「102回 朝日新聞業務停止」
59.GHQの言論統制(続き2)
59.4.朝日新聞業務停止
朝日新聞は昭和20年(1945年)9月15日付記事と9月17日付の2つの記事について、9月18日に2日間の業務停止命令 (SCAPIN-34) を受け、19、20日の2日間、東京本社版の朝刊を発行できなかった。
これがGHQによる検閲、言論統制の始まりであった。
<SCAPIN-34>
OFFICE OF THE SUPREME COMMANDER
FOR THE ALLIED POWERS
AG.000.76(18 Sep 45) 18 September 1945
MEMORANDUM FOR: IMPERIAL JAPANESE GOVERNMENT
THROUGH : Central Liaison Office, TOKYO
SUBJECT : Suspension of Tokyo Newspaper SAHI SHINBUN
1. The Japanese Imperial Government will issue the necessary orders to
suspend publication of the Tokyo newspaper ASAHI SHIMBUN.
2.This suspension is to be effective as of 1600 hours this date (18 September 1945) and to continue until 1600 hours 20 September 1945.
FOR THE SUPREME COMMANDER
/s/ Harold Fair
/t/ HAROLD FAIR
Lt Col.,A.G.D.Asst. Adjutant General
Asst. Adjutant General連合国最高司令官室
覚書:日本帝国政府宛
経由:東京中央連絡事務所
件名: 東京新聞朝日新聞の発行停止
1. 日本帝国政府は、東京新聞朝日新聞の発行停止に必要な命令を発令する。
2. この発行停止は、本日 (1945年9月18日) 16:00より発効し、1945年9月20日 16:00 まで継続する。
最高司令官に代り、/サイン/ハロルド・フェア /タイプ/ハロルド・フェア
陸軍中佐 A.G.D.高級副補佐官
GHQ は日本政府に「朝日新聞」を 9 月18日16時から 9 月20日16時までの間、発行停止させるよう命令した。
有山輝雄は、進駐軍が通達した文書によれば、違反した記事は、有山輝雄の研究によると、次の五つであると云う。
第一に 9 月17日の“ATROCITIES IN THE PHILIPPINES、 PEOPLE VOICE HEARD”という記事。
第二に 9 月15日の鳩山一郎の“IDEA FOR THE NEW PARTY”と題する寄稿。
第三、 9 月17日“YOKOHAMA AMERICANS CONTINUE NEGOTIATIONS WITH PREFECTURE”。
第四、 9 月17日、“SHIPPING SITUATION EXTREMELY CRITICAL ― PRESENT420,000 TONS SUICIDAL”。
第五に外電の選択仕方」であるとされている。
朝日記事の概要
1、9月15日、鳩山一郎の寄稿記事
9月15日付記事には、次のような鳩山一郎の談話が掲載された。
「“正義は力なり”を標榜する米国である以上、原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否むことは出来ぬであらう、極力米人をして罹災 地の惨状を視察せしめ、彼ら自身、自からの行為に対する報償の念と復興の責任とを自覚せしむること、日本の独力だけでは断じて復興の見通しがつかぬ事実を率直に披歴し日本の民主主義的復興、国際貿易加入が米国の利益、世界の福祉と相反せぬ事実を認識せしむることに、努力の根基を置き、あくまで彼をして日本復興に積極的協力を行はしむる如く力を致さねばならぬ」
2、9月17日、「ATROCITIESIN THE PHILIPPINES、 PEOPLE VOICE HEARD」
朝日新聞は9月17日「求めたい軍の釈明・“比島の暴行”発表へ国民の声」の見出しの記事を載せた。
これは前日の16日掲載された米軍の発表記事「“比島日本兵の暴状”太平洋米軍 総司令部発表」に対する日本国民の声を報じるという形式をとった記事である。
有山輝雄は、この記事でCCD (民間検閲局)が特に問題としているのは、次の点であると指摘している。
『一つは、米軍の発表した日本軍の暴虐について、米軍は「確実な出所がある」と言っているが「ほとんど全部の日本人が異口同音にいっていることは、かかる暴虐は信じられないということである」という箇所である。
また一つは、こうしたことを「突如として米軍がこれを発表するに至った真意はどこにあるか」と疑い、「一部では、米軍の暴行事件の報道と日本軍の非行の発表とは何らかの関係があるのではないかとの疑問をもらす向きもある」と占領直後の「米軍の暴行事件」に言及しながら米軍発表を暗に意図的宣伝にすぎないとしていること、さらに「日本が新たな平和への再出発にあたり、連合軍があくまで人道に立って正しく行動してもらいたい、と要望している」ことである』
3、その他
後は比較的短い記事で、CCD (民間検閲局)が問題視していることは、ほぼ同じである。
<鳩山一郎>
昭和20年、日本自由党を結成し総裁となる。
昭和21年、4月10日の総選挙で日本自由党が第一党になるが、5月7日(GHQの処分決定は同年5月3日公職追放となる。
公職追放に際し、鳩山は吉田茂を後継総裁に指名し、同年5月22日に第1次吉田内閣が発足した。
日本の独立回復を目前にした1951年(昭和26年)6月11日、自邸での自由党への復帰を巡る議論の最中に脳溢血で倒れる。
鳩山の追放は同年8月6日に解除された。
昭和27年、第25回衆議院議員総選挙で政界に復帰。
昭和29年、11月 日本民主党を結成し総裁となり、12月 内閣総理大臣になる。
朝日新聞でのこうした発言が、占領軍に対する誹謗であり、占領政策を阻害するものであるとされ、処分されたのである。
しかし、このたった二日間の発行停止に朝日新聞は、かなり萎縮した、つまりびびったのである。
これは、他の新聞も同様であった。
この処分を境に、今まで連日のように掲載されていた原爆に関する記事が各紙から減少し消えていった。
以下は「慶應大学 政治研究 第64号」からの抜粋
(昭和20年)9 月中旬以降、米兵による事件はほとんど紙面上で報じられなくなるが、完全に封殺されたわけではなく、数は少ないが掲載されることもあった。
例えば、10月 5 日『読売』では、米兵による親子射殺事件が小さいながらも報じられている。「米第一騎兵師団所属の三米兵が九月十五日夜横浜で飲酒の後、酒店主父子を射殺し米軍軍法会議に付せられ懲役10年を下された」との事実が簡潔ながらも伝えられていた。
・・・(略)・・・
日本の占領統治が進むにつれて、米兵への讃美や彼等の美談が紙面上に度々登場するようになる。
・・・(略)・・・
このように進駐軍を称賛する際は、比較対照として日本及び日本人を卑下することが定番になっていく。
例えば『毎日』の「建設」には「駐屯軍見習へ」との投稿が掲載されたが、「われわれは駐屯軍のよさを早く学ぼう。
彼らの立派さをわが国家、国民生活の中に採り入れようではないか。
そんなことをすると日本人は骨抜きにされてしまふなどと考ふのは、とんでもない国粋主義で、偏狭な島国根性だ」と米軍を持ち上げていた。
『読売』の「国民の反省」と題した社説は、日本は、政治だけでなく国民の生活、内面、マナーも改める必要性が進駐軍兵士の良さと比較をしながら説かれていた。
さらに、『朝日』の「鉄箒」に掲載された木村毅の論説は、当時成立間もない幣原内閣の顔ぶれは期待できず、局面の打開にはマッカーサー司令部の手を借りたいと書いている。
その上で、「事毎にマッカーサー司令部を煩わすのは醜体だが、それほどまでに我等国民は、日本の為政者に愛想をつかし、不信を表明してゐるのだ」とまとめ、日本を卑下し日本の改革を司令部に委ねる主張をしていた。
また、石川達三の次の論説も同様であり、彼は「進駐軍総司令官の絶対命令こそ日本再建のための唯一の希望であるのだ。何たる恥辱であらう! 自ら改革さへもなし得ぬこの醜態こそ日本を六等国に転落さしめた。(中略)私の所論は日本人に対する痛切な憎悪と不信とから発してゐる。不良化した自分の子を鞭でもつて打ち据ゑ親の心と解して貰ひたい。涙を振って感化院へ入れるやうに、今は日本をマッカサー司令官の手を託して、叩き直して貰はねばならぬのだ。」
と説き、日本を殊更に卑下し、進駐軍に迎合し日本の改革を専ら委ねる姿勢を示していた。
さらなる発令
9月10日の「新聞報道取締方針」「言論及び新聞の自由に関する覚書」(SCAPIN-16)が発令された覚書だけでは、思いを徹底することができないと思ったGHQはさらなる指令を出した。
9月19日、「日本に与うる新聞遵則」(プレス・コード)(SCAPIN-33)、9月22日に「日本に与うる放送遵則(ラジオコード)」(scapin43)が、相次いで発令されるのである。
<続く>