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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−196(三本松城の戦い)

戦国の石見−4(続き−6)

61.4. 尼子・毛利の対決(続き−2)

 

61.4.5.三本松城の戦い

陶晴賢(隆房)の謀反によって、第16代大内氏当主大内義隆が自害し、大内義隆の養嗣子であった、大内義長(晴英)が第17代当主となった。

【大内義長】
父は大友義鑑、母は大内義興の娘(大内義隆の姉)
当主となった後、晴英から義長に改名した。

津和野城は、戦国時代までは三本松城(あるいは一本松城)と呼ばれていた。

三本松城の城主は吉見氏で、陶晴賢が謀反を起こした当時の城主は第10代吉見正頼であった。

吉見正頼は大内義隆と義兄弟(義隆の姉が正頼の正室)であり、正頼が吉見家の家督相続するにあたって多大の恩義があった。

反対に吉見氏と陶氏は過去に度々対立する仇敵と言える関係であった。

陶晴賢が大内義長を大内氏第17代当主に据えた事に対し、吉見正頼は危惧した。

大内家の采配を手中にした陶晴賢は、益田氏と力を合わせ、吉見家を倒そうとしてくる、と思ったからである。

吉見正頼は密かに城郭を修理し、兵器を繕って戦備を整えた。

陶氏、益田氏と吉見氏の因縁

時は、文明3年(1471年)大内道頓(教幸)の乱まで遡る。

大内氏の重臣陶弘護は最初は道頓の仲間となったが、後に叛旗を翻し、道頓を攻撃する。

石見吉見氏第8代当主である吉見信頼は、大友道頓に与し、益田氏第16代当主益田貞兼は陶弘護を援けて道頓を攻撃する。

この乱は文明3年(1471年)12月、道頓が自殺して終った。

吉見信頼は応仁の乱終結後に帰国した大内政弘に和睦を求め許された。

しかし、吉見氏と陶氏との不和は続く。

文明14年(1482年)5月27日、大内政弘は諸将を招いて酒宴を催した。その席に吉見信頼も出席し、政弘からの歓待を受けた。

ところが、その席上で吉見信頼は陶弘護を刺したのである。

信頼はその場で内藤弘矩(長門守護代)に討ち果たされてしまう。

吉見信頼は山口に出発する前に弟の頼興に家督を譲っており、決意するところがあって酒宴に臨んだようである。

陶弘護は、吉見信頼が道頓に味方したことはいかに善意に解しても大内家に対する誠実は認められず、将来の禍根と受け取っていたのである。

陶弘護の妻は日頃領境を争っている益田の娘であって、弘護は益田を厚遇し、応仁の乱後の論功行賞に削減された領地が益田に与えられているのもすべて弘護のによるものと推測し、その刺殺を決意したものと思われる。

この事件はやがて吉見・益田両家の多年にわたる不和怨恨に結びつく。

吉見正頼の決起

謀反の決意を固めた陶晴賢は、益田藤兼(​​益田氏第19代当主)にその内意を示していた。

晴賢が益田藤兼に頼った理由は、両家が従来から姻戚関係に結ばれていたからである。

すなわち藤兼の曽々祖父兼堯の娘は、晴賢の祖父弘護に嫁し、曽祖父貞兼の母は、陶氏の娘であり、また祖父宗兼の室、則ち彼の母梅林智春は陶氏の出である。

これに反し従来から領境を接して、反目の間柄にある吉見正頼は、自ずと大内義隆に好意をもっていた。

そのため、大内義隆が大寧寺で自害した後、陶晴賢は益田藤兼の軍勢を吉見領に差し向けるなどして吉見正頼の動きを牽制した。

大内義長が大内氏第17代当主になると、吉見正頼は、陶晴賢が攻めてくることを危惧し、密かに戦闘準備を始めた。

そして、天文22年(1553年)10月、吉見正頼は、陶晴賢打倒を掲げて挙兵した。

吉見正頼は挙兵するに当たり、特使を安芸吉田に派遣し、毛利の来援を懇請した。

この吉見正頼の挙兵により、従来から継続していた吉見・益田両氏の小競り合いは、ついに陶・毛利の対立に及び本格的な戦いに突入することになるのである。


この頃の毛利は陶晴賢に対抗するには未だ勢力は微弱であり、隠忍自重して陶晴賢の命を聞き、芸備を経略して勢力の強化を図っていた。

こうした矢先に吉見正頼からの救援の使者を迎えたのである。

一方、陶晴賢は12月に使者を吉田郡山城に遣わした。

そして、来春に大軍をもって一挙に三本松城を攻略する計画を告げ、毛利元就に徳佐(山口市)までの出陣を促した。

毛利氏にとって、陶晴賢、吉見正頼のいずれに方するかを決めるのは、あまりにも重大な問題であった。

元就は、毛利氏の現在の実力からして、ここは暫く隠忍して、自ら徳佐へ出陣して陶晴賢を援助しようと思った。

しかし、隆元(元就の嫡子)はこれを阻止しようと、反対意見を述べる。

その理由の大要は次のとおりである。

①若し吉見正頼が滅亡した場合、晴賢にとっての敵は毛利氏だけであり、そのため元就が抑留される懸念が強い。
②そのため元就に代わって隆元か他のものが下向すべきである。
③元就の留守を知ったならば、尼子が動き出す。

陶晴賢は天文23年(1554年)3月1日、大内義長を奉じて出陣する。

しかし、元就は未だ動こうとしなかった。

そこで、晴賢は元就を疑い、密使の僧を備後の平賀弘保、平賀広相のもとに遣わして、毛利・平賀両氏の離間策を計らせたが、平賀弘保はその僧を捕らえて元就のもとに送った。

ここにおいて、元就は初めて意を決して、晴賢討伐を明らかにした。

そして、武将の二宮隠岐守(就辰)、伊藤三郎右衛門に諸勢600余騎相添えて、三本松城救援のために、津和野へ向けて出発させた。

3月19日、陶晴賢の先鋒軍が三本松城の包囲を始める。

三本松城には城下の村人らも籠城したとされる。

晴賢は、津和野川を挟んで南側から三本松城を見下ろせる標高420mの山(現在の陶ヶ岳)に本陣を置き、城の搦め手となる北側には江良を布陣させた。

4月17日に大内軍は総攻撃を行うが、籠城側は防衛に成功する。

その後も、8月2日までに12回に及ぶ攻防戦が続くが三本松城は陥落に至らなかった。

陶軍の包囲に伴う戦火により、鷲原八幡宮を含む周辺の寺社は焼かれたという。

この間三本松城付近において行われた激戦は確認されるだけでも12回に及ぶ。

<観光リフト>

毛利の間接的な吉見支援

毛利が三本松城救援のために兵を派遣したが、毛利氏の行動が判然と現れるのは5月12日である。

毛利水軍の部将山県就相は、陶方の周防大島の警固船を襲い 安芸佐東の銀山城その他、陶の属城に入れようとする食糧を奪った。

こうして毛利氏は以後次々と陶晴賢に属する諸城を陥とし、或は服属させて安芸全土の攻 客を一挙に進め、更に周防へと山陽道を西進していった。

これは、吉見正頼への間接的救援となるのであった。

当時吉見正頼を三本松城に攻撃中であった陶晴賢は、毛利元就が晴賢討伐を声明したこと、 疾風迅雷の勢を以て安芸の大内氏属城を次々攻略したことを聞いて、驚き憤慨する。

そして、5月19日に書を安芸久芳 (豊田郡) の豪族、 久芳(くば)賢重 及び八木弟法師の両人に与へ、

「毛利・小早川事、乍当家重恩、今度悪逆之企、不及是非候、併猛悪無道之所致候 」

 と過激なる言辞を以ての行動を非難し、 次に両人が一家の事を顧みずして、只管(ひたすら)、義長・ 晴賢の為に努め、三本松城に出陣して奮闘しつゝあることを賞し、若し後日、卿を撃滅したならば、加恩として 賢重には二十八貫の地、弟法師には四十二貫の地を預け進ずべきを約し、今後一層忠勤を抽んでられたい。

と激励している。

かくて安芸国内における大内氏の属城は大半攻落され、 一揆の類もまた掃滅されたので毛利一族の武威は、ようやく芸備両国を風靡するに至った。

吉見正頼・陶晴賢の講和成立

まさかと思っていた元就一族一党が敵方にまわり、旧大内氏の勢力範囲にあった安芸西部の佐伯郡一帯が元就の掌中に帰し、瀬戸内水軍もまた元就の支配下に入ったことを知った晴賢は、早急に吉見討伐を完了して山陽側に転進し元就勢を防ぐ必要に迫られ、吉見攻撃にあせりを見せてきた。

6月15日、津和野要害攻口の戦い、同18日、同要害麓喜汁表の戦い、7月20日、同21日、同要害攻口の戦い、8月2日、坪尾固屋の戦いなどの記録が残っている。

ついで陶一党は吉賀・墨・下風呂谷を攻める。

すでにして三本松城の包囲せられること久しく、糧食乏しく矢石も尽きたので、ついに8月17日、正頼は嫡男王丸を人質として和を請う、この時、 正頼の妻は急難を遁れるため離別と言いふらし、周防佐渡郡仁保に退去させている。

義長・晴賢は正頼からの和解申入れを、渡りに舟と喜んで承諾、亀王丸を預って山口へ帰還した。

かくて長門阿武郡内の吉見支配であった、嘉年の勝山・上田万の鹿が岳・下田万の鰐坊山・上小川の平山星・同蕣・奈古の櫛崎などの諸城の多くは益田藤兼の領するところとなった。

講和締結後、正頼は山口義晴賢を訪れ他意のないことを表明して晴賢の警戒心を除き、 あわせて亀王丸を取 戻して津和野に帰り、再び晴賢に抵抗する体制を整える。


弘治元年(1555年)6月(あるいは5月5日) 陶晴賢の兵は、再び吉賀に入り、広石・朝倉・七日市・福川の諸城を陥れて津和野に迫り、大地蔵に陣を布き三本松城を囲んだ。 

一方毛利元就は、雲州方面にある大内党の属城を順次攻略したので、背後に危険を感じた陶軍が、8月27日急に軍を帰した。 

そこで吉見軍は徳佐までこれを急追し、陶軍に対し潰滅的な打撃を与えた。 

8月28日益田藤兼の軍もこの潰乱軍の中にあった。こうして三本松城の危機は去った。

 

<続く>

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