裁判審理経過
昭和21年(1946年)6月4日から審理が始まり、検察側の立証が開始された。
この検察側の立証は翌年1月24日に終了し、引き続き弁護側の反証が始まった。
弁護側の反証は9月10日から、被告人の個人反証段階となった。
ただ一回だけ自ら法廷に立って弁明する機会がやってきたのである。
しかし、被告の中には自ら証言することを選ばない者もいた。
土肥原賢二、畑俊六、平沼騏一郎、広田弘毅、星野直樹、重光葵、佐藤賢了、梅津美治郎らの被告であった。
この内の多くの被告は法廷戦術上有利であると、弁護人からの勧めで証言台に立たなかったと云われている。
検察立証
昭和21年
6月4日:冒頭陳述
6月13日:国家組織、世論指導など
7月1日:満洲事変段階
8月6日:日支戦争段階
9月19日:日独伊三国同盟段階
9月30日:仏印段階
10月8日:ソ連段階
10月21日:一般的戦争準備段階
11月4日:太平洋戦争段階
11月27日:残虐行為段階
昭和22年
1月17日:個人別追加立証
1月24日:終了
弁護側反証
2月24日:弁護側反証開始
9月10日:個人反証開始
昭和23年
1月12日:終了
検察側反証及び弁護側再反証
1月13日:開始
4月16日:終了
この個人証言で最も注目を浴びたのは、日本が米、英、蘭に宣戦布告した当時の首相である東條英機であった。
この東條英機の個人反証を、極東裁判速記録及びドキュメンタリー映画「東京裁判」を参考、引用して少し詳しく記述したい。
51.東條の個人反証
51.1.弁護人の陳述
昭和22年12月26日(金)、東郷茂徳に続いて、この裁判の主役とも云える東條英機が登場する。
日本人弁護人の誰一人として東條の弁護を担当しようとしなかったため、清瀬弁護人がこれを引き受けた。
東條は悲惨な戦禍を招いた最大の責任者として、ありとあらゆる避難、中傷、罵倒が積み上げられ、獄中においても被告等の多くは敢えて彼に近づこうとはしなかった、と云われている。
東條は孤独な獄中生活の全精力を口供書の作成に費やし、清瀬、ブルーエット両弁護人は心血を注いでこれを書き上げた。
51.1.1.清瀬一郎弁護人の劈頭陳述
まず、清瀬一郎弁護人が劈頭陳述の朗読を行った。
清瀬は口供書を重点的に要約し、大東亜戦争の侵略説を真っ向から否定した。
さらに、清瀬は開戦中のアジア政策は侵略ではなく諸民族の開放と独立を目指したものであるという口供書の主張を訴えた。
清瀬は東條の口供書を7点に要約して陳述した。
第一、日本は予め、米、英、蘭に対する戦争を計画し準備したものではない
第二、対米、英、蘭の戦争はこれらの国々の挑発に原因し、我が国としては自存自衛のため、真に止むを得ず開始させられたものである
第三、日本政府は合法的開戦通告を開始前に米国に交付するため周到なる注意を以て手順を整えた(後に、外務省の落ち度で通告が遅れた、とされている)
第四、大東亜政策の真意義
第五、所謂「軍閥」の不存在
第六、統帥権の独立と連絡会議及び御前会議の運用
第七、東條の行たる軍政の特質は統制と規律に在った事
51.1.2.ブルーエット弁護人の東條口供書の朗読
続いて、ブルーエット弁護人が東條の口供書を三日間かけて読み上げた。
口供書は156項目にかけて書かれてあった。
その最後に、東條は次のように結んでいた。
(要約)
日本帝国の取った道は侵略でも搾取でもなく、憲法、法律に定められた手続きに従って処理してきたものである。
当年国家の運命託された我々としては国家自衛のため立つと云うことがただ一つ残された途であった。
この戦争が国際法上において正しいものであったか否かということと敗戦の責任の如何とは別問題である。
私は、この戦争は最後まで自衛戦であったことを主張するが、敗戦は私の責任であり、これを受諾する覚悟である。
<東條英機の口供書の最後の部分>
終りに臨み
恐らくこれが当法廷の規則の上に於て許さるる最後の機会でありましょうが私は茲に重ねて申上げます。
日本帝国の国策乃至は当年合法に其の地位に在った官吏の採った方針は、侵略でもなく、搾取でもありませんでした。
一歩は一歩より進み、又適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、憲法及法律に定められた手続きに従い事を処理して行きましたが、遂に我が国は彼の冷厳なる現実に逢着したのであります。
当年国家の運命を商量較計するの責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起つという事が唯だ一つ残された途でありました。
我々は国家の運命を賭しました。而して敗れました。而して眼前に見るが如き事態を惹起したのであります。
戦争が国際法上より見て正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何との問題とは、明白に分別の出来る二つの異なった問題であります。
第一の問題は外国との問題であり且つ法律的性質の問題であります。
私は最後まで此の戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。
私は未だ曽て我国が本戦争を為したことを以て国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、又敗戦国の適法なる官吏たりし者が個人的の国際法上の犯人なり、又条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考えた事とてはありませぬ。
第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。
この意味に於ける責任は私は之を受諾するのみならず衷心より、進んで之を負荷せんことを希望するものであります。
昭和二十二年(一九四七年)十二月十九日
換東京、市ヶ谷
供述者 東條英機
ドキュメンタリー映画「東京裁判」
ドキュメンタリー映画「東京裁判(公開日1983年6月4日)監督:小林正樹」のナレーター(佐藤慶)は、この東條の口供書の反響を次のように語っている。
この東條の口供書は内外から批判、攻撃を浴びた。
ニューヨークタイムズは東條の自衛戦争という主張を言い訳と決めつけた。
また朝日新聞は天声人語で、「東條被告の口供書を見ると、終戦前の用語集をチリを払って読まされるような気がする」と書いた。
東條が戦中から主張していた、この戦争は自衛戦争であり、また戦後も尚この主張を崩さないという一貫性は、東條を批判する人々にとって許しがたいものであった。
<太平洋戦争開戦の日、昭和16年12月8日に放送された、開戦にあたっての東條英機首相の演説>
東条首相
ただ今、宣戦の御詔勅が渙発(かんぱつ)せられました。
精鋭なる帝国陸海軍は、今や決死の戦いを行いつつあります。東亜全局の平和はこれを念願する帝国のあらゆる努力にもかかわらず、遂に決裂のやむなきに至ったのであります。
過半来、政府はあらゆる手段を尽くし、対米国交調整の成立に努力してまいりましたが、彼は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、かえって英蘭比と連合し、支那より我が陸海軍の無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄を要求し、帝国の一方的譲歩を強要してまいりました。
これに対し帝国は、あくまで平和的妥結の努力を続けてまいりましたが、米国はなんら反省の色を示さず、今日に至りました。
もし帝国にして彼らの強要に屈従せんか、帝国の権威を失墜、支那事変の完遂を切り捨てたるのみならず、遂には帝国の存立をも危殆(きたい)に陥らしむる結果となるのであります。
事ここに至りましては、帝国は現下の時局を打開し、自存自衛を全うするため、断固として立ちあがるのやむなきに至ったのであります。
今、宣戦の大詔を拝しまして、恐懼(きょうく)感激に堪えません。
私、小なりといえども、一身を捧げて決死奉公、ただただ宸襟(しんきん)を安んじ奉らんとの念願のみであります。
国民諸君もまた、己が身を省みず、醜(しこ)の御盾たるの光栄を同じくせらるるものと信ずるものであります。およそ勝利の要決は、必勝の信念を堅持することであります。
(以下略)
主権国家における自衛と侵略と云う問題は東京裁判の重要なテーマであり、現在においても人類社会が扱いかねている難問である。
ブルーエット弁護人「東條口供書」の朗読は、3日間にわたり、12月30日午後2時28分まで続いた。
その後、ブルーエット弁護人自身より、少しばかりの補充説問があり、木村、岡、星野、木戸、島田等を代表する弁護人等からの補充又は反対尋問がなされた。
この弁護人等からの尋問の中で、木戸被告担当のローガン弁護人の質問に対する東條の答えが、キーナン首席検事を焦らせた、とドキュメンタリー映画「東京裁判」のナレーターは語っている。
<ローガン弁護人の質問に対する東條の答え (極東裁判速記録より)>
ローガン弁護人 では問題を変えますが、嶋田を海軍大臣に任命することに関して、木戸は直接にも、間接にも、すなわち文書によってもあるいは彼の実際の行動によつても、彼を海軍大臣に任命することに何か関係があったことがありますか。
いついかなる時期においても。
東條証人 私は、そういうことは絶対にありません、ないと記憶しております。
のみならず、私はたとえ木戸がそういうことを言ったにしましても、私は承知しません。
ローガン弁護人 天皇の平和に対する御希望に反して、木戸が何か行動をとったか。
あるいは何か進言をしたという事例を、一つでもおぼえておられますか。
東條証人 そういう事例は、もちろんありません。
私の知る限りにおいては、ありません。
のみならず、日本の臣民が、陛下の御意思に反してかれこれするといろことはあり得ぬことであります。
いわんや、日本の高官においておや。
ローガン弁護人 これをもって、本戸公のための尋問を終了いたします。
裁判長 あなたとしては、これから起るところのいろいろなこまかな意味合いをよくわかっておると思います。
これから、というのは、ただいまの回答がどういうことを示唆するということがわかるでしょうね。
<ドキュメンタリー映画「東京裁判」ナレーターのセリフ>
木戸被告担当のローガン弁護人の質問に対する東條の答えが、キーナンを焦らせることになった。
この証言は、明らかに東條の失言となった。
日本の行為が総て天皇の意思に従ったものなら、戦争、残虐行為も天皇の意思と云うことになるからである。
天皇の責任を問うべきである、と主張しているウエッブ裁判長がこの発言を見逃すことはなかった。
ウエッブは「ただいまの回答がどういうことを示唆するということがわかるでしょうね」と言い、これは「天皇の責任追及の根拠」が見つかったことを意味していた。
キーナンは思った。
『これは不味い、東條にこの発言を訂正させなければ』
そしてキーナンはこの「発言を訂正」させるため弁護人他あらゆる人脈を通じて工作をした。
弁護人側の質問が終わると、愈々検察側の反対尋問が開始される。
満場が注目する中、連合11ヶ国の組織する検察団を代表してジョゼフ・キーナン氏が、発言台の前に現れたのは昭和22年の大晦日、12月31日午前10時25分であった。
<続く>