あゝりんどうの花咲けど(昭和40年9月号P127~135)
※はじめて玲子を見たとき、佐千夫は吸いかけた息をとめた。濃いまつげにかこまれた
玲子のひとみに、窓外の景色が流れていた・・・・・。
今回は、【あゝりんどうの花咲けど】編集版 第1章(P9~P11)【2】P130~P130の紹介です。
人に席を譲るのは、簡単である。慣れてもいる。老人や赤ちゃんを背負った母親や病人らしい人が乗ってきた
とき、自然に佐千夫のからだは浮いた。しかし、相手が女子学生である場合、しかもそれが
美しい人である場合、それは勇気のいることであった。
(親切の押し売りと思われはしないか、それを口実に近づこうとしていると疑われやしないか、あいつうまいこと
やった、と、他の少年が思いはしないか)佐千夫はためらった。たしかめるように少女をうかがった。
少女は、目をつむっていた。長いまつげが、下のまぶたにかかっている。顔をしかめているようである。制服の
胸が、早く大きく上下していた。(勇気とは、こういうとき、人のおもわくなどを気にせず、信じるところにしたがって
行動することではないか)
佐千夫は、立った。ぎこちない動きであることは、じぶんでもわかった。少女にぶつかりそうになった。少女は
目をひらき、からだをおこした。少女の横のだれかが、佐千夫が降りるために立ったものと早合点したか、すばやく
わりこんで席をとろうとした。佐千夫は腕をのばしてそれをとどめ、少女に言った。「腰かけませんか」少女は顔を上
げて佐千夫を見、そのときはじめてふたりの目はあった。少年がじぶんの苦しさを救おうとして立ったのであることを
、玲子は知った。玲子はそのときはもうふらふらになっていて、つり皮にぶらさがっているのがようやくだった。
「ありがとう」玲子はじぶんの声があまりにも弱々しくて低いので、少年にきこえなかったかもしれぬと思い、かさね
ていたのも、いつものとおりであった。言った。「すみません」「さあ」位置が入れかわり、玲子は座席にからだを沈め
た。佐千夫はじぶんの行為に羞恥をおぼえて、顔をほてらせていた。そのまま玲子は上体をかがめて額をおさえる。
佐千夫は、立っている人々の圧迫が少女におよばないための防波堤になった。少女のえり足の白さが、佐千夫の
目を射た。あわてて目をつむった。
腰かけてから、玲子はいくらか楽になった。用心しながら、呼吸をととのえはじめる。立っていたときには感じな
かつた風が、こころよくほおをなでる。胸のむかつきも、おさまりつつあった。けれども、まだ市内までは遠い。気を
つけねばならない。それに、席をゆずってくれた少年は、前に立っている。できるだけ玲子の前の空間をあけようと
努力している善意が、あきらかだった。一瞬視線が合ったときのひたむきな少年の目も、まだ玲子の胸に余韻を
残している。玲子は顔を上げ得なかった。ふたたび少年と目の合うのが、はずかしくもあった。やがてバスは市内
に入り、終点に着いた。玲子が降りたとき、あたりにはもう少年の姿はなかった。玲子はそろそろと学校へ歩み出し
た。それはある朝の、ささやかなできごとにすぎなかった。ありふれた話であった。けれども、少女のいたいたしい
表情は、佐千夫の胸にやきついていた。(きれいな人だったな)玲子の心にも少年の親切は忘れがたい思い出
として残った。(あの人がいなかったらわたしは醜態を演じていたにちがいない)それはその次の日のための、
ひとつの前ぶれであった。
次回は、【あゝりんどうの花咲けど】編集版 第1章(P11~P13)【3】P30~P33を紹介します。