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旅日記

望洋−38(漂流(続き))

22. 漂流(続き)

次に、日本の最西端の与那国島に漂着した、隊員の話をしたい。

彼らは、与那国島に漂着し、ここから宮古島を目指して航海した。

米軍の偵察機・爆撃機に見つからないように、島伝いに石垣島まで航行した。

石垣島からは、敵機に見つからないように、夜間に航行することにした。

ところが、多良間島の北方を航行中に、水納島のリーフに乗り上げて船は航行不能となった。

仕方なく、近くの多良間島に一時避難することにした。

㋹艇を船から降ろし、㋹艇で多良間島に向かった。

彼らは多良間島で暫く過ごした後、多良間で漁船を徴発し、宮古島に向かった。

 

22.3.大畑群長

大畑群長は第四戦隊第二中隊(中隊長は赤塚少尉)の第一群長であった。

彼の話から察するに、割と烈しい軍人だったようである。

大畑群長の話

(機帆船漂流)

昭和20年(1945年)の正月を座間味島で迎えた艇進第四戦隊は駐屯地、宮古島へ向うための船団を組み、1 月10日久米島近海に集結した。 

九州を出発の際は大型船の船団で、戦隊長以下全員が同乗したが、今回はなんと木造の小型船機帆船と呼ばれる一隻に一群づつの輸送となった。

群長としての責任の重大さを思う。

船は船長と機関員の二人、武装は勿論皆無、速力も最高7ノットくらいの焼玉エンジン、おまけに船長は東北の出身でリーフについての知識もなく、この附近を航海するのも始めてということである。 

すでに前年10月10日、敵機動部隊艦載機の猛攻を受け、那覇は灰燼に帰していたし、沖縄近海は敵潜水艦の襲撃、B24による偵察、攻撃、グラマンをはじめとする艦載機は思うが儘の跳梁ぶりをみせていた。

如何に特攻艇といえども、この小さな船に積まれ、制空制海権のない海上を航海することは実に心細い限りである。

10隻(12隻の思い違いと思われる)の船団は夕暮れを待って出航したが、この夜すでに敵の攻撃を受け、池内群長の乗船が炎上沈没、全員が戦死したのである(事実は火災事故のため沈没、又大畑群長はこの事故を後日知った)。

戦いの実感が身を引き締める。 

翌朝、夜明けとともに海上を見渡したが、どうしたことか視界には僚船の影も形もなく、ただ一隻航海することへの不安と疑問が頭をよぎった。

船長に、どうなっているかと、問いただしたが、船長は首を振るだけであった。

昼ごろから風波が次第に強くなり、白い牙となった波頭は容赦なく襲いかかり船は大きく揺れ動き、艇(㋹)の安全が気懸りであった。

上空を流れる黒雲は厚く、速くなり隊員の船酔いも激しく、夕食どころではなく、比較的元気であった河田君とブリッジに上ったりしてひたすら僚船と島影を探した。

それらしきものはなく、いつか「転覆」「沈没」という不吉な予感が体中を走った。

しかし、後で思えばこの悪天候は正に天の助けでもあったわけで、連日、定期便的にこの附近を飛んでいたB24が飛行中止したのか、とにかくその攻撃から逃れたのである。

(与那国島に漂着)

翌朝、「島が見える」の声にブリッジに上ると、前方に小さな島影、風波も幾分おさまり、船も壊われることなく、 任地・宮古島に着いたと一安心した。

さて船を着岸させようとしたが、港らしきものは見当らず、取敢えず沖掛りとしてアンカーを降ろした。

人家も見えない島へ向って伝馬船を下し、河田君他を伴い上陸することにした。

念のため拳銃を携行したが、この島が果たして宮古島かどうかも不明で、あるいは無人島か、などと思いつつ上陸して驚いた。

沢山の兵隊が道路わきに小屋がけをしたり、坐わり込んだり、しかもその眼は一様にウツロに見えたのが印象的であった。

まず島名を聞くと「ヨナグニ島」 と答える日本軍に間違いないので、大声をあげ「この様はなんだ」と怒鳴った。

すると、私よりも上級の将校がおもむろに輸送船が撃沈された由を言い、逆に「お前たちは••••••」と聞かれた。

私は、若干戸惑いながらも、「特攻隊として宮古島に展開する 途中である」旨を答えたが、反応も殆んどなく「ご苦労」だけが僅かにかえってきた。

船に帰り海図を取り出し先島諸島の位置関係を確認、これから宮古島に逆戻りを決め、コースは西表島、石垣島の島伝いにすることとした。

石垣島までは静かな航海であったが、あの与那国島の光景が頭から離れない。

これから任地に赴き敵艦に体当りして死のうとしている自分たちも同じ日本軍人なのだが…

一緒にいる部下の10人は、特別志願をして来たまだ20歳前の少年兵なのだが…

「愛国心」「軍人精神」「使命観」「死生観」などなど

が脳裏を駆け巡った。

今度はうまく石垣港に入港できた。

翌日は、なんとなく落着いた気分で朝を迎えた。

しかし、この気分は一瞬にして打ち破られた。

いきなり島全体に雷鳴のような響きが伝わり、甲板に出てみると上空に高射砲の炸裂が何ヶ所も見えた。

キラッキラッと翼を反転させながらグラマンが4機襲いかかる。

激しい地響きが海上まで伝わる。 

立ち上がる猛煙、飛行場に対する攻撃である。

全員、直ちに鉄帽をかぶり、エンジンを始動した。 

アッと思う間もなく低空を飛来した敵機が港湾施設と船舶への機銃掃射である。 

なす術もなく船上に伏したままであった。

飛び去った敵機は反復攻撃を行わずホッとしたが、船体も一部被弾、空襲の恐しさを充分味わされ大急ぎで出港した。

(座礁し多良間島に避難)

明日は宮古島だが無事に着ける だろうか。

戦隊長はじめ僚船はどうなっているだろうか、戦隊編成以来の訓練、小豆島、似島そして関門よりの船出、半年の日々をめぐる想い が交錯した。

「船長、シッカリ頼んだよ」、「ハイ群長」、もうなん度となく繰り返されたやりとりである。

だが不安は的中した。

宮古島が近いという安心感があったのだろうか、それともリーフの海を航海するのが初めてという不慣れのせいか、明け方の水納島リーフに座礁してしまった。

潮の流れは早く船は大きく傾き、船底破損、浸水の恐れもあり最早離礁は不可能と判断、躊躇は許されない。

直ちに多良間島への揚陸を図った。 

揺れ動く船上でウインチを動かし、大急ぎで艇の泛水、移動を始める。

大変なことになってしまったと心配したが、 実はこの座礁と早急な多良間島上陸が我々を死から逃がしてくれたことにもなった。 

上陸完了後、東方海上を宮古島に向っていた僚船が敵機に襲われ、八田群長他十数名が戦死したのである。

正に紙一重の差であったと思う。


(宮古島へ)

宮古島との無線電話も不通、彼我の状況交換は全く不可能な状態であった。

しきりに与那国島の状況が頭に浮ぶ。

漸く、島民の協力により漁船を徴発し、夜蔭を利用して宮古島に向った。

無事、平良港に入港、船舶司令部に出頭し第四戦隊の消息をただし、金山隊長に会うことができ、慶良間出港以来を申告し、今後について命令を仰いだ。

時すでに沖縄上陸戦を真近かにして、宮古島も、周辺海域も米軍の制空制海権の下で、連日空襲は激化し、海上交通は完全に遮断され、クリ舟1隻に対しても爆弾投下、機銃掃射が加えられる状況になっていた。

私には隊員と艇を宮古島に届ける任務があり、二度にわたる多良間島への往復は頭上を敵機が飛ぶこともあったり文字通り生死の境をくぐり抜けたわけである。

それでも一人の戦死者も出さず、艇も全部最終任地に届けることが出来て、わが機帆船漂流は一応終了したのである。

戦後数十年、彼の地を訪れ正に感無量、地上より眺めた紺さ、リーフにかえす白波の美しさ、幾万の人命を奪い、限りない犠牲を払わされたあの沖縄戦、静かな海に亡き戦友の冥福を祈り、改めて戦争の悲惨と平和の尊さをしみじみ想う。

 

22.4.平田隊員

平田隊員は前述の大畑群長が指揮する第二中隊第一群の隊員で大畑群長と同船していた。

この船が船長の不慣れで水納島リーフに座礁したために、敵機の襲撃に遭わずに生き延びたことを大畑群長は紙一重の差であった、と自然現象的に言っている。

しかし、平田隊員は、これは船長のお陰である、と感謝している。

戦場は非日常的なところであるが、一発の弾丸も撃たなかったし、一人の人間も殺したり傷つけたりしなかった。

だが、そういう機会に出会ったら敵を撃ち殺していた、とも話している

また、平田隊員の話では、1月22日に沈没した八田群長も与那国島に漂着し、そこから石垣島までは一緒に航行していたようである。

平田隊員の話

(運命を感じた航行)

昭和21年1月22日だったと思う。

なにせ40年以上を過ぎた昔の戦争のことである。 

今更とも思うのだが............。

あの日もし俺たちの乗っていた船の船長が船の運転を誤らず、沖縄の海を順調に進んでいたら、確実に敵機の攻撃を受けて俺たちは、あの海を墓場にしたであろうと思う。

今こうして生きている喜びを味わうこともなく、そして愛す孫との出会いもなかったはずだ。

その船長は技術的に大きな過ちを犯したのだが俺たちはそれで助けられた。

俺はその船長の名も知らないまま長い月日が過ぎてしまった。

前日の1月21日は石垣島の港に停泊していた。

そこで生れて初めて敵機の空襲を受け、驚きと恐怖で心臓の凍る思いを経験した。

まさか戦局がここまで悪いなど全然考えていなかった。

絶対日本軍が勝つ戦争であるとの国の指導者の言葉を信じての志願兵である。 

その時俺は20歳であった。

俺の隊は海上挺進戦隊と言って海上での特攻を実施する部隊である。 

近代戦では極めて幼稚な発想のもとに考えられた戦法であるが、俺たちはそれでも国の命運を担うものであると誇りに満ちていた。

石垣の港に停泊したのは大畑群長、八田群長の船2隻であった。 

俺は大畑群長の隊員であったが、群長は9名の隊員をもち、それぞれ特攻用の舟艇1人一艇づつをもっていた。

輸送船の2隻は各群毎に人員と舟艇と貨物を積んでいたのである。

輸送船と言っても100トンほどの木造機帆船、船員は4〜5名いたと思う。 

外洋など航海した経験は全くないと船員は話していた。

(座間味島)

鹿児島港を昭和19年12月10日頃出港したと思う。

霧島の山が遠くに望まれ再び見ることはない覚悟の故郷に別れを惜しみつつの船出であった。

この鹿児島を出る時は一応の輸送船団であった。

数千トンぐらいの輸送船十隻程度に海軍 の護衛艦がつき、ノロノロと三日くらいで沖縄の慶良間諸島につい た。

後で聞くとこの頃の海上は敵潜水艦が暴れ廻り輸送船の多数が撃沈されたと聞く。

(漂着)

慶良間諸島の座間味島に1ヶ月ほどいたと思う。 

そこから宮古島に移動するのだが、その移動が大変なことになった。

折からの悪天候で、外洋経験のない船員が乗組んだ小さな機帆船団はたちまちばらばらとなり、宮古島に直接着いたのは少なく、台湾・与那国島・ 石垣島などに着いてしまった。

俺たちの2隻は与那国島に辿り着いて、そこから宮古島に引き返す途中石垣島についたのである。

21日石垣での空襲は艦載機であったから近くに敵の空母部隊がいることが証明できるわけである。

だが全く通信設備もなく情報など入らない、そして戦場の経験がない、そして何よりも戦争は味方に有利であるとの通信が、わざわざ敵の好餌になるような危険な海に出港することになった。

(座礁)

1月22日の未明、みんな眠っていた。 

突然ただならぬ異状に飛び起きて甲板に出てみると、船は瑚礁に乗り上げていた。

僚船がロープをかけて引っ張るが折からの引潮に珊瑚礁が白波を立てだし、船はどっかりと座り全く動かなくなった。

大変なことになったと船長らはいろいろ手をつくすがどうにもならない。

それではとわれわれは覚悟をきめてそこに残り、八田群長たちの船は宮古島に向けて海の向うに消えて行った。

多良間島でのことである。

(空撃される僚船)

何時間か過ぎたその日も天気はおだやかで上天気であった。

戦場などと思う感じは毛頭なくのんびりとしていた。

誰かが「あれは何 だ」と叫ぶ。

遥か水平線に三本の黒い煙が細く真直ぐに上っているのがみえる。

船影などみえないので多分船火事か島で何かを燃やしているぐらいにしか考えなかった。

だがそれは敵空母から発進した艦載機に攻撃され味方の船の燃える煙であった。 

その1隻が八田群長たちの船であり船員は何人か助かったとも聞いたが戦隊員は戦死したようである。

もしその時俺や船も座礁せず一緒に航海していれば、確実に空襲を受けたはずである。

注)「㋹の戦史」では、八田群長らが乗った船は、新城島南方6浬の海上で銃撃を受けて沈没したとしており、平田隊員が目撃したとされる地点とは約100Km離れている。

しかし、第四戦隊の大畑群長、平田隊員は、八田群長らが乗った船は多良間島東方の海上で艦載機に攻撃され、その黒煙を見たと、言っている。

一方、同じ頃、多良間島東方6浬の海上で田辺隊員らが乗った船が襲撃され、沈没し5名が戦死している。

ひょっとしたら、大畑群長、平田隊員たちが目撃した黒煙は、この田辺隊員らが乗っていた船が襲撃された時のものかもしれない。

或いは「㋹の戦史」が誤りで、八田群長達も多良間島の東方の海域で空撃され沈没したのかもしれないが、それは不明であり、確かめようもない。

 
俺たちの船の甲板にはガソリンを満タンにした舟艇と船艙には250キロの爆雷数10個が積んであった。

艦載機の機銃掃射一回で大爆発を起こしていたはずである。

助かる見込みなど全くありようはずもない。

今でも身震いする程の人間の運命性を感じる。

今のこの平和な自分達の生活に意外性とか運命的なものは少ないが、戦場は常に考えられない運命性をもつものであると思う。

孫たちよ、祖父の青春時代に参加した戦争はとても説明し切れない。

ただ俺は一発の弾丸も撃たなかったし、一人の人間も殺したり傷つけたりしなかった。

でも悲しくも敵に対する殺意はあったつもりである。

 

<続く>

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