9月27日(日) 沖縄観光 1日目(1/2)
関空から沖縄空港へ
ANA1735:10時05分 関空発で沖縄に向かいます。沖縄到着は12:20分の予定です。
関空には8時40分に着きました。
荷物は二つあり、二つとも機内持ち込みする予定でしたが、身の回り荷物と思っていたバッグの寸法が少し大きいようなので、一つを預けることにしました。
機内持ち込みするバッグの方に携帯とドローン用の電池を移し替えました。
1時間前に保安検査(体温チェック、手荷物検査)を受けて国内線ゲートエリアに入りました。
出発ゲートの待合場所に行くとまだ待っている人は3人でした。
そういえば、保安検査は20分前、搭乗口には10分前までにお越しくださいと、搭乗案内に書いてありました。
国際線とは違い、かなり簡単です。
出発20分前になると人が集まってきましたが、50~60人程度です。
やはり今は旅行客が少ないようです。
客席も50~60%の占有率のようです。
沖縄上空から普天間米軍飛行場がみえました。
沖縄空港には凡そ30早く到着しました。
ここでレンタカーを借りて観光します。
トヨタレンタカーで ヴィッツを借りて出発しました。
戦争遺跡の見学
戦争中に避難場所として使われた壕を見て回ろうとおもいます
飛行場から近い順に見学します。
カーナビでは「ひめゆりの塔」しか検索できませんでした。
残りの場所はgooglemapで辺りを付け、カーナビに付近設定でいきました。
見学順番は 轟の壕→糸洲第二外科壕→糸洲の壕→ひめゆりの塔→陸軍病院山城本部壕
壕は沖縄では「ガマ」と呼ばれています。
「ガマ」は沖縄の方言で、自然にできた横穴の洞窟のことを言うそうです。
ほとんどのガマが石灰岩の鍾乳洞です。
戦前は食料倉庫やゴミ捨て場、聖域などの役割を持っていましたが、戦争中には避難壕としても使われるようになりました。
これらの壕の近くには駐車場はありませんが、小さな空き地があったのでそこに駐車しました。
今は観光客が少ないのが幸いしました。
轟の壕
十字路(無信号)の傍の石段を上がると広場があり、説明の碑があります。
この階段の十数メートル手前の小高い所に空き地があり、ここに駐車しました。
糸洲第二外科壕
轟の壕から南方に約500m行くと十字路があり、右側に凡そ200m行くと右側に糸洲第二外科壕があります。
ここから50mくらい行くと右側に公園がありそこの空き地に駐車できました。
内部には入れませんでした。
ここは沖縄戦末期に南風原陸軍病院から撤退してきた第二外科の軍医をはじめとする医療スタッフと患者、そして学徒看護隊として動員されていたひめゆり学徒が入壕した場所です。
糸洲の壕
豊見城城址公園にあった第24師団第2野戦病院に勤務していた小池隊と従軍していた積徳高等女学校の生徒からなる「ふじ学徒隊」が撤退してきた場所です。
隊長である小池勇助自決の地であり「ふじ学徒隊」の解散の場所でもあります。
ふじ学徒隊は25人中23人が捕虜として生き残ることができました。
慰霊碑の手前に空き地がありここに駐車しました。
壕内部は立ち入り禁止となっていました。
ひめゆりの塔
糸洲の壕からさらに国道331号を凡そ2.4Km南下すると「ひめゆりの塔」に着きます。
「ひめゆりの塔」は、沖縄戦末期に伊原第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑です。
平和祈念資料館によると、沖縄県立第一高等女学校を「乙姫」沖縄模範学校女子部を「白百合」と名付けられていたそうです。その両方の名前を合わせて「姫百合」と名付けられ、戦後からひらがなで「ひめゆり」と使うようになったそうです。
ここも見学者は見えませんでした。
ひめゆりの塔の近くに「伊原第一外科壕」があるようですが、カーナビでも検索できず道順が複雑そうなので諦めました。
陸軍病院山城本部壕
幾度か停止して道を確認しながら農道のようなところを走り、やっと目的地に到着しました。
ひめゆりの塔から車で5分ちょっとかかりました。
<途中の道標です>
目的地に着き、壕の近くの空スペースに駐車しました。
ここも、あまり手入れがされていないようでした。
コロナの影響でしょうか。
ここまで5か所の戦時中に使用された壕を回りましたが、私以外の訪問者はいませんでした。
コロナ禍の中で旅行者は少ないのでしょうが、段々忘れられて行くかと思うと少し寂しい気がします。
今日はこれから喜屋武岬、具志川城跡、平和記念公園、玉泉洞、知念岬を巡ります。
<続く>