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旅日記

望洋−61(沖縄収容所(第二戦隊員の証言))

35.沖縄収容所(続き)

 

35.2.沖縄捕虜収容所

(以下に掲載する写真は(沖縄県公文書館所所蔵)の写真)

沖縄の捕虜収容所での体験談は、元海上挺進第二戦隊の深沢敬次郎氏の話である。

深沢氏は「船舶特幹一期生会々報」第2号に「わが付録の人生 経験しながら学ぶ」という題で投稿している。

深沢氏が所属した戦隊は第二戦隊で、昭和19年9月26日慶良間諸島の阿嘉島に上陸し駐屯した。

 

その阿嘉島は昭和20年3月20日から米軍の本格的な空襲をうけ、26日に米軍は戦車とともに上陸した。

<慶良間の海岸へ攻撃に向かう上陸艇 1945年3月>

以後数日間激しい戦闘があり、多数の戦死者がでている。

<慶良間列島を哨戒中に、日本軍特攻機の急降下爆撃により、甚大な損害を受けた中型揚陸艦 1945年3月27日撮影>

3月末米軍は沖縄本島の戦闘に廻るるため全面撤退し、4月以降阿嘉島での戦いは持久戦となった。

持久戦となったが、食糧不足は更に深刻となった。

へびやカエルだけでなく、名の知れぬ雑草を食べたりした。

兵士たちの体力は衰え銃を持つことも、歩くのも困難な状況となっていった。

動くことができなくなって自ら命を絶つ兵士や、米軍に投降する兵士が出るようになってしまった。

そして、非戦闘員、軍夫、基地隊員、などの投降も続出した。

<米艦船チェンデラー号横のAV-10船に乗った日本人捕虜。米海軍兵により阿嘉島付近で捕らえられた。1945年3月31日撮影>

8月16日米軍の報道と勧告により、阿嘉島の第二戦隊は日本の降伏を知った。

更に18日に軍使が渡嘉敷島に渡り正式に日本の降伏を確認した。

8月23日残存者は武装解除され、同日沖縄本島の屋嘉収容所に入った。

深沢氏の投稿の中から抜粋して次に記す。

なお、掲載した写真(沖縄県公文書館所の写真)は記事の内容とは直接関係はない。

 

深沢氏の投稿

阿嘉島の戦い

・・・・略・・・・

阿嘉島のはげしい戦いは数日間つづいたが、夜間になると隣の座間味島に引き上げるようになった。

沖縄本島でも戦闘が開始されたらしく、砲爆撃の音が間断なく聞こえてきたが、無線がとだえてしまった島には、何の情報ももたらされなかった。 

座間味島の山頂には大きなパボナのアンテナが見えており、慶良間海峡も敵の艦船や飛行 艇で埋めつくされていたから危険が去ったわけではなかった。

戦いは長期の様相を見せていたが、どのように展開していくのか想像することさえできなかった。 

当初から不足がちであった食糧はさらに逼迫し、握り飯は日ごとに小さくなり、ついに桑の葉が交じるようになった。

それだって長続きはせず、米粒を見ることができないような雑炊になり、空腹を抱えた兵士が畑のサツマイモに手をつける ようになった。

すると、一木一草にいたるまで無断で採取することを禁ずる、との命令が出されたが、それだって守られなくなっていた。

へびやカエルだけでなく、名の知れぬ雑草を食べたり、危険をおかして海岸に出かけていってアダンの実を食べたり、ヤドカリを獲ってきたりした。 

だんだんと体力が衰えていき、銃を持つことができなくなっただけでなく、歩くのにも困難を来すようになった。いつしか、敵との戦いというよ り、飢えとの戦いみたいになってしまい、前途を見限ってアメリカ軍に投降したり、動くことができなくなって自ら命を絶つ兵士が出るようになってしまった。

ついには、坂を上ろうとしても上ることができず、足元を見ると、段の途中で引っ掛かっていたり、下るときだって惰性がついてしまい、止まろうとしたところで止まれない、という現象が起きてしまった。

弾丸や爆音の音にびっくりしてもすぐには反応することができず、肉体と精神のバランスが完全に失われていることを知った。 

夏がやってきたころには、ほとんどの兵隊が骸骨のようにやせ細ってしまった。

グラマン機やロッキード機が姿を消した島では、裸になった兵隊のシラミとりの姿があっちこっちに見られるようになった。 

戦いがはじまって以来、着の身着のままの衣類はシラミの格好の繁殖の場所になっていたからだ。 

下着からはみ出したシラミが上着につき、ついには階級章や縫い目にまで入り込んでしまったが、白っぽいものもあれば青みを帯びたものもあり、赤くふくれた吸血鬼のようなものまであることがわかった。敵討ちでもするかのように、これ らのシラミを一つ一つ数えながらつぶしていくと、翌日になるとこっそりと付着しており、兵隊を退屈から救ってくれた。

めずらしく敵機が阿嘉島の上空に飛来し、たくさんのビラをまいていた。

力なく拾った一枚のビラには、「日本軍は無条件降伏をしました。無駄な抵抗をやめ、武器を捨てて出てきてください」とあった。

アメリカ軍の宣伝かもしれないという兵隊もいたが、戦争が敗れたことを実感せずにはいられなかった。

勝つための戦いであったが、 心身とも疲れ切っていたせいか、敗れたと知ったときも特別の感慨を持つことができ なかった。

<上陸艇LCVPから銃を向けられ投降する日本兵 1945−6−25撮影>

<投降した日本兵>


戦いはつらかったけれど、それ以上につらかったのが飢えとの戦いであった。 

戦争はたくさんの人の命を奪ったり傷つけたり、建物を破壊するなどたくさんの悲劇を生ん だが、戦争で貴重な体験をすることができた。

どんなに厳しい規則や命令も人の心を縛り付けておくことができず、極限状態におかれた人間が本性をさらけ出し、理性的に生きることができないことを知った。

収容所の生活 二十歳

<沖縄の強制収容所の中の日本人捕虜>

収容所に入ると捕虜は素裸にされ、衣服は一カ所に集められて焼き捨てられてしまった。

虐待されるのではないかと思っていると、往診カバンをさげた軍医が一人やってきて、アカに汚れた捕虜の体を笑顔を見せながら診察していった。 

九ヵ月ぶりにドラ ム缶の風呂に入ると、PWのマークが入った作業衣に着替えさせられた。

昼食はアメリカ兵と同じ食事を出されたが、桑の葉や草の根などを食べていた胃袋が脂ぎった食べ物を受けつけようとしなかった。

収容所では、旧日本軍の組織はまったく通用せず、戦時中に部下をいじめた上官が仕返しされるのを目の当たりにした。 

初めはチーズにも拒否反応を示していたが、体力が回復するにつれて求めるようになり、三ヶ月ほどしたときに強制労働につくことになった。 

各部隊をめぐって土木作業などに従事していたが、言葉が通じないためにゼスチャーを交えながら片言の英語を話すしかなかった。

アメリカの軍隊では公私の別がはっきりしているだけでなく、たとえ後数分で作業が終了するときであっても、時間がくると作業が打ち切られた。

穴掘りをしていたとき黒人の連隊長に話しかけられたこともあれば、司令官の指示を受けながら官舎の作業をしたこともあった。 

捕虜の意見を受け入れて上官に抗議した監視もいれば、戦争をスポーツのように考えている兵隊がいたり、「広島や長崎に原爆を投下した責任者も軍事裁判にかけるべきだ」と発言する将校もおり、日本の軍隊では考えられないような光景をしばしば目にした。

日本では敵国語の使用が禁止されていたが、日本のことを研究していたという将校は、「日本では、母親が子どもをしかるときこうしてはいけないとか、ああしなさいというが、アメリカでは、お母さんならそのようにはしませんよ、という言い方をする。

日本では大臣になったから偉いというが、アメリカでは偉くないと立派なポストにつくことができないんだ」といった。 

ショックだったのは、「日本人の捕虜は働くけれど盗みもするが、ドイツ人の捕虜は働かないけれど盗みもしない」といわれた ことだった。

土曜日の夕方になると、広場に設けられた劇場で歌や踊りや劇が披露されたが、もっとも人気があったのが女形であった。

待望のラジオが取り付けられ、スピーカーから流れてくる懐かしいメロディに涙ぐむ者もおり、新聞を読んで日本の現状を知ることができるようにもなった。

キャッチボールの球がバリケードを越えてしまうと、巡視にやってきた将校のジープをとめて拾ってもらったりした。

このような将校の行為を軽蔑する捕虜もおり、さまざまなところでアメリカ人と日本人との考え方の違いを見せつけられた。


<1日2回の点呼のために整列する囚人たち。沖縄県嘉手納町付近にある捕虜収容所 1945-6-20撮影>

警察官として 二十一歳から

鉄柵に囲われた一年三カ月の捕虜生活は、途方もなく長く感じられたが、二十一歳の誕生日に復員することができた。

・・・・略・・・・

 

 

<続く>

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