47.極東軍事裁判開設
極東国際軍事裁判所は、昭和21年(1946年) 1月19日、連合国最高司令官マッカーサー 元帥が設立に関する特別宣言書を発することにより設立された。
この宣言書は,連合国が枢軸国の戦争犯罪人を裁判に付する意図を随時宣言してきたこと、ポツダム宣言で日本の戦争犯罪人を峻厳に裁判することを降伏条件としたこと、この降伏条件を日本が受諾したことなどを述べて、日本国の権限は降伏条件を遂行するため連合国最高司令官の下に委ねられたことを明らかにした。
前に述べたようにマッカーサーは、自分の占領政策が降伏条件に縛られることを嫌い、自由裁量をトルーマン大統領に直訴した。
トルーマン大統領はこれに答え9月6日、連合国最高司令官の権限に関する指令(JCS1380/6 =SWNCC181/2)がトルーマン大統領から統合参謀本部を通じて送付された。
この指令は、日本占領に関するマッカーサーの権限は絶対的で広範なものであることを規定し、日本の管理は日本政府を通して行うという間接統治方式を示したが、必要があれば直接、実力の行使を含む措置を執り得るとした。
さらに、ポツダム宣言が双務的な拘束力をもたないとし、日本との関係は無条件降伏が基礎となっていると明記した。
すなわち、ポツダム宣言第6項以降に書かれている、ポツダム宣言受諾条件を反故しても構わない、としたのである。
この指令により、マッカーサーに日本占領に対する全権が与えられた。
日本が受諾したポツダム宣言は、降伏条件の一つに「戦争罪人の処罰」をあげていた。
宣言の受諾は昭和20年(1945年)9月2日、日本の降伏文書調印で確定し、連合国が日本の戦犯を裁く極東国際軍事裁判(東京裁判)開設の法的根拠となっていた。
極東軍事裁判の概略経緯
昭和21年(1946年)
1月19日 - 極東国際軍事裁判所条例制定
同日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官:ダグラス・マッカーサー元帥による「極東国際軍事裁判所設立に関する特別宣言」
4月17日 - A級戦犯28名が確定
4月29日[注釈 2] - 起訴状の提出
5月3日 - 開廷(於:市ヶ谷の旧陸軍士官学校)
5月6日 - 罪状認否
5月13日 - 弁護側による管轄権忌避動議
5月14日 - 弁護側による補足動議
5月17日 - 補足動議は全て却下された
6月4日 - 検察側立証開始
昭和22年(1947年)
1月24日 - 検察側立証終了
1月27日 - 弁護団による公訴棄却動議の提出
2月24日 - 弁護側反証開始
(5月3日 - 日本国憲法施行)
昭和23年(1948年)
8月3日 - 判決文の翻訳開始
11月12日 - 判決言い渡し終了
12月23日- A級戦犯中7に死刑執行
昭和27年(1952年)
4月28日 - 日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)発効により、日本国政府は本裁判を受諾
47.1.裁判所の構成
裁判官:
米、英、仏、中、カナダ、豪州、オランダ、ニュージーランド、ソ連、インド、フィリピンから各1名ずつ、合計11名。
裁判長は豪州の連邦高裁判事も務めたウェッブ氏。
国際検察局:
米国のキーナン首席検察官を長とする連合国各国出身者から構成される検察局。
弁護団:
各被告につき数名の弁護人がついた。
鵜沢総明氏が団長、清瀬一郎氏が副団長となり、「極東国際軍事裁判日本弁護団」を結成し弁護にあたったほか、ブレイクニー氏等米国人の弁護人も参加した。
47.2.被告
極東国際軍事裁判に起訴された被告は合計28名であった。
戦争犯罪容疑者の逮捕
昭和20年(1945年)8月30日、連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥は、神奈川県の厚木飛行場に降り立った。
その夜、マッカーサーは、日米開戦時の首相だった東条英機の逮捕と、戦争犯罪人の容疑者リストの早急な作成を指示した。
マッカーサーの命令で、戦犯容疑者の選定が行われ、逮捕命令が出された。
9月11日に連合国軍最高司令官から終戦連絡中央事務局を通じて日本政府に通達され、本人にはアメリカ軍の第8憲兵司令部への出頭命令という形で伝達され、多くの逮捕者が出た。
戦犯容疑者に指名された主な人物は東條内閣の閣僚達で、東条元首相をはじめ、東条内閣の閣僚だった東郷茂徳(元外相)、嶋田繁太郎(元海相)、賀屋興宣(元蔵相)、岸信介(元商工相)らであった。
東条は9月11日、拳銃での自殺を図ったが、弾丸は心臓をわずかに外れ、一命をとりとめた。
日米開戦時の参謀総長で、逮捕が確実視されていた杉山元も9月12日に拳銃で自殺した。
マッカーサーは、真珠湾攻撃を仕掛けた東条内閣の閣僚たちを、米国独自の軍事法廷(BC級戦犯法廷)の場で、早急に殺人罪に問いたいと、本国に伝えた。
しかし、統合参謀本部は11月10日、マッカーサーの主張を退け、東条らを「A級戦犯」として国際法廷で裁くのが米政府の方針だと通達してきた。
続いて11月19日、12月2日、6日に第二〜四次の逮捕命令が出され、A級戦犯容疑者は約百人に達した。
近衛文麿(元首相)は出頭期限の12月16日未明、青酸カリを飲んで自決した。
被告の選定
11月29日、トルーマン米大統領は、ジョセフ・キーナンを日本の戦争犯罪者捜査の法律顧問団団長に任命した。
キーナンは12月6日に東京に入り、翌7日にはダグラス・マッカーサーと会談した。
GHQ内に、キーナンを首席検察官とした国際検察局が設立された。
キーナンは、要員を年代別・分野別に分けた作業グループに配置し、被告の選定に当たらせた。
その結果、逮捕リストから外れていた岡田啓介(元首相)、有田八郎(元外相)、重光葵(元駐ソ大使、元外相)、梅津美治郎(元関東軍司令官、参謀総長)らも検討対象となった。
米国の検察陣は、日本人の国民感情を探るために終戦連絡事務局に接触した結果、東条のほか、松岡洋右(元外相)、荒木貞夫(陸軍大将、元文相)、大川周明(思想家)、武藤章(元陸軍省軍務局長)、さらに未拘禁の岡敬純(元海軍省軍務局長)の起訴について確信を深めた。
連合国各国の検事による検察局執行委員会は、昭和21年3月4日から会議を重ね、被告を29人に絞り込んだという。
4月8日の参与検事会議で、石原莞爾、真崎甚三郎、田村浩(元学劇情報局長官)の除外が決まり、26人が残った。
石原は満州事変の首謀者だったが、当時は決定的な証拠に父けており、逮捕リストからも滑れていた。中国の検事も、石原よりは、満州事変だけでなく日中戦争の残虐行為にも関与した板垣征四郎(陸軍大将、元第七方面軍司令官)の追及に熱心だった。
当事者の一人、花谷正の手記が雑誌に公表されて満州事変の全貌が明らかになるのは、東京裁判判決の八年後、五六年(昭和三十一年)のことである。
陸軍の皇道派の巨頭だった真崎は、二・二六事件の後、反乱幇助の疑いで憲兵隊に逮捕され、無罪判決を受けている。
東京裁判では、捜査に協力的で好印象を与えたため、訴追を免れたとの見方もある。
4月13日に遅れて到着したソ連検事団は、17日の参与検事会議で被告の追加を求め、未拘禁で不起訴と合意されていた重光と梅津の二人が被告に加えられた。
結局、28人が起訴された。
この間、世界が注目したのは、昭和天皇の処遇だった。
昭和21年年1月9日、オーストラリアは、ロンドンの連合国戦争罪委員会に対し、昭和天皇を含む64人の戦犯リストを提出した。
しかし、アメリカは「天皇を告発するならば、日本国民の間に大争乱がおきるだろう」と判断していた。
米政府の強い意向にソ連を含むその他の連合国はあえて反対を唱えず、4月3日、ワシントンで開かれた極東委員会で、天皇は不訴追と決まった。
<続く>