31.戦下の宮古島(続き−2)
以下、瀬名波栄氏著の「先島群島作戦(宮古島)」から抜粋・参照した。
31.2.英艦隊による砲撃
沖縄戦線
昭和20年5月、この頃の沖縄戦局は激しさを増し、米軍の先鋒は第32軍司令部の立てこもる首理城に迫りつつあった。
日本軍は戦略持久の方針を堅持して、昼間は洞窟内に潜み、夜間斬り込みによる肉拍攻撃を反復強襲する。
戦車に対しては爆雷を抱いての体当たり攻撃を行い、敵上陸軍に被害を与えた。
しかし物量を誇る米軍の猛攻に抗しきれずに、次第に後退し、島の南部地区まで追いつめられつつあった。
第32軍は5月4日九州、台湾からの特攻に呼応して首里前線一帯に於て一大攻勢を実施した。
しかし、陸海空からの米軍の猛砲火に阻まれ、死傷者が続出し、この攻勢は1日で中止せざるを得なかった。
日本軍はそれ以来、積極的な攻撃は中止して、専ら防御戦に終止した。
6月23日未明に第32軍の牛島司令官と長参謀長が自決したことにより、組織的戦闘は同日に終結したとされている。
しかし、その後も沖縄本島以外の各島や本島内でも局地的には引き続き戦闘が行なわれており、南西諸島守備軍代表が
降伏文書に調印したのは、9月7日のことである。
英艦隊艦砲射撃
<英軍太平洋艦隊>
第32軍が攻勢に転じた5月4日宮古島は英太平洋艦隊による艦砲射撃を蒙り、島中が震撼した。
この砲射撃を実施したのは沖縄作戦で先島方面の哨戒攻撃を担当したローリングス大将の指揮する英太平洋艦隊(戦艦2、巡洋艦5、駆逐艦11、計18隻)であった。
英艦隊の宮古島近海に接近の報は同日早朝関係部隊へ伝えられたが輸送船を伴なわないところから推して、上陸作の恐れなしと判断された。
この日は連日の空襲もピタリと止み 、敵機がさかんに上空を旋回しているのが目撃された。
敵艦隊接近の報は一般住民に知らされなかったため、人心の動揺は見受けられなかったが、何かあるなとの予感が湧き上がっていたようである。
その予感は現実となった。
午前11時頃宮古島西南方数マイル沖に出現した英艦隊は同15分、一斉に砲門を開きおよそ30分にわたって385発の巨弾を宮古島の三つの飛行場(中、海軍、西)に撃ち込んだ。
殷殷たる砲声と巨弾の炸裂音は全島を揺るがした。
事情を知らない一般住民が艦砲射撃の後に、敵兵の上陸が始まるとばかり、色を失ない、慌てて防空壕に逃げ込む者、家族相ようして死を覚悟するなど、不安動揺が著しかった。
英艦隊は閃光を放ちながら悠々と射撃を続け、しばらくして南方へ姿を消した。
集団司令部では各種の情報通備を総合した結果、単なる威嚇射撃域を出ないと判断していたので、城辺町の友利砲台(14糎海軍砲2門)及び喜手刈入江砲台に対して応射を禁止した。
これは敵上陸前に砲台の位置が暴露されることをさけるためと、敵の射撃が緩慢でさしたることはないと判断したのによるものだった。
この艦砲射撃は島民に大きなショックを与えたが、損害は軽微に止まった。
中飛行場に落下したもののうちには不発弾がかなりあり、想像していたような破壊力は発揮せず、結果的には一種のコケ脅しに終った。
早朝から上空を旋回していた敵機は弾着の観測連絡にあたっていたもので 、艦隊の避退にともなって退去した。
最初にして最後の艦砲射撃であったが、一時は上陸の前ぶれではないかと色を失なわしたものである。
ある資料によれば沖縄で日本軍が攻勢に転じた戦局の局面新展開に応じ、連合軍が日本軍の関心を宮古島に向けさせるための云わば一種の陽動作戦とみてよいようだ。
これについて陸路参謀は製後の回想で
「当時の状況では機動部隊が輪送船団を伴なわないからと云って直ちに上陸の算なしと断定することは出来なかった。
従って或いは敵が上陸を企図しているのではないかとの見方も強かった。
私自身も輸送船団が後方からついて来る公算が大きいとして一時は真剣にその対策を考えていた、司令部の空気はかなり緊迫していたように覚えている」
と述べている。
宮古島攻略作戦中止
4月26日米太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督は宮古島攻略作戦の無期延期を命じた。
米軍の南西諸島方面攻略の段階は
第一段階 沖縄本島南部(慶良間島および 良間列島を含む)攻略
第二段階 伊江島の攻略、沖縄本島北部の制圧
第三段階 沖大東馬、久米島、宮古島、喜界島、徳之島の攻略
に分けられていた。
第三段階では久米島だけが航空警戒網拡大のため6月26日米軍が上陸したが、その他の攻略作戦は実施されなかった。
宮古島などの攻略を延期した理由は次のようである。
沖縄本島に上陸後に米軍は、沖縄本島を偵察し、長距離爆撃機(B29)の飛行場適地があることを、ニミッツ大将に報告した。
これによりニミッツ大将は統合本部(会議)に宮古島攻略中止を提言し、4月26日に攻撃の無期延期が通知されたのである。
なおこのほかに第三段階作戦使用に予定されていた第五海兵軍団が硫黄島作戦で甚大な損害を受けたことも多少原因するかと推察される。
このような米軍の南西諸島攻略作戦が変更されたことは大本営はもとより現地軍側の窺い知るところとならなかったので、先島集団では米軍の上陸を予想して戦術を急いでいた。
31.3.先島集団を第10方面軍直轄に
空襲は5月一杯も間断なくつづけられ、資料によれば同月の来襲延べ機数は二千を越えた。
この頃からは市街や非軍事施設に対する無差別爆撃が本格化し、非戦闘員や家畜の被害が目立つようになった。
平良の市街は連日の集中爆撃と民家や公共建物の一部が兵に充てるため取り壊されたため、 周辺部の一部を残し、殆んど破壊又は焼失し、廃墟と化していた。
沖縄の戦闘は5月下旬に入るや絶望的な様相を呈し、第32軍司令部は27日に首里を放棄して南部に落ち延びた。
大本営では第32軍の先島集団に対する指揮能力は事実上喪失したものと認め、指揮系統の混乱を防ぐため、30日先島集団を第32軍の指揮下から外し、第10方面軍(台湾)司令官の直轄とした。
同時に大東島守備隊(歩兵第36連隊基幹、田村権一大佐、19年7月第28師団の隷下を離れて第32軍司令官の指下に入る)は7月4日(別資料によれば6月7日)第28師団に復した。
又海軍警備隊も5月30日を以て沖縄方面海軍根拠地隊(大田実司令官)から離れて高雄海軍警備府司令長官の指揮下に入った。
乙戦備下令、兵力を集結
先島群島に対する米軍上陸の懸念は5月から6月一杯つづいた、第32軍は5月18日米軍の増援部隊に関する中央の緊急放送として次の参謀長電を先島楽団に通報した、
諸情勢ヲ総合スルニ敵ハ沖縄方面ノ現戦況二関連シ二十日前後沖縄本島方面二対シテ強力ナ増援乃至奄美大島就(なかんずく)喜界島状況ニヨリ先島方面等二新二上陸ヲ開始ノ算大ナリ、ソノ兵力ハ二箇師団内外ト算定ス
海軍側も5月15日南西方面に敵が新たなる作戦を開始する兆候があることを認めている。
この報に接し奄美地区では全地域に甲号戦備を下令、対陸上戦闘を準備したが、先島集団では特別の措置をとらなかった、20日になって沖縄本島に対する増援の動きと判明、上陸の危機は回避されたが、6月に入るや敵の先島方面に対する上陸の動きが顕著になってきたので、第8飛行師団ではこれに備えるため、沖縄に対する航空作戦を中止し、兵力温存をはかった。
先島集団では敵の上陸乃至は空挺部隊による宮古島攻略の企図が濃ゆいとして6月2日乙戦備(準戦争状態)を下令した。
麾下各部隊は洞窟陣地の整備、弾薬、糧秣の洞窟陣地搬入、戦闘準備などを強化、敵来功に備えたが、この時点では未だ陣地構築は所望の域に達していなかった。
納見集団長はこれ迄の島嶼防禦戦の戦訓などに徴し、兵力の分散配置は徒らに各個撃破を招き、持久の目的に副わないとの判断から伊良部島の独立混成第59旅団主力を宮古島に移動させ、兵力の集結をはかった。
これは集団長の決断によるもので、配置変更後第10方面軍指令官に報告しただけに止めたようである。
先島集団の防禦戦法については集団長に一任され、第32軍及び方面軍は極力干渉や指示を避けた。
従って兵力の配置転換は集団長の裁量に委され、人事についても臨時的な措置は如何なることでもその権限内で行使することが出来たようである。
<壕堀りに精出す司令部職員>
6月の空襲
6月中における宮古地区に対する空襲状況は次の通りで延べ2000機を越えた。
1日〜10日迄 833機
11日〜14日迄 370機
15日 60機
18日 84機
19日 66機
20日 60機
21日 100機
24日 58機
25日 6機
26日 44機
27日 10機
29日 43機
30日 39機
敵の攻撃目標は主として飛行場に向けられたが、一部は陳地、兵舎、民間建物、部落等にも向けられ、人畜の被害もかなり出るようになった。
22日第32軍との通信連絡は牡絶、沖縄戦の終末近きを思わせた。
31.4.長期自給態勢を確立
<軍民力を合わせての食料増産作業(藷作り)>
<精米作業場>
<甘藷で作った代用食を試食する軍幹部>
先島集団が宮古島で当面した問題のうち食料の自給態勢の確率は一日もゆるがせに出来な い重要性をもっていた。
宮古群島には一番多いときでおよそ7万数千名近くの人口を記録したが、戦争の拡大にとも なって招集・徴用、島外疎開などが急速に行なわれた結果、集団主力進駐後10月頃は6万名足らずになっていた。
然しそこには3万名の陸海郡将校が加わったため、人口はおよそ9万名近くにふくれ上り、これだけの人員の食料をどうやって調達するかが大問題であった。
集団は進駐当時、当面の需要をまかなえる糧秣を携行、更にかなりの量の追送を受けたので、主食の面では20年3月20日現在、精米及び玄米3,222トンを保有、定量一人あたり1日750グラム支給(支給人員は終戦時の調べで2万5千名、海軍は別)するとして5ヶ月間は維持できる計算になっていた。
然し7月以降敵の攻撃の重点が本土に向けられ、戦いの舞台は沖縄を通り越して本土へと移っていった。
このため先島群島は戦闘の焦点から外され、取り残された感が強くなってきた。
事実これを裏書きするかの如く開断なく続いた空襲は7月以降小規模且つサミダレ式となり、1日に36機、2日40機 、15日5機、29日18機に減少、一機も姿を見せない日もあった。
集団では敵上陸の危機は去ったと判断、軍民の間にはようやく生色を取り戻した。
然し戦いは何時果てるとなく続き、今度は飢餓と戦わねばならなかった。
集団の保有糧秣のうち63%は上陸後10月迄の間に追送されたものだが、11月以降は殆んど補給が社絶えたため、手持ち食糧の食い延ばしと自活による食糧の現地調達を強化する必要に迫られた。
舟艇や機帆船による台湾からの糧秣、軍需品の輸送も考えられたが、敵哨戒機の見張りが厳重で成功する率は極めて少なかった。
宮古島では水田が乏しいので、主食の米は台湾からの輸送に仰ぎ、昭和15年米の配給制実施以来、非農家成人1人当り1日平均二合三勺の配給量が確保されていたが、海上交通が危険になるに伴なって輸送が社絶え、19年7月以降の配給量は1人一合八勺足らずとなっていた。
配給業務は食糧営団が扱っていたが、20年3月以降は空襲の激化で、配給業務は事実上停止状態となった。このため同月以降は非農家も主食を甘藷に依存するようになり、主食に占める甘藷の比重が絶対的となったが、日中は敵が常時上空に所在していたため、農耕に支障を来し生産は思うように進まなかった。
集団では進駐以食の代用としての甘藷に着目、宮古支庁・各町村・農業会などの協力を得て民有畑の一部を供出させ、農耕班・漁労班などを組織して甘藷・生野菜の増産、魚介類の入手確保につとめる一方大野山林内に製紙工場、伊良部島に二カ所の製塩所、野原越に織物工場などを開設、自給自足につとめたが、所期の成果があがらず、ただ塩のみが講要量の60%を充足する程度に止まった。
集団の将兵は上陸以米飛行場造り、陣地構築、教育講線などに苛酷な労働を強いられ、給 養の低下、居住条件の悪化、医薬品の払底などの悪条件が重なり、栄養失満、マラリヤ患者が続出、陸軍関係の戦没者2,409柱の大部分が栄養失調、マラリヤなどの悪疫によるものだった。
このような将兵の体力低下は戦力を著しく減殺するものとして集団でもその対策を重視、更に長期駐留に備えて食糧の自給自足に本腰を入れることになり、左のような方針を立てて主旨の徹底につとめた。
幸いに7月からは空襲も小止みになり、日中の農耕作業も可能になったので、軍民の総力を挙げて自活態勢強化に取り組み、民間人にまじって甘藷の植付け、畑の手入れに精出す将兵の姿が散見され、成果があがるようになった。
<続く>