8. 石見海岸線の国防、石見の四王寺
6世紀から7世紀の朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が鼎立していたが、660年に百済は、唐・新羅連合軍によって滅ぼされた。
滅亡した百済は復興を目指し日本を頼った。
しかし、百済復興を目指す百済遺民と日本の連合軍は天智2年(663年)白村江(はくすきえ)の戦いで百済唐・新羅の連合軍に惨敗した。
以来、日本は新羅の影に怯え、海岸線での防衛に力をいれざるを得なかった。
貞観九年(867年)新羅調伏のため、朝廷は八幡四天王像を伯耆・出雲・石見・隠岐・長門に送り、四王寺を建立させ祈願道場とさせた。
石見の四王寺は桜江町小田字北野の山中にあったという伝承がある。
石見誌(大正14年10月31日初版)に次の記述がある。
邑智郡川戸村大字小田字四王地(松原氏家號)の後山に趾あり木像を今も安置す。貞観九年五月造八幅四天王像五鋪下伯耆、 出雲 、石見、隠岐、長門建立仁祠安置尊像、請國分寺及部内練行精進僧四口像前勤誠修法調伏賊心新羅調伏の爲の官寺なり。
<下図の赤丸の位置が所在地だったと想定される場所>
8.1. 桜江町誌
桜江町誌に、四王寺のことが述べられている。これらを、[注記]をいれて、以下に記す。
[最初に四天寺の創設の経緯が説明されている]
新羅の出没
平安時代の前期になると、朝鮮では新羅の国から盛んに海を渡って日本に来た。 海を隔てた一衣帯水 のこととて、その侵攻を警戒しつつも、時日を経過したが、海防の備えは怠らなかった。
特に山陰の海岸部一帯は大 陸との交渉がはげしく、時に彼等の進出に心を砕かされることが多かった。貞観五年(863年)には因幡国荒坂浜に新 羅商人が大挙して来航、 北九州の浜辺にもこのような行動があり、大陸、朝鮮に近い地方は海岸防備の必要性が日増しに高まって来た。
そこで、貞観九年(867年) 五月に至り、朝廷では四天王像五鋪を伯耆・出雲・石見・隠岐・長門五国に対し送り、海辺を見はるかす台地を選んで寺院を建立されることになった。もちろんその目的は、新羅を始め渤海・唐など外夷の侵攻に備え”賊心を調伏し災変を消滅する" (三代実録)との趣旨に出たものであった。
建立された寺院は、「四王寺」と称し、八幡四天王の前に朝夕僧侶がかしづいて読経した。粗雑な農家の点在する中に、読経の鐘の響く風景は奇異な感じを興させたことであろう。
[石見の四天寺は、現在の桜江町小田字北野の山中に建てられたと、説明]
石見の四王寺
さて、四王寺に安置した仏像は四つの天王像で、四方の天、すな わち東・西・南・北守護の守本尊であった。
国土一円を守護されるようにとの祈りがこめられて、海望のきく場所に伽藍があったという。今から千百年も昔のこと故、その場所については断定の決論づけは困難で、これにつき種々な推論が行な われて来た。
現在では山陰における四王寺跡としては、伯耆国四王寺が東伯郡社村、出雲国四王寺が八束郡山代村、長門国四王寺が豊浦郡豊東前村に遺跡として残っているという。
石見・隠岐国については諸説があって一定していないのであるが、有力な四王寺跡が、わが桜江町川戸にある。
石見国四王寺跡と云われる場所は、 三江線川戸駅に近い、字 小田現江陵中学校近接の小山一帯の地とされている。
現在でもその地名は志応地といい、 また、山の東側斜面山麓に関係仏像 御堂の中に安置されている。
四天王はそもそもは仏法護持のための守護神であるため、本尊の外に安置されていたと思われる。
千手観音を本尊として四天王のうちの北方守護神多門天および不動明王の三尊仏が現存されている。
[四天王とは帝釈天(仏教の守護神)の家来で須弥山(世界の中心にそびえる高山)の中腹の四方にある門を守護する神で、東方 (持国天) 西方 (広目天) 南方 (増長天) 北方 (多聞天) 天王をいう。]
四王寺は元来が、海辺鎮護、外敵侵掠を防ぐために設けられたものであるから、海上遠望の地でなければならない。然るに海辺を離れ、四周の見通しも不便なこの地に寺院建立がなされる筈がない。しいて四王寺説を固執するな ら、石見海岸のどこかに四王寺があり、後世において廃寺となって遺物が当地に移転されたのであると見ることは可能ではあるが、四王寺が始めからこの地にあったというは荒唐無稽で信ぜられないという、説もある。
これは常識的にも、考えて当然な言分である。打荻英一氏四王寺考に言う「川戸村松原氏、家名は四王寺の山上に古四王寺の遺跡あり」の説の裏付がどのようにしてなされるであろうか。 (註) 松原氏当主克郎屋号は四応地
そこで、当時のこの周辺の環境考察が必要となる。
[この地が海上展望の地とされる理由の考察が述べられている]
町内の四王寺説
町内の谷住郷の地に、見水山八幡宮の地があり住吉大明神が合祀してある。
江川はその眼下を東より西に貫通して流れ、狭い渓谷を縫って江津で日本海に注ぐ。江津までの距離は約十五キロメートルである。江川は邑智郡の多くの村をかかえているが、川戸、住郷のこの辺りの地が 一番海上に近い距離にあった。
奥部の産物を 出すためには当時、水路を利用する方法が一番に多くとられたことであろう。住郷・川戸の江川に接岸するところは、そのころ極めて水深があり、したがって天然に良港を形づくっていた。 水位も高く両岸を洗って、一望が海原の観を呈し、まさに海の入江かと思われた。
今日、西日本隆起説を唱える学者の言のとおり、その後全体的に土地が高 まり水量も減少した。
住吉神社と桜井津
谷郷にある住江神社は、宝亀年間(770〜780年) に出来たとも聞く。とすれば貞観をさかのぼること 約百年、奈良時代の後期にあたる住江神社の祭神は住吉より勧請されたものである。
住吉大明神は古来、海の守護神として崇敬されてきた。当時より内海的な良港であったこの地が、 内外交易の中心として栄え、船の往来が盛んに行われていたので、住吉大明神を勧請したものと考えられる。これは後世室町時代文明二年(1470年)に石見国桜井 津から土屋修理大夫賢宗なるものが、住吉大明神に帰依しさかんに朝鮮との交易を行なったこと。
また口碑によると井田の高野寺にある釣鐘が、住郷の七日渕から猿猴により納められて現存し朝鮮形式の鋳造である等から考えて、この地が朝鮮との交渉に無関係なものでなく四王寺説の裏付をなす証拠ともなるのではなかろうか。
昭和四十二年八 月、桜江農協建築に際しボーリング調査で、十八・六メートルの地下まで掘下げてみたが、 川戸密集地周辺は、砂混り礫の沖積土で構成されていることが明瞭となった。
長年の間に一大内海の観を呈した桜井の津も砂礫により漸次埋没し、遂に現状の川戸谷住郷の密集部落地域を作り上げたのである。このような地形の変化を忘れて四王寺の位置を現代の地形感覚で判断しようとしても到底無理な話となる。
以上、石見四天王について、桜江町誌より書き写した。
<続く>