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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−197(小笠原長雄)

61.戦国の石見−4(続き−7)

61.4. 尼子・毛利の対決(続き−3)

61.4.6.小笠原長雄

天文11年(1542年)4月、第12代石見小笠原氏当主小笠原長隆が没し、その子小笠原長徳が第13代当主となった。
                                                      
長徳は天文12年広瀬富田城攻めに大内方として参戦する。

長徳は天文16年(1547年)8月に没する。

この長徳のあとを小笠原長雄が継ぎ、石見小笠原氏第14代当主となった。

母は福屋氏の息女。

丸山伝記によると

第十四小笠原弥治郎(弾正少弼に任ぜらる)長雄

妻は吉川の息女なり

嫡男 千代童丸 大蔵少輔長旌

次男 次郎左衛門尉大膳大輔長秀

屋敷、三原古屋に居住す
一男二男(早世) 女子二人、 小原浄土寺、 井田竜蔵寺室なり

三男 掃部助元枝

三原徳森に居住、この元枝は五人張の強弓なり、この弓勢は先年宍戸の息女大宝女よりの弓勢大力の血脈伝 はる、去る五月十六日三原住吉大繩手に、牛にて田をすく時、 丸山の二ノ丸より元枝五人張の弓に大雁俣の 矢にて射給ひ、鋤のたてつく元くり射折り給ふなり、牛遣ひ肝を消し牛を捨てて逃げ行きける、 これはもと 正五九月の三斉には牛馬苦しむること堅く御法度なる故なり、 右二ノ丸より田までその間十二三町余これあ るべし、それよりその田をつく折れ田と云ふなり、元枝丸山の二ノ丸を預り給ふなり、
元枝の 一男 都治少将元長 都治家を継ぐ
二男 駿河守元春

女子三人、三次、出羽、永田、君谷を聟にとる

天文17年(1548年)3月、小笠原長雄は大内方として石見銀山を攻略した。

翌年の天文18年11月、石見銀山奪回のため尼子は出兵した。

小笠原長雄は、これを大田に迎えて造山(*)で戦い退けた。

(*)古資料に大田造山とあるが、そこが現在何処を指すか調べきれなかった。

この戦いで活躍した武将、平田彦兵衛、大島八郎、上野介(小笠原長実:12代小笠原長隆の子、長雄の叔父)、等に、小笠原長雄は感状を与えている。

<川本町誌より>

61.4.7.福屋隆兼

福屋隆兼は本明城を居城とする福屋氏の第12代当主である。

福屋氏は益田氏の庶流で天応元年(781年)益田兼高の子兼広が福屋(江津市有福町)に移住し本明城主となった。

​​隆兼の頃は尼子氏に従属していた。

しかし、天文9年(1540年)の尼子詮久の吉田郡山攻めに敗北した事を契機に大内氏へ従属するようになった。

小笠原長雄の母は福屋氏の息女で親戚関係であったが、この両家が争うことになる。

 

61.4.8.石央(石見中央部)の紛争

記録によると、陶晴賢が大内義隆父子を殺した天文20年(1551年)以降石央では小笠原氏は福屋・佐波と戦いをしている。

天文20年、小笠原氏は福屋氏と佐波との領境で争う。

天文22年12月、福屋隆兼は小笠原氏の支城である日和城(現:邑南町)を攻める。
平田彦兵衛が防戦し小笠原長雄より感状を受けたとある。

天文23年、2月福屋が小笠原領大貫(現:江津市桜江町)の地に攻め入る。
坂根小三郎がよく防戦の功により小笠原長雄よりこれまた感状を受けたという。 

弘治元年(1555年)3月、吾郷の竹(現:美郷町)にて小笠原氏と佐波氏が戦う。
同年4月都治(現:江津市)にて福屋氏と戦う。

弘治2年4月、川下多田の飯山(現:川本町)にて小笠原氏と佐波氏が戦う。
また、福屋氏は小笠原氏の居城温湯城(現:川本町)を攻めんとして川越田(現:江津市桜江町)へ進出し、小笠原氏と戦う。


これらは地方豪族の領域拡張の争いであった。

「石見町誌」ではこれらの事を次のように述べている。

以下「石見町誌」からの抜粋

小笠原と福屋の紛争が記録に残っている最初の文書は、天文二十二年十二月、邑智郡(邑南町)日和における衝突である。 
小笠原・福屋両家の文書の失われている現在その正確な史実を把握することはできないが、おそらく天文二十年の義隆滅亡後の社会混乱が最大の原因ではあるまいか。 
天文二十一年二月、福屋隆兼は三つ子山城の守備を強化しており、同年十月には益田藤兼が三隅高城を攻めて兼隆を降している。
小笠原・福屋の両家の関係が険悪になった頃に、領域を接する邑智郡井原と中野との間に防備の城塞が構築されたものと思われる。
すなわち、小笠原側は雲井城を根拠として片田・皆井田に伸びる丘陵上に平城と稲光城とを挟んで寨塁を築き、福屋側は熊が峠城を根拠として郡山城・余勢城・源太カ城を結んで前線陣地を構成したのである。
このような両者の防備陣容において福屋側にとって最も痛いのは小笠原の日和の存在である。 日和から矢上・中野へ山を下れば防備陣は裏面から崩される。 
日和合戦は小笠原の琴平城(日和城)と福屋の熊が峠城との間に戦われたものと思われる。

小笠原・福屋の紛争については、天文二十三年二月、邑智郡(江津市)大貫において、翌弘治元年四月十六日、那賀郡(江津市)都治において戦われた記録を残している。
おそらく江川周辺において数年断続しつつ、やがて吉川元春の石見攻略作戦の中に組入れられて行くのである。

つぎに、小笠原・佐波両家の関係は累代紛争を続けて来た間柄で、小笠原長雄の祖父長隆の妻は佐波休々斎秀連の娘で、その婚姻によって多年の抗争地であった大森銀山を含む佐摩庄を小笠原所領として認め和解につとめたこともあったが、それも永続したかったようである。
およそ大森銀山に対する小笠原の支配力の強大な理由は、 小笠原氏が早くから出羽氏の所領であった祖式を領有し、大森銀山からわずか四キロメートルの地点に銀山の山吹城を眼下に俯瞰し得る矢滝城を構築していることにあった。
そのうえ安濃郡(大田市)大田の松山・刺賀・邇摩郡(大田市)西田の前矢滝の諸城は矢滝城の衛星的防塁で、尼子にしても大内にしても小笠原氏を除外して大森銀山を占有することは容易でなかったのである。
大森銀山の争奪のたびに小笠原の名前が出てきているのも当然のことである。

余聞

天文23年(1554年)小笠原長雄は、大貫村の蔵王権現を再建している。

石見誌(大正14年(1925年)発行 天津亘著)によると、山崎次郎右衛門が寛平3年(891年)大貫の三角山に蔵王権現を勧請したとしており、次のように記載している。

郷社御嶽神社
・川越村大貫三角山(古名御嶽山)に寛平三山崎治郎右衛門吉野ヨリ勧請
・伊邪那岐命 伊邪那美命 須佐之男命 少彦名命
・明応五小笠原長隆 天文廿三同長雄 天正十二同長旌造営 明治七村社

内容は、
寛平3年(891年)に山崎治郎右衛門が大貫の三角山に御嶽神社を建て吉野より勧請した。主神は、伊邪那岐命、伊邪那美命、須佐之男命、少彦名命である。明応5年小笠原長隆、天文23年小笠原長雄、天正12年小笠原長旌造営する。明治7年村社となる。
ということである。
 
小笠原長雄は戦国武将として、蔵王権現の霊験を求め、戦勝祈願をしていたものと思われる。

この蔵王権現は明治4年(1871年)に御嶽宮と改称し三角山の麓の現在の地に移っている。

明治4年(1871年)に御嶽宮を三角山の麓の現在の地に建立し、神躰(鏡)を移した。

<蔵王権現>

<御嶽神社>

 

 

61.4.9.新宮党事件

一方尼子と毛利の戦闘は安芸や備後で続けられ、一進一退の有様が繰り返されていた。

毛利はその団結が固く元就を中心として吉川、小早川、宍戸等一族一体となり、地道に地歩を固めて行ったので勢力も次第に強大化してきた。 

外に向っては毛利独特のかきまわし戦法が行われて敵方の内部崩壊策がよく効を奏した。

尼子一族間に起きた新宮党事件も毛利のこの策にかかり、自滅の道を辿ることとなったのである。

大内義隆なき後、尼子討伐は元就の脳裡から常に離れることはなかったのである。

彼は労して功少なき戦闘より、頭脳作戦を重んじた。

尼子氏の滅亡の始まり

尼子晴久がよく劣勢を挽回し、 天文21年(1552年)足利義輝将軍より出雲、 伯耆、備前、備中、備後、美作、因幡、隠岐等八ヶ国の守護職に任ぜられる大守となったのは、叔父の国久、その子誠久が新宮党なる強固な武士団を結成して、晴久を側面から擁護していたからである。

毛利にとっては厄介な、恐るべき新宮党であった。

元就は尼子領に間諜を放ち、新宮党は晴久に対し謀反の企てがあると吹聴させたのである。

国久親子にとっては迷惑この上ない話である。

晴久はまんまと毛利のわなにかけられた。

謀略であるとはつゆ知らず、 流言を信じて天文23年(1554年)11月ついに国久・誠久を急襲し殺害した。 

尼子の柱石、新宮党は主君に信ぜられぬまま消滅したのである。


このため晴久は自らの墓穴を掘ることとなり、やがて滅亡する運命の時機を早める結果となった。

<新宮党> (島根観光ナビより)

尼子経久には、政久、国久、興久の3子があったが、次男国久は、新宮谷に館を構えたので新宮党と称した。

その勇名は近隣にひびいていた。尼子氏の四隣征服戦はつねに先陣で活躍した。

ところが、尼子経久のあとを継いだ孫の晴久は、毛利元就の謀略にのせられ、新宮党に謀叛の心があるとして、天文23年(1554)11月闇討ちで滅ぼしてしまった。

この事件以後、尼子は急速に衰退の途をたどるのである。

<尼子家 新宮党の霊社 (安来市広瀬町富田)>

 

<続く>

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