38.連合国の日本占領
昭和16年12月8日、大国米国を相手に戦争に突入した日本は、国民生活を犠牲にした戦時体制を敷いて戦争を乗り切ろうとしていた。
しかし、昭和20年8月14日、連合国のポツダム宣言を受諾し戦争は終結した。
日本は米国を主体とする連合国軍の占領下に置かれ、大戦の清算をすることになった。
以下、昭和20年に起こった主な出来事を列挙する。
38.1.昭和20年(8月以降)の出来事
8月15日鈴木貫太郎内閣は総辞職し、8月17日東久邇宮稔彦内閣が誕生する。
8月15日、大本営は積極侵攻作戦の中止命令を出し、8月16日に一部の例外を除き、陸軍、海軍とも戦闘停止命令を出した。
8月22日終戦処理会議が設置され、終戦処理に向かって動き出す。
8月23日帝国陸軍部隊復員要領細則が公布され、兵士の復員作業が開始する。
8月25日陸海軍軍人に対し復員に関する勅論が下賜される。
8月29日、マッカーサーと幕僚たちはマニラから沖縄の読谷飛行場に到着。
8月30日、読谷飛行場から厚木飛行場に向かって飛び発ち、午後2時5分、厚木飛行場に到着する。
マッカーサー一行は、日本側が用意した自動車に乗り、横浜のホテル・ニューグランドに向かった。
9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリで降伏文書に調印する。
以降各戦場で降伏調印が行われる。最後の調印は10月25日「台湾」第10方面軍司令官の安藤利吉大将が、台北にて台湾省行政長官兼警備司令に降伏文書に調印。
9月27日、昭和天皇、駐日アメリカ大使公邸でマッカーサーと会談。
その後合計11回にわたって会談を繰り返した。
9月29日、略装でリラックスしているマッカーサーと、礼服に身を包み緊張して直立不動の昭和天皇が写された写真が新聞記事に掲載された。これは当時の国民にショックを与えた。
10月4日、連合軍総司令官マッカーサーは「人権指令」を出した。
これはGHQの最初の民主化指令であった。
しかし東久邇宮内閣は、この指令だけは実行できないとして翌10月5日総辞職した。
10月09日幣原喜重郎内閣成立した。
10月11日、マッカーサーは新任挨拶のために総司令部を訪れた幣原首相と会談し、五項目からなる指示・実施することを要求した。
いわゆる五大改革指令である。
その内容は、①女性の解放②労働組合結成の促進③自由主義教育の実施④圧制的諸制度の撤廃⑤経済の民主化の5つである。
「経済の民主化」のために行った大きな改革は財閥解体と農地改革であった。
財閥解体により証券の民主化が進み近代的な資本主義になった、といわれている。
また、農地改革により多くの小作農が土地を持つことができた。
しかし、米国においても資本の集中や土地の寡占化は起こっており、自国のことはさておいて、一種の社会実験を日本で行ったように思えるのである。
この、一見公平と思える農地改革も農地が細分化され、転売制限を設けなかったため、十数年後には、農業の効率悪化、地価の高騰などの弊害が出てくる。
それは農地が細分化されたため、本格的な農家が育ちにくく、食料自給率低下の原因の一つになった。
また農地の転売制限を設けなかったため、高度経済成長下の住宅ブームで地価が高騰し土地を手に入れることが容易でなくなった、ことである。
10月12日、GHQは戦争記録調査の指示を発令する。
10月22日、GHQは「日本の教育制度の管理についての覚書」を出して、軍国主義的・国家主義的な教育の禁止を指令した。
12月15日には、国家神道(神社神道)に対して政府や官公吏が保証・支援・保全・監督をすることを禁止する指令を出し、神道と国家との分離が命ぜられた。
11月30日、陸軍省・海軍省が廃止され、第一復員省・第二復員省が臨時に設置される。
復員業務を司るため、第一復員省は陸軍省、第二復員省は海軍が改組されたものである。
なお、昭和21年年6月15日、第一第二の復員省は統合して復員庁となり、それぞれ第一復員局、第二復員局となった。
1946年01月01日、天皇の元旦詔書交付(いわゆる「人間宣言」)
38.2.終戦処理(昭和20年)
38.2.1.戦闘停止命令
8月14日にポツダム宣言を受諾すると、翌15日に陸軍は各軍に「積極侵攻作戦の中止」を命令した。
<大陸命第1381号>
続いて16日に、陸軍、海軍とも「即時戦闘停止」を命令した。
<大陸命第1382号>
<大海令48号>
但し、自衛のための戦闘行為は妨げない、としたが、8月18日の命令で「内地において 22 日の零時以降、外地においても 25 日の零時以降、停止」となった。
8月17日陸海軍人に勅語「国家永年の礎を遺さむことを期せよ」が発布
「朕曩(さき)に米英に戰を宣してより三年有八ヶ月を閲す此間朕が親愛なる陸海軍人は瘴癘(しょうらい)不毛の野に或は炎熱狂濤の海に身命を挺して勇戰奮闘せり朕深く之を嘉す今や新に蘇国(ソ連)の參戰を見るに至り内外藷般の狀勢上今後における戰爭の繼續は徒に禍害を累加し遂に帝國存立の根基を失ふの虞れなきにしもあらざるを察し帝國陸海軍の闘魂尚烈々たるものあるに拘らず光榮ある我國體護持の爲朕は爰(ここ)に米英蘇並に重慶と和を媾(こう)せんとす
若し夫れ鉾鏑に斃れ疫癘に死したる幾多忠勇なる將兵に對しては衷心より之を悼むと共に汝等軍人の忠誠遺烈は萬古國民の精髄たるを信ず
汝等軍人克く朕が意を體し鞏固なる團決を堅持し出處進止を嚴明にし千辛萬苦に克ち忍ひ難きを忍ひて國家永年の礎をの遺さむことを期せよ」
8月18日
大陸命第 1385 号によって、内地において 22 日の零時以降、外地においても 25 日の零時以降、停止となる。
9月20日官報「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件(勅令第五四二号)」
38.2.2.降伏文書調印
9月2日
東京湾上の戦艦ミズーリで降伏文書に調印する。
同日次の地区で降伏文書が調印された。
①パラオ地区最高指揮官第14師団長井上貞衛中将が降伏文書調印、
②「中部太平洋」第31軍司令官麦倉俊三郎中将がトラック島にてアメリカ太平洋艦隊司令長官代理との間で降伏文書に調印
③ロタ島守備隊長降伏文書調印 今川茂男少佐(独立混成第10連隊長代理)が降伏文書に調印
④パガン島守備隊が降伏文書調印
9月4日
ウェーク島守備隊が米軍に降伏文書に調印
9月5日
ソ連軍、新京(長春)の関東軍総司令部を武装解除
9月6日
①第8方面軍司令官今村均大将と南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将が、ラバウルで濠軍第1軍司令官との間で降伏文書に調印
②マーシャル諸島のウオッゼ島守備隊・ヤルート島守備隊が米軍に降伏文書に調印
9月7日
①第35軍参謀長友近美晴少将が、ミンダナオ島タモンガンで米軍に降伏文書に調印
②先島群島司令官納見敏郎中将と奄美群島司令官加藤唯男海軍少将が、嘉手納で米軍に降伏文書に調印
9月8日
①第17軍司令官神田正種中将と第八艦隊司令長官鮫島具重中将が、ブーゲンビル島タロキナで濠軍に降伏文書に調印
②「タイ」第18軍参謀副長浜田平中将はバンコクにて在タイ連合軍地上軍指揮官との間で降伏文書に調印
③ルソン島の第41軍司令官(振武修団長)横山静雄中将が、モンタルバンで米軍との間で降伏文書に調印
④東カロリン諸島クサイ島守備隊が米軍との間で降伏文書に調印
9月9日
①「中国本土」支那派遣軍総司令官岡村寧次大将、支那方面艦隊司令長官福田良三中将が南京にて中国陸軍総司令官との間で降伏文書に調印
②朝鮮軍降伏文書に調印
③「濠北」第2軍司令官豊島房太郎中将が、モロタイ島で濠軍最高指揮官トーマス・ブレーミー大将との間で降伏文書に調印
④「南朝鮮」第17方面軍司令官上月良夫中将が、京城(ソウル)にて米第24軍団長に降伏文書に調印
9月10日
「ボルネオ」第37軍司令官馬場正郎中将が、ラブアンにて濠軍第9師団長との間で降伏文書に調印
9月11日
ボナペ島守備隊、ティモール島守備隊が米軍との間で降伏文書に調印
9月12日
南方軍総司令官寺内寿一元帥代理の第7方面軍司令官板垣征四郎大将がシンガポールで英軍南東アジア司令官代理に降伏文書に調印
9月13日
①「東部ニューギニア」第18軍司令官安達二十三中将が東部ニューギニアのウェワクで濠軍第6師団長に降伏文書に調印
②「英領マレー」第29軍司令官の石黒貞蔵中将が、クアラルンプールで英軍に降伏文書に調印
9月16日
①「香港」第23軍司令官の田中久一中将が、香港にて英軍ハーコート少将との間で降伏文書に調印
②香港守備隊が英軍に降伏文書に調印
9月17日
メレヨン島守備隊が米軍に降伏文書に調印
9月25日
「北緯16度以南のインドシナ」南方軍総参謀長の沼田多稼蔵中将が、サイゴンにて英軍第20師団長との間で降伏文書に調印
9月28日
「北緯16度以北のインドシナ」第38軍司令官の土橋勇逸中将がハノイにて中国軍第1方面軍司令官に降伏文書に調印
10月1日
「ジャワ」第16軍司令官の長野祐一郎中将が、ジャカルタにて英軍司令官クリスチン中将との間で降伏文書に調印
10月25日
「台湾」第10方面軍司令官の安藤利吉大将が、台北にて台湾省行政長官兼警備司令に降伏文書に調印
38.2.3.復員関係
8月17日
陸海軍人に勅語「国家永年の礎を遺さむことを期せよ」が発布される。
8月18日
帝国陸軍復員要領が公布され、戦地の兵士の復員に関する作業が開始される。
8月24日
厚生省に復員対策委員会が設置され、復員にむけての具体的作業が開始される。
8月25日
陸海軍軍人に対し復員に関する勅論が下賜される。
<陸海軍人に対し、復員に関する勅諭の概要>
「帝国陸海軍を復員するに当って、朕が股肱である陸海軍人に告ぐ。今や時運を考へ、干戈をやめて、兵備を撤収せんとしている。
軍人多年の忠誠を顧みるとき切々として胸次を刺す。
特に戦に倒れ、病に死んだ幾多の将兵を思うとき、真に感慨無量である。
茲に兵を解くにあたって、一糸乱れざる統制の下に、斎整迅速なる復員を実施し、もって皇軍有終の美を発揮せんことを切望する。
今後軍人は忠良なる臣民として各民業につき、艱苦に堪え、棘の道を切り開いて戦後復興に努力せよ。」
9月26日
9月に入って復員規定、細則などが公布され、9月26日復員戦第一号病院船高砂丸 メレヨン島から別府に帰る。
11月17日
中国本土から復員第一船が天津の塘沽を出港。(翌1946年6月軍民約150万人の帰国がほぼ完了)
11月30日
陸軍省・海軍省が廃止され、第一復員省・第二復員省が臨時に設置される。
復員業務を司るため、第一復員省は陸軍省、第二復員省は海軍が改組されたものである。
昭和21年年6月15日、第一第二の復員省は統合して復員庁となり、それぞれ第一復員局、第二復員局となった。
<続く>