにしました。

「あなたはいつも通りでいいの。職場にも伝えなくていいよ。」

“嫁さんの遠い親戚のおばさんが亡くなった”くらいの感覚でいて欲しかったのです。

私も職場には伝えませんでした。(今年から扶養を抜けて働いています。)そもそも結婚してから知り合った人全員に「母は亡くなっている。」と話していたからです。

不動産屋さん、警察、社会福祉課、葬儀会社…

ひとつひとつきちんと向き合いました。精一杯の対応をしました。

数日後。私は母の遺骨を抱いて葬儀会社に出向きました。

母の遺骨を散骨すると決めたとき、葬儀会社の方から「散骨の希望海洋域はありますか?」聞かれました。母の生まれた故郷近くの海洋域をお願いしました。しかし遠方のため、私は船が出向する港まで行くことができません。

ここで母とお別れです。私はこの時初めて涙かこぼれました。

“お母さん”

白い骨覆いを何度もさすりました。

 

最後にもうひとつ、しなければいけない手続きがありました。

相続放棄の申請です。

聞こえ良く言えば「私が母からきちんと卒業するため。」率直に言えば「私と私の大切な家族に降りかかる火の粉を払うため。」です。

相続放棄の申請には様々な書類が必要でした。

取り寄せた戸籍謄本を見ていた時、母がいつ生まれて、いつ結婚して、いつ引っ越して、いつ離婚して、いつ亡くなっての歴史はもちろん、私自身の歴史も記載されていました。私がいつ生まれて、何日に役所に出生届を出したのか…

お母さん。

私が生まれた時どんな気持ちだった?

お父さん。

私の出生届を提出した時どんな気持ちだった?

たった3人しかいない家族だったのに、なんでこうなっちゃったんだろうね。

 

母の遺骨を葬儀会社に託してから数週間後。

散骨の様子を収めた写真が届きました。

色とりどりの花びらと共に真っ白な母の遺骨が海に流れていました。

 

お母さん。

やっと自由になれたね。

生きる苦しみから解放されたね。

お疲れさまでした。

 

ブログをご覧いただきありがとうございます。

やっと吐き出すことができました。

相続放棄の申請が受理され、子どもたちに“ママのお母さんが亡くなった”と話しました。(偶然にも息子が一時帰宅をしていたので家族4人揃った状態で話す事ができました。)

今までもそうでしたが、私は子ども達に「母に対する私情」を話しません。“ママが経験した出来事”だけを伝えています。「まぁ~、そんなことがあったけど、今はこうしてあなたたちの“ママ”だし。」と。

「母」は腫物のような存在ではありませんでしたが、子ども達は私の母の事を「おばあちゃん」と呼んだことがありません。「ママのお母さん」と呼んでいます。

母は私に「あんたいまそうやって“私はいま子育て頑張ってます”みたいなこと言ってるけど。私(母)よりももっとひどい目にあう。」と呪いをかけたのでその報いだと思っています。(もちろんこの呪いのことを子どもたちは知りません。)

お母さん、私は負けないよ。

その呪いから解放されるまで負けない。


息子の話⑥

2024-03-03 15:49:20 | 日記

児童相談所や特性を持つ子供の悩み、生きづらさを題材にしたドラマや小説、漫画が多数あります。

私も何冊か読みました。時には参考になったり、時には励みになったり…

しかし今回息子が児童相談所に保護をされ、“当事者”となった時。

あぁ…ドラマや漫画の世界はフィクションなんだな。と痛感しました。

息子と会えなかった270日以上の間、打ちのめされっぱなしでした。ボディーブローがジワジワと効いてくるかのように、立ち上がる気力が失われていきそうになる感覚でした。

 

「子どもを一定期間家庭から離して生活させる。」という処遇が決まりました。

その際、私たち夫婦は「施設に入所させるなら“児童心理治療施設”を希望します。」と伝えました。

児童心理治療施設とは心理的問題を抱え、社会生活への適応が困難な子どもたちを対象として入所や通所を行う児童福祉施設です。

そして、何故かこの施設…東京にはありません。

児童相談所の職員さんは「児童心理治療施設への入所は稀なケースです。」「受け入れてくれる施設があるかどうか…」と渋りに渋りました。

「ならば見つかるまで待ちます。それまで一時保護をお願いします。」私も折れません。

「息子を受け入れてくれる施設があるなら、北海道でも沖縄でも、飛行機に乗ってだって会いに行きます。」私は絶対に折れませんでした。

それから約2か月後。息子を受け入れてくれる児童心理治療施設が見つかりました。

東京の我が家から数百キロ離れている場所です。

距離の長さなんてどうだっていい。

あとは息子との心の距離を確かめるだけです。

 

それからさらに1か月半後。

273日ぶりに息子に会う日がきました。

娘も一緒に家族3人で会いに行きました。

息子は面会室のドアの入り口で隠れるように泣いていました。声をあげて泣いていました。

私たちも込み上げるものをグッとこらえて「顔が見たいから入っておいでよ。」といつも通りの振る舞いを心掛けました。

273日ぶりの息子は痩せてもなく、太ってもなく。背は少し伸びたかな?

それよりも…

「髪長っ!」夫と同時に発しました。

なにその長髪!?伸びたマッシュルームカット…ちょっと昔のふか〇りょうみたい!!

家を出る前は一人で床屋に行けるようにもなり「かっこよく切ってください」とお願いしてソフトモヒカンに仕上げてもらっていたのに。

児童相談所の職員さん曰く「短くするとかっこ悪い」という理由で散髪をさせてくれないのだとか。

273日も親に声も顔も見せることが出来なかった息子。

家を飛び出した事に対してもそれなりに反省している…と聞いていました。

まさかこんな大事になるとは思わなかったでしょう。(そりゃこちらも同感しかない)

まさに「親に合わせる顔がない」状態だったのかもしれません。

怒られるかもしれない。

捨てられるかもしれない。

不安の塊が涙となって溢れて、声を上げて泣いてしまった。面会室に入室する勇気もでない。

ところが、私たち親の開口一番が「髪長っ!」

息子の涙も引っ込みました。

それから約1時間の面会時間。

いつも通りの家族の会話が弾みました。

娘は息子の長くなった髪を結わいて遊んでいました。

あっと言う間の1時間。

次、息子に会う特は数百キロ離れた施設です。

息子は「このまま帰りたい。施設に行かなくちゃいけないんですか?」と職員さんに尋ねていました。

職員さんは無言で頷くだけでした。

「ママたちずっと待ってるから。」

私は息子のサラサラの髪をなでながら言いました。

「会いにいくから。頑張っておいで。」

「手紙書くね。あなたもお手紙ちょうだい。老眼が始まってるからなるべく大きい文字で書いてね。」

「家に帰ってくる時は車で迎えにいくから。」

「ずっと待ってるからね。」

もう息子は泣きませんでした。

手を振りながら笑顔で面会室から退室していきました。

 

ブログをご覧いただきありがとうございます。

この日から息子の第二章が始まりました。

息子は修行に出たと思っています。

「あの子、今日も修行頑張ってるかな?」と家庭でも話しています。

毎朝息子のいる地名の天気予報を確認するのが日課です。


息子の話⑤(お詫び)

2024-02-25 23:01:40 | 日記

ブログをご覧いただきありがとうございます。

息子についての話ですが…

学校とのやりとりを書こうとすると情けない話ですが…気分が落ち込んでしまします

息子が家を出てから何月何日にどこに出向いて誰とどんな事を話し合ったか、何処に電話をしてどんな事を伝えたか。

時系列の詳細を書き残したノートがあります。

学校とのやりとりも書かれています。

担任の先生に質問したこと。

教頭先生にお伝えしたこと。

そして校長先生から言われたこと。

おそらく学校とのやりとりを…ここに何を書いても誰も幸せになれないと思いました。

“ちょっと聞いてくださいよー!!”と言う気持ちで始めたブログですが、学校とのやり取りは吐き出しても誰も幸せになれません。

娘にとっては思い出の学び舎ですし、息子にとっても数年間お世話になった場所です。我が家の子ども達の社会の始まりの場所です。

なによりも、私がもう思い出したくない。振り返りたくない。

本当に申し訳ありませんが学校とのやりとりについては控えさせていただきます m(_ _)mスミマセン

前を向いて歩きたいのです。

 

ブログをご覧いただきありがとうございます。

先日息子に会いに行きました。

家族そろって会いに行くのが難しい時は私ひとりで夜行バスに乗って会いに行きます。

バスタ新宿が出来て、夜行バスの乗車も便利になりました。

初めて夜行バスに乗ったのが25歳の時。

銀行から借り入れていたローン(母から頼まれて借り入れたローン)が完済した記念に一人で京都に旅行に行きました。“思い切ったことをしちゃった!”とワクワクしてバスの中で全然眠れなかったのを覚えています

 


息子の話④

2024-01-27 16:37:47 | 子育てのこと

息子が警察に保護されてからどうなったかと言うと…

警察署で親子別々の事情聴取→息子は児童相談所の一時保護へ→児童相談所で面談→家庭訪問(この時娘も面談しました)→児童相談所で面談(約2か月に1回程度)→息子の処遇が決定→273日ぶりに息子に会う

このような段階を踏んで現在に至ります。

あまり詳細は書けませんがこの273日間は色んな感情がグルグル日替わりでやってきて…白髪が増えました。眉毛まで白くなりました

ちなみにこの273日間、息子がどこにいるのか、毎日何をしているのか、これからどうしたいと言っているのか、これまでのことをどう思っているのか…

息子の様子を聞けるチャンスは2か月に1回あるかないかの児相の面談の時のみでした。

ところが児相の担当者さんはとても忙しく、面談の日程がなかなか決まりません。いつ電話しても「席を外しています」と言われます。そして児相の担当者さんは何故か児相がの閉庁するギリギリの時間に(しかもこれまた何故か金曜日)電話をかけてきて留守電に「またお電話します」とだけメッセージを入れてくれます。何の要件についての連絡かはメッセージに入れてくれません。かけ直しても児相は既に閉庁…電話を受け付けてくれません。さらに金曜日…土日を挟んで月曜日に改めて電話をすると「席を外しています」…このやりとりが繰り返されます。

 

警察署の対応はというと。

“事情聴取”と書きましたが、当時私は児童相談所に提出した最近の息子の様子を書きまとめたレポートを持ち歩いていたため、少年課のお巡りさんにも「話すと長くなるのでこれを読んでください」と提出しました。息子が警察に保護されたというとんでもない状況なのに、やけに冷静でいたことを覚えています。

その後息子が児童相談所に一時保護されている間も時々少年課のお巡りさんから電話がかかってきました。

「息子さんの様子はどうですか?」と。

えーーーーと…こっちが聞きたいくらいなんですけどという言葉をぐっと堪えて。

私は毎回「◯月◯日に児童相談所に行ってきました。何々についてお話してきました。」と少年課のお巡りさんさんに報告。

お巡りさん「そうですか。またお母さんに電話します。」

273日の間、このやりとりが3回ありました。

息子の処遇が決まった事を報告すると「じゃあお母さん、警察からの電話は今回が最後ですから」

お茶漬けよりもサラサラっとあっさり具合で終わりました。

警察↔️児童相談所の連絡のやりとりは一切なかったようです。

 

そして学校の対応。

息子が多くの時間を過ごしてきた場所です。

息子の“社会”の大半をしめている場所です。

ここが一番大切。

ここと一番しっかり話し合いたい。

ところが…

学校が一番ガックリしました

 

ブログをご覧いただきありがとうございます。

お正月から胸が痛むニュースが続きます。

報道で見るニュース以外にも悲しい出来事があった1月でした。

30年以上の付き合いがある大切な友が空へ旅立ちました。

お寺のご住職が「先に旅立った人に再び会うために、たくさんの徳をつんで、たくさんの土産話をもっていきましょう」と仰っていました。

いつかまた友と再会したとき、“すべらんなぁ~”と言ってもらえるようたくさんの土産話を用意しなくちゃ。