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旅日記

望洋−64(ハワイ捕虜収容所)

37.ハワイ捕虜収容所

米軍は第二次世界大戦中に欧州や太平洋戦域で捕虜となった敵兵の一部を米国本土に設置した捕虜収容所に移送して管理していた。

終戦後も沖縄の捕虜収容所の一部の捕虜を米国本土に移送している。

37.1.ハワイへの移送

米軍は収容者を戦闘員と非戦闘員に分けた後、沖縄出身者、戦闘員を朝鮮人*1、将校・下士官、一般兵に分けて捕虜収容所に収容した。

*1:朝鮮人軍夫と、ごくまれに日本陸軍の士官学校を卒業し日本軍の将校となった朝鮮人将校もいた。彼らは朝鮮人軍夫と共に収容された。

昭和20年(1945年)6月から7月にかけて、増大し続ける日本兵捕虜の中から主に朝鮮人軍夫と沖縄の学徒兵と防衛隊員などをハワイの収容施設に移送した。

さらに一部はハワイから米本国や、グアム・サイパン・テニアン島の南洋へ移送された。

ハワイでは米軍の耕作業に従事して日当をもらい、帰郷の日を待ち詫びた。

米軍が沖縄から捕虜をハワイに移送した理由や目的について、はっきり解明された資料は見当たらず、不明である。

ただ、昭和27年(1952年)に日本が独立を回復した後も、沖縄は昭和47年(1972年)5月15日まで米国の統治下にあったことを考えると、この頃(終戦前)から米国は、沖縄をアジアの拠点とする計画があり、それと何らかの関係があるのではないかとの、妄想が湧いてくる。

ハワイに移送されて、その後アメリカ本土に移送された人々もいたが、多くは送還されるまでハワイで収容された。

<ハワイへ移送する船に連れて行かれるため、トラックで待機する人々>

<沖縄で捕虜になった日本兵たちが太平洋基地に向かう輸送船の乗船を待つ人々>

<ハワイ行きの捕虜移送船が待つ桟橋へ向かう人々>


37.2.ハワイの収容

太平洋戦争が開戦されて以降のハワイは主要な軍事拠点となり、第二次世界大戦における連合国側の捕虜となった兵士や軍属が一括りに収容された。

こうした捕虜の多くは太平洋戦線各地、そして時には大西洋の戦場からもハワイまで移送されていた。

1944年には少なくとも13カ所の捕虜収容所が設置されており、その内訳はオアフ島に11カ所、ハワイ島に2カ所とされる。

この内最大の収容許容人数の収容所はオアフ島のホノウリウリ収容所だった。

ここには、沖縄出身者、イタリア人、ドイツ系アメリカ人、韓国人、台湾人が収容されていた。

<ホノウリウリ捕虜収容所(ハワイオアフ島)>
平成27年(2015年)2 月24日、太平洋戦争中に使用された「ホノウリウリ日系人収容所跡地」がオバマ前大統領により、国定史跡に指定された。

ハワイからの送還

戦争終結後もしばらくハワイに滞在しており、本格的に帰還が始まったのは昭和21年6月を過ぎた頃であった。

昭和21年(1946年)10月から12月にかけてほぼ全員が帰還した。

 

37.3.収容所体験談

米国捕虜収容所の体験談

沖縄県平和祈念資料館に戦争体験者の証言がある。
その中に「安里 祥徳さん 1930年(昭和5年)生まれ ペルー出身」のアメリカ捕虜生活の証言がある。

安里さんは、ペルーの日系人だった。

小学校1年(6歳)のとき、日本に帰国した。

沖縄県立第一中学校(現在の首里高校)の2年生の時に学徒隊として動員され、1945年3月に、陸軍の電信36連隊・第5中隊に配属され、戦争に巻き込まれていった。

米軍に追われ、摩文仁まで撤退するが、6月に投降し捕虜となる。

7月、沖縄出身の捕虜だけが集められ、ハワイへ移送された。

そこから、サンフランシスコに移送され、11月頃に沖縄に帰ったと、と云う。

その時の経験談があるので、その一部を抜粋して次に記す。

 

<アメリカでの捕虜生活と私の戦後>

戦前の学校生活

私は、ペルー共和国のリマ区で生まれました。

ペルーの日本人小学校に半年間通いました。

小学校1年生の半年間です。

その次に、喜舎場小学校へ転校しました。当時の中城村立喜舎場 (尋常) 小学校です。

また、3年生の半ばから現在の首里の城西小学校、当時の首里第二(尋常) 小学校に転校しました。

その後、1943 年(昭和18)に沖縄県立第一中学校(現在の首里高校)に入学しました。

沖縄県立一中の授業では、1年生の時から学生達はいずれ軍人になることが決まっていたので、「軍事教練」という科 目がありました。

学徒隊として部隊に配属

1945年3月28日、友人と一緒に繁多川の通信隊本部に行きました。

私が所属する班は第五中隊だと知らされ、その隊に入隊しました。

入隊の時には、軍服が支給されました。私服は風呂敷に包んで保管し、軍服を着て陸軍の靴を履いて、陸軍二等兵の階級章を襟に付けました。

部隊の陣地は自然で、そこに入りました。所属班の人数は軍人が8~9人、我々生徒は4人でした。

仕事は4人のうち2組に分かれて、24時間交代制で勤務しました。

どのような任務だったかというと、私たちの班は伊江島の部隊との交信が主な役目でした。そして学徒兵の主な仕事は、送信に使う発電機のクランク回しでした。

食事時間の飯あげ (食料運搬) や食後の食器洗い、司令部に通信文を持って行く伝令の仕事など、そういったものでした。

ところが、4月下旬に伊江島の部隊が陥落してしまったので、私たちは中隊本部に引き揚げ、 そこでの任務となりました。

中隊本部での学徒兵の主な仕事は、食事の時の飯あげや集落まで行って水汲みをしたり、4時間交代の歩哨 (ほしょう)でした。歩哨というのは、壕の20~30メートル上の方に平台があって、そこで歩哨 (見張り)をしました。

歩哨とはいっても、すぐに敵兵が来る状況ではありませんでしたが、 防衛のためには歩哨を立てる必要がありました。

首里から島尻へ撤退

(略)

摩文仁の壕での生活

(略)

学徒隊の解散

それから6月20日になると、敵が摩文仁の集落まで攻めてきたので、学徒隊は解散することになりました。

学徒隊は全員集められて「敵は目前まで来ており、中隊の維持は困難である。

従って、中隊を解散する。学徒兵諸君ご苦労だった」「国頭では宇土 (うど)部隊が健在だという話もあるので、諸君は前線を突破して宇土部隊と合流し、戦って欲しい。

もし、 そこまで行けないのであれば、摩文仁の海岸に日本の潜水艦が救助に来るという情報もあるので、摩文仁で待っていてもよい。

どう行動するかは自分たちで考えろ」そう言われて、 学徒隊は解散となりました。

私たち学徒は腹ごしらえをして、日が暮れたら前線を突破しようと話し合っているところに、他の部隊の下士官が私たちの所へやって来ました。

その下士官に、私たちは 捕虜になるよう勧められました。

米軍の飛行機からは宣伝ビラが撒かれ、「日本の軍人は手を挙げて捕虜になるように」と日本語で書かれたビラがあちらこちらに落ちてい ました。

その下士官は、「あの宣伝ビラは本当だ」と言いました。

戦争捕虜の虐待を禁止した「ハーグ陸戦条約」という国際条約があることを、下士官は私たちに話しまし た。

「アメリカはハーグ陸戦条約を守るだろう。

虐待されることはないから、安心して捕虜になりなさい。

日本はこの戦争で潰滅する。

それは大変悲しいことだけれど、潰滅して良いというわけではなく、 新しい日本を再建しなければならない。

再建のためには、お前たち青少年が立ち上がるのだ。

お前たちがやるべき仕事はたくさんあるのだ から、死んではいけない。

死ぬより捕虜になるべきだ」 と勧められました。

それで私たち3人は、翌日の昼、手を挙げて摩文仁の丘陵地帯を登っていきました。

摩文仁の共同井戸のそばから上がって行くと、アメリカ兵が10人くらい居たので、手を挙げて降伏し捕虜になりました。

捕虜になり屋嘉の捕虜収容所へ

米軍にポケットの中を全部調べられて、武器を持っていないことが分かると、トラックに乗せられ知念方面へ連れて行かれました。

そこでトラックが止まり、捕虜がさらに7~8人乗せられ、屋嘉捕虜収容所に行きました。

そこは3つのキャンプに分かれていました。

日本の軍人 (本土出身)、沖縄出身の軍人・軍属、それから韓国人、そのように3つのキャンプに分かれていました。

キャンプには「Kレーション」という物がありました。

油紙で包まれた米軍の野戦食です。

ビスケットや小さい缶詰などの配給があり、それを食べました。

「米軍はこんな御馳走を食べて戦争をしていたのか」と思いました。

我々はお腹をすかせて過ごしていたので、戦争への準備の差を感じました。

船に乗りハワイへ

7月のある日、沖縄出身の捕虜だけが集められて、日系2世のハワイ出身の米軍人に名前を呼び上げられました。

名前を呼ばれた者はトラックに乗るようにと言われ、私もトラックに乗せられました。

それから北谷の海岸に連れて行かれました。

船に乗せられた時、私は「どこへ連れて行かれるのだろうか。

アメリカは、我々を奴隷にするために連れて行くのだろう」と思っていました。

その時、ハワイやアメリカ本土に行くとは考えられず、「ひょっとするとどこか南洋の島に連れて行かれ、奴隷のような作業 をさせられるのではないか」と考えたりしていました。

それから船が出港すると、甲板から遠く小さくなっていく沖縄本島を見て涙ぐむ人もいました。

船での食事の量は、非常に少なかったです。

アメリカ式の小さいお椀の半分くらいにメリケン粉 (小麦粉) とジャガイモ、人参、それらをケチャップで味付けした食べ物が1日2食配給されました。

私たちが乗った船は軍人輸送船で、柱で仕切られたキャンパス (簡易ベッド) が4段あって、そこを寝る場所にしていました。

この船での生活 は、パンツと袖つきTシャツそれぞれ1枚で過ごしました。

それが汚れると洗濯をしましたが、乾くまでは丸裸で過ごしました。

ハワイでの捕虜収容所生活

ハワイの収容所の食事は、非常に良かったです。

伊江島で捕虜になった人たちが先に来ていて、炊事係をやっていました。米軍人用の丸い食器があって、それにいっぱいご飯を入れてくれました。

「もっと欲しい」と言うと、更に入れてくれました。

欲しい分だけご飯が食べられました。

しかも白米でした。沖縄戦が始まって以来、食べたことがないような美味しい白米でした。

ハワイに来た捕虜は、みんな驚いていました。

こんなに美味しい白米を食べられる日が来るなんて、思ってもみませんでした。

サンフランシスコでの捕虜収容所生活

8月のはじめ頃、寒流の影響だと思いますが、アメリカ西海岸サンフランシスコは空気が冷たく、夜は暖房をつけて寝ていました。

空気が爽やかで良い所でした。

そこに は、サイパンで捕虜になった日本海軍の方々も一緒に収容されていました。

その後、彼らはテキサス州に送られました。

当時のアメリカ政府は、沖縄を日本から切り離す考えがあったかも知れません。

ウィスコンシン州とテキサス州それぞれの捕虜収容所から、沖縄出身の捕虜はサンフランシスコの収容所へ送られました。

そこから沖縄へ帰すためでした。

そして、テキサス州から来た14~15名ほどの捕虜は皆、着古した服を着て靴も破れていました。

肌の色も黒くなっているので話を聞いてみると、 大変な重労働をさせられたと言っていました。

大木を伐採し、輪切りにした木を担がされたり、 そのような重労働をさせられたと言っていました。

それに対して、ウィスコンシン州から 来た捕虜たちは、アメリカの日系2世部隊のような綺麗な格好をしていました。

服装や靴など綺麗な身なりをしていて、髪油 (ポマード) もつけていました。

彼らに話を聞くと、ウィスコンシンの収容所は食事も美味しかったそうです。

日給25セントの賃金をもらう事ができて、その賃金で買い物も出来たと言っていました。

それがウィスコン シン州の捕虜収容所の話でした。

アメリカという国は、ハワイの捕虜収容所行きの船もそれぞれで待遇が違いました。

アメリカ本土の捕虜収容所の待遇も、それぞれ違っていました。

アメリカという国は 1つの国家基準というのが無くて、船や収容所においてはそれぞれの責任者の判断次第という印象でした。

沖縄へ帰還

1945年11月頃、私が捕虜収容所から帰ってくると、 当時私の家族は、 具志川村 (現在のうるま市) にある塩屋に収容されていました。

そのため、 私は捕虜収容所から解放されても、自分の家族がどこにいるのか分からない状況でした。

そして、中城村は新しい行政地区のコザ (現在の沖縄市) 地区の管轄なので「コザ地区へ行きなさい」と、私は捕虜収容所で言われました。

私は家族の所在が分からなかったので、私を含めて3人で沖縄市安慶田で共同生活をしていました。

そのうち1人はフィリピンで捕虜になった人、もう1人はサイパンで捕虜になった人、そして私の3人で共同生活をしていました。

その後、私の母親は、誰に聞いたか分かりませんが、私が安慶田にいると知って探しに来ました。

私の家族が具志川に収容されていることを母から聞いて、具志川まで歩いて行きました。

そこでは偶然、私を入隊に誘った同級生と再会しました。彼は既に帰還し、近所に住んでいました。

彼は捕虜にならずに、摩文仁で住民に変装して、4、5日後には具志川に帰ってきたそうです。

そして、彼からいろいろな話を聞きました。

具志川には「前原ハイスクール」 という学校が出来ていることや、彼もその学校に編入したことなどを聞きました。私も編入することを勧められました。

終戦後の学生生活

(略)

英語を学ぶ道へそして渡米へ

(略)

若い世代に伝えたい事

戦争を経験し、とんでもない戦争をしたなと思いました。

どうにか戦争を避ける方法はなかったのかと思いました。

しかし、我々としては沖縄戦が起きないような歯止めをかける力もなかったし、当時の日本は軍国主義という流れが続いてきました。

私の同級生も115人が入隊して、65人が戦死しました。

沖縄の住民も14万人が亡くなって、それから他の軍人や軍属も含めて24万人が摩文仁の慰霊塔に祀られています。

この戦争というのは大悲劇を起こすもので、二度とあってはならないと非常に強く思っています。

 

<続く>

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