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旅日記

石見の伝説と歴史の物語−40(荘園−1)

15. 荘園

天平15年(743年)に墾田永年私財法が発布され、開墾した田地の永久私有が認められることと なった。
この法令を契機として、中央の貴族や寺院は地方豪族とむすんで大規模な開発を行うとともに、買得による私有地も広げ大土地所有が始まっていった。

15.1. 荘園の概要


15.1.1. 初期荘園

日本は、文武天皇の御代、大宝元年(701年)に大宝律令が定められ、律令国家となった。

律令とは東アジアで見られる法体系で、律は刑法、令はそれ以外に相当する。

こうして独自の律令を持つことにより、独立国であることを示したのである。

この体制の成立により、豪族たちによる土地所有は制限され、中央集権の支配体制ができた。

しかし、従来からの慣習で国有とならず、「例外的な土地」 として一部私有が容認され、これらの豪族の身分や経済的な生活基盤は、実質的には保証され、貴族階級として新しい体制の中に組み込まれていった。

人々は律令制の公地公民制に基づく班田収授制により、国家から口分田とよばれる一定の面積の農耕地を与えられた。

ところが奈良時代になると、稲作農耕の技術が安定し、口分田が農民に与えられ安定した食生活が確保されるようになり、人口が増えてくる。

そうなると、この口分田が足りなくなってきたのである。

そこで朝廷は、養老7年(723年)に三世一身の法(新しく自分で土地を切り開いた者には、その土地を3世代(孫の世代)まで自分たちの土地にしていいという法律)を作って、この問題を解決しようとした。

しかし、農民たちにとって3世代で実質的に得るものと、荒れ果てた土地を開墾する手間暇を考えると、新しい土地を開拓する意欲も湧いてこなかった。このため、この法による実績は上がらなかった。

それではと、朝廷は次の手をうつ。天平15年(743年)に墾田永年私財法を制定して、土地の私有を認め、それに課税する、という法である。

しかしこの法は律令制の崩壊を生み出す要因の一つになったのである。

 

私有を認められた土地は、管理のための事務所や倉庫が「荘」と呼ばれていたことから荘園と呼ばれるようになった。

ただし、初期荘園は畿内に集中していて、全国に満遍なく広がっていたわけではない。

<荘園の絵図>


15.1.2. 荘園の開発

初期荘園の多くは、律令国家から租税の免除(不輸)を認められなかったこともあって、経営が不安定であり、また国家の支配機構に依存していた面もあったので、9世紀には衰退していく。

私営田領主

地方の有力者である郡司、あるいは国司や軍毅(古代日本の軍団を統率した官職)などになって地方に赴任した官人のなかからも、その地位を利用して私営田領主(広い土地を自分で直接経営する大土地所有者)となるものも生まれた。

かれらは天平15年(743年)に墾田永世私有法が施行されると、その地位を生かして土地を開墾し勢力を広げていった。

私営田経営に動員される農民は、その日の夕食の調達にも不自由するような貧農であった。このような貧農こそ、私営田領主がその田地を急速に拡大する労働源であった。 

しかし、しだいに私営田領主は権力だけで農民をおさえることが難しくなってきた。

そこで領主たちは実力(武力)を身につけ兵(つわもの)となることによって農民にいうことをきかせねばならなくなった。

この兵を猛者というようになる。

私営田領主は、荘経営のためにあちらこちらにある所領に田屋(荘園の事務所や倉庫)をたてた。

これらは「荘」と呼ばれた。

私営田領主の私兵は田夫ともよばれ戦闘のときには動員されるが、戦闘の合い間や農繁期には田屋にかえる農民であった。(昔は邑智郡にも「田屋」、「田屋門」などの地名があったが、今は消えているらしい)

これらの私営田領主も経営が不安になると、権門家である貴族や寺社に土地を渡す寄進を行うようになる。

 

開発領主

10世紀半ばになって朝廷は国司に一定の税の徴収を請け負わせ、地方支配を一任するようになる。

地方の支配が国司に委ねられると、国司によって不輸が認められる荘園も生まれてきた。

国司によって免除を受けた荘園を国免荘と呼び、太政官符や民部省符によって中央政府から税の免除を認められた荘園を官省符荘と呼んだ。

10世紀後半以降になると、国司は現地の有力農民である 田堵に土地の経営を任せるようになる。

有力な田堵は大名田堵と呼ばれ、 現地で開墾を行い自分の土地を持ち開発領主となった 。

しかし、大名田堵といってもあくまで国司の下にいる有力農民なので、 国司から、開墾した土地の分の税金を求められることになり、大名田堵らの成長が進むにつれ、税の徴収をめぐって対立が深まっていく。

そこで開発領主は、 国司の圧力から逃れるため に、国司よりも強い力を持つ貴族や寺社に土地を渡す寄進を行うようになる。

この寄進によって、土地は寄進された貴族や寺社が持ち主となる。

一方、開発領主は寄進して持ち主ではなくなるが、代わりに貴族や社から現地管理人である 荘官に任命された。

荘官は田堵と契約し、年貢・公事・夫役(律令制の租・庸・調)と呼ばれる税や労役を課した。その田堵は、作人や下人・所従と呼ばれる小作人を使って、土地を耕作したり、労役を行わせたりした。

大きい田堵になれば、さらにその下に耕作のための作人をかかえ、大規模経営の田堵を大名田堵といい、小規模経営のものを小名田堵といった。

後の戦国大名・守護大名などの「大名」もこの名田から由来したものである。

盛んになった寄進によって不輸の範囲や対象は広がり、荘園領主の権威を利用して、国司が官物などの徴収や国内の耕地を調査するために派遣した検田使などの役人が立ち入るのを認めない不入の特権を得る荘園も多くなった。

不輸・不入の制度の拡大によって荘園は国家から離れ、土地や人民の私的支配が始まった。


こうして、有力者に寄進された荘園、 寄進地系荘園が誕生するのである。
(自分で荒野を開拓した庄園は自墾地系荘園という)

荘園は国司の警察権・徴税権のおよばない独立した地域となったのである。

11世紀になると、その大半が荘園になってしまった国々があらわれてきた。

荘園の増大は当然公領公田の減少となる。

税収減などに悩まされていた朝廷は定期的に「荘園整理令」を発令し適正化を図ろうとしたが、有力貴族と癒着した国司などは、潔く荘園整理令に従うことはなかった。

 

15.1.3. 後三条天皇

11世紀になると、その大半が荘園になってしまった国々があらわれてきた。

荘園の増大は当然公領公田の減少となる。

税収減などに悩まされていた朝廷は定期的に「荘園整理令」を発令し適正化を図ろうとしたが、有力貴族と癒着した国司などは、潔く荘園整理令に従うことはなかった。

後三条天皇は時の権力者である藤原氏を外戚としない天皇で、藤原氏の影響を大きく受けない天皇であった。

この後三条天皇が延久元年(1069年)に発令した「延久の荘園整理令」は、有力な貴族や大寺院の荘園に大きくメスを入れた本格的な荘園整理令となった。

延久の荘園整理令の実務は、国司に任せないで、後三条天皇の直属の部署である記録荘園券契所を設け、ここで行なった。

記録荘園券契所

太政官庁内の朝所に置かれ、寄人(職員)が任命された。

荘園所有者より提出させた券契(証拠書類)を検討審査し、その結果を太政官に報告した。

後三条天皇はその徹底をはかるために退位(延久4年(1072年))して自由な立場になり、新天皇に対する発言権を確保し、藤原氏の摂政関白の地位を実質的に自分のものとしようとした。

この時、院の庁による新しい政治機構の種が生まれたのである。

しかし後三条法皇は、延久5年(1073年)四十歳をもって死去したため、実際に院政が始められたのは応徳3年(1086年)堀河天皇の即位とともに白河上皇によってであった。

白河上皇の院政は、まったく後三条天皇の理想を実現するものとなり、摂政関白は名儀的な地位にとどまり、国政は院の庁によってとり行われるようになった。

しかし、この絶対的、専制的な院政を成功させるためには、背後に強力な支持層が必要であった。

それは諸国の受領層であり、摂関政治の下積みになっていた中層・下層の貴族階級であった。

受領とは、国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者を平安時代以後に呼んだ呼称

受領層の支持を得るために、かれらの希望を容れてやった。

受領は、宮殿の造営・宮廷の行事・社寺の造築の費用支出、 請負に米万石、 紺万疋を提供することによって官位を与えられた。 

その他にも、十余歳の者でも受領に採用できること、自分のほかに自分の子供三、四人同時に受領になれること、留任を認めたことなど規制をゆるめて、受領の私利に満足を与えたのである。

このようにして受領を保護することは、多少の弊害はあったとしても、国領公領の拡大をはかることとなり、ひいては荘園整理政策を進めることになる。

荘園整理令によって、そのつど荘園の存否が確認され、結果的には荘園と国衙領との区別が明確にされた。

しかし、ひとたび荘園整理令のうえから合法と判定された荘園にたいしては、受領も手が出なくなり、荘園自体からいえば、その国法上の地位が確立されたことになる。かくして園主は受領とならんで国家的支配権の一部を委託されたかっこうとなった。


荘園領主が、国法上に確立強化された諸権限にもとづいて行なった庄園再編成は、 在家支配の実現、万雑公事の賦課、名体制の編成などによって確立された。

在家支配:

居住地を基準に諸役賦課を行ない、これを通じて新たな人間支配を行なうこと。

万雑公事:

国司から委譲された雑役賦課権をフルに発揮して、多種多様な出産 物、山野の産物、手工的生産物や夫役を徴収すること。

名体制の編成:

万雑公事の取立てを便利にするためにとられた処置で、名の田堵にその耕作田地にたいする所有権を承認してやりそのかわりに雑役を強化した。

田堵は名田の地主となって、領主の年貢・公事の責任者となった。これを名体制という。

 

まとめると、この荘園整理令により藤原氏の力は衰え、天皇権力の強化が図られて、次の白河天皇が行うことになる院政の下地ができたのである。

そして次の時代の主役達が生まれようとしていた。

 

<続く>

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