22.漂流
宮古島に向かった梯隊船が航行中に漂流した、その体験談について次に話したい。
22.1.浜田中隊長の話(その2)
1月11日、浜田中隊が乗った船は久米島を出港し、その夜僚船の火災を目撃したが荒天のため波が高く救助に向かうことが出来なかった。
12日の夜が明けるのを待って捜索したが、発見できず、心を後に残しながら宮古島方面に航行を開始した。
13日、エンジンの故障などが起こったが、なんとか微速で航行できた。
14日、午後3時頃に島影を見つけ、その島を目指して進んだ。
その島は石垣島だった。
石垣島
石垣島についた浜田中隊長は、早速船舶連絡所で部隊本部に連絡しようとしたが、戦隊長の船は多良間に漂着して解体され沈没したと知らされた。
そして金山戦隊長達は現在そこに滞在中とのことであった。
浜田は石垣島で船の修理を行うことにした。
そして、「修理が完了次第、宮古島に廻航する」との報告を、連隊長と旅団の兵站部に連絡した。
浜田は、軍人旅行者として兵站旅館(将校達が泊まる旅館)で過ごし修理の完了を待った。
1月11日に起こった爆発船の詳細は未だ分からない。
約10日間位で修理を終え、再び石垣島より宮古島に向った。
この日は幸運も春うららで、波も静かで、敵のグラマンの来襲を警戒したが、一度も遭遇することなく宮古島平良港に到着した。
金山戦隊長は既に宮古島に到着しており、浜田中隊長は、金山戦隊長・高山中隊長らの出迎えを受けた。
この時初めて浜田中隊の第一群長池内見習士官以下の戦死を知らされた。
どうか生きていて欲しいと願った一樓の望みもたたれ、ただ茫然として言葉もなかった。
もとより死は覚悟の上とは言いながら、故郷より遠く離れた暗黒の海上で志を達せず波間に散ったことは、さぞかし無念であったろうかとの想いが湧いてきた。
そして、戦争の残酷さを身をもって痛感したのである。
浜田は池内群長たちの冥福を心から祈った。
宮古島に到着後に、第四戦隊は事故などにより隊員・舟艇が減少したことにより再編成がなされた。
第一、第二、第三の3つの中隊が第一、第二中隊の2つの中隊となった。
そして、限られた㋹艇を整備し、日常訓練を重ね、来る日の為に準備する日々を過ごすことになった。
22.2.吉田隊員の回顧
吉田隊員は、この航海で生き延びることが出来たのは、船長の経験と人間愛のお陰だと述べている。
そして、人命軽視した戦い方を非難している。
座間味島出港
昭和20年1月、敵機来襲が激化するなか、 私たちは慶良間島座間味を機帆船梅丸八六号にて暗夜一路守備地の 宮古島を目指して出航しました。
この時には、すでに制空、制海権ともに敵の手中におさめられ、日中は敵機の思うがままの飛翔であった。
しかし、当時はそんなことはつゆ知らず、このようなこと(米軍が思うがままに飛翔できること)は戦場では普通の出来事であると思っていました。
ひたすら私は勝利を信じて「いまにみていろ」という闘魂をわかせながら敵機の飛去るのを見ていました。
海はかなり荒れていました。
船がゆれるたびにデッキから海水の飛沫が激しく流れこんできました。
いまにも激浪のために小さな船が木の葉のようにゆれ、 沈没するのではないかと思われるような恐怖におそわれました。
船室で毛布にくるまりながら、じーっと夜の明けるのを待っていました。
そんな状況のなか、何日たったのであろうか、誰かが大きな声で島が見えるぞという大きな 叫びにさそわれて、デッキに出て見ると遥かかなたに小さな島が霞んで見えていました。
そこは日本の最南端で西表島でした。
そうすると、かなり針路が荒海のためにそれていることがはじめて分かりました。
西表島から宮古島へ
突然敵機来の報に接し、遥かかなたの空を見ると B24が我が物顔にゆうゆうと島の上空をとんでいるのが観測されました。
<B24大型爆撃機>
船長の命により私たちは爆撃をされた場合にはいつでも海に飛び込める用意を指示されました。
救命胴衣を付け、自分の持ち物を身に着け、乾パンも加えた。
そして、船長からこの海城には大きなサメが遊泳していることもつけ加えられました。
船はエンジンをストップをし、波の揺れにまかせて海上を漂流していました。
後分かったことであるが、急に逃げるとか、船を進行させているとスクリューの作る泡のために航跡が上空から確認されてしまうために、とっさの船長の判断によってとられた処置であった。
船長の長い船員生活の感と、尊い経験の賜ものであると深く感謝し、驚嘆させられた出来事でした。
そんな中で幸いにもB24は何事もなく上空を通過していきました。
あまりに船が小さいのでB24に発見されずにしまったものと思われます。
このような頻繁な敵機の来襲状況から判断すると、すでにこのあたりの制空権は完全に敵 の手中にはいっていることがわかりました。
私たちは疑問として、何故、B24はサイパン島を基地としているのに日本の飛行機は攻撃をしかけてこないのか、B24はあんなに低空でゆうゆうと小さな島の上空を偵察しながら飛んでいるのに、敵機の思うがままになされていることが不可解でなりませんでした。
それでも私は戦いが負けているとは思われなかった。 勝利を信じて俺がまだ生きているではないか、という自惚れを持っていました。
B24がなんだ、俺の目標は艇に爆薬を積み、それを操縦して戦艦か航空母艦を目指して体当たりを敢行することだ。
一艇一艦の必沈の意気にもえていました。
そう信じこまされ、若気に燃えていました。
俺はかたくそれを信じていました。
一艇一艦の戦法、俺はそのことは正しいものと信じて訓練に励んできました。
俺がやらずして誰がやるのだ、今こそその時がきたのだ。
俺の一命が祖国を守るのだ、俺の一命が日本国民を守ることができるのだ、俺の一命で親や友だち恋人を守ることができるのだ。
そんなだいそれたことを、吸い込まれるように信仰し、特攻隊に選ばれたことがむしろ名誉であり、誇りでもありました。
命は惜しくない、そんな心境で、いつでも死ぬことだけを考えて、死ぬことはすこしも怖くはなかった。
特攻隊員が戦死をすれば二階級特進も約束されていました。
現にその二階級特進のための階級章もすでに配布されてもいました。
出撃の時にはそれをつけて発進していくのだ。なんの躊躇いも迷いもありませんでした。
ひたすら出撃のチャンスを待ち望んでいました。
こんな心境を今考えれば本当に狂気の沙汰であるが、当時は本当に若かった幼稚な考えでありました。
ただ正義感に燃え、ひたすら祖国を守るための愛国心が充満していました。
そんな 若者の一本気な心意気を特攻戦法は巧妙に利用した兇器であるということが今になってやっと分かってきました。
国のため、親のため、恋人のためと、ひたすら自分を犠牲にして死におもねく若者の心理を巧妙に利用した特攻戦法は、戦争の兇器であると思います。
それに生活環境も日一日と悪くなっていました。
食料は欠乏し、なんの楽しみも夢も希望もありませんでした。
寝ても起きても敵機から攻撃されるのを恐れて、ただ逃げまわっていました。
多良間島到着
そんな毎日であって、日増しに敵機来襲も激しくなってきて、 昼間の船舶航行は絶対的に不可能になってきました。
(西表島から石垣島を経て宮古島に向かう途中)
暗夜に乗じて、やっとたどりついた島が周囲16Km、直径4Kmという非常に小さな多良間島でした。
そこに3隻の㋹艇を上陸させてアダンの葉を上にのせ擬装しておきました。
3月になり、沖縄戦も激化し敵が沖縄上陸に向けてその周辺諸島に対しての艦砲射撃も一段と激しさをましてきました。
㋹の引航
守備島の宮古島からは一刻も早く艇を宮古島に引航してくるようにという特命もだされていました。
この時には完全に制空、制海権は敵の手中にあり、昼夜兼行の激しい爆撃が行われておりまして船の航行は日中は絶対にできませんでした。
艇引航はどうしても天候の悪い、雲が多く雨模様の波の荒い時をねらって出航するということになりました。
暗夜に乗じて時のくるのを待っていました。
2〜3日後に低気圧の接近に伴い、かなり激しい風雨の強い暗夜に私たちは決死の多良間島出航をいたしました。
3隻の艇を機帆船で引航するわけであるが、激浪のために船が木の葉のように搖れておもう様に進行いたしませんでした。
普通ならば、5〜6時間の距離ですが、倍以上の時間がかかりました。
夜の8時に出航して明方の午前6時に宮古島に着きましたが、港は爆撃によってものすごく破壊されておりました。
船をつける場所がありませんでした。
一刻も早く艇を安全な 場所に引航したいのですが、 なかなか安全な場所が見つかりませんでした。
そんなわけで海上をうろうろしているうちにかすかな爆音が聞こえました。
艦載機のコルセアが数機頭上に飛来してきました。機帆船めがけて瞬く間に機銃掃射をはじめ、ときおり爆弾投下を行いました。
その水しぶきが高くあがり一面にとび散ってい ました。
<コルセア戦闘機>
私たちは、船長の命によりまして救命胴衣をつけて海中に飛び込みました。
攻撃目標にされている船から早く遠ざかるように力泳しました。
爆弾投下のたびに強い水圧 がびんびん腹に響いてきました。
そんな時には仰向けになって泳ぎましたが、そんなしぐさも発見されて容赦なく機銃掃射を浴びせられて、まったく生きた心地はしなかった。
必死に泳いだために仲間が皆な散り散りバラバラに分散してしまったために、さすがの敵機も目標物が見えにくいのか攻撃を諦めて飛去ってしまいました。
あとにはせっかく大事に引航してきた機帆船も火災をおこしたり、破壊されたりしてい て、もう使い物にならなかった。
無惨な姿になって船影だけが残されていました。
このような状態で、このような処置の船長に対して、上陸後船長は上官からかなりきびしく叱責されたり、大声で怒鳴られたり、恥辱されたりなどの制裁をうけ、かなり厳しい処罰をうけたようであった。
人命よりも兵器や物のほうが尊いというような風潮の中で、この船長の人命第一主義で生きていたおかげで私たちは本当に命拾いをしました。
当時の考えからすれば、自分に与えられた船と運命をともにするのが軍人の本分であったわけですが、人命よりも兵器が大事なような世相にあっても、この船長の取った処置こそ本当の人間愛ではなかったのか。
生き残った者として今静かに振り返ってみると、戦争とはなんて人命軽視で、虫けら同様に多くの人たちが死地に追いやられたが、ばかばかしい狂気の沙汰でもあり、戦争が二度と起らないようにすることを私は声を大にして叫びたいと思います。
<続く>