66.丸山城築城の話(続き)
66.3.長旌の築城計画
天正8年、長旌と吉川元春の三男経言(後の初代岩国城主吉川広家)との養子縁組が毛利輝元の反対によって成立しなかった。
この縁組が失敗したことによって、温湯城返還の望みが絶たれたと思った長旌は新城の築城を考えるようになった。
この望みが絶たれた今は新城築城を進めるしかないと思った。
長旌は先代の長雄が諦めず死去する最後の最後まで温湯城返還を最優先事項として工作していたことを思い出した。
その長雄が、密かに遺言のように言った言葉があった。
「平田十郎座衛門に温湯城が返還されたときに行うべき作業の準備をさせている。もし温湯城返還の望みが絶たれたときには、平田十郎座衛門を労ってくれ」
長旌は平田十郎座衛門を呼び出し、
「温湯城返還の望みは絶たれた、先代から言われていた命令はもうしなくていいご苦労であった」と言った。
十郎座衛門は、これを聞いて首を傾げて不思議そうにして言った。
「恐れ入りますが、温湯城の返還の望みが絶たれた時こそ、私どもが密かに行っていた事が役に立つのかと」
「それは、どういう意味じゃ」
長旌は訝しそうに問いただした。
「お人払いを」と十郎座衛門は長旌に言った。
二人きりになると十郎座衛門は、長雄から指示されたのは、新城の築城計画の作成であって、温湯城に関するものではない、と言った。
長旌は驚いた。
そして、気持ちの高ぶりが抑えきれないように、その内容をもっと詳しく説明するように言った。
十郎座衛門は、長旌の興奮を気に留めことなく、次のように説明をした。
十郎座衛門は長雄の命をうけて築城案をいくつか作成した。
長雄が興味を持っていたのは三原の丸山に新城を築く案だった。
十郎座衛門は丸山城の縄張り案をいくつか作り、計画書を長雄に報告した。
長雄はこの築城に関する件はある時期が来るまで秘密にすると言った。
長旌はその計画書はどこにあるのかと尋ねた。
十郎座衛門は、その計画書は自分が持っていると答えた。
長旌は直ぐに計画書持ってきて説明するように命じた。
そして、このことはまだ秘密にしておくようにと付け加えた。
十郎座衛門は長旌に計画書を見せ説明した。
長旌は丸山での築城に関心を持った。
そして十郎座衛門に聞いた。
「この丸山の城はどのくらいの期間で、どのくらいの資金でできるのか?」
「期間は3年、資金は質素に造ったとしても凡そ五万石(現在価値で約75億)は必要かと思います」
長旌は十郎座衛門からこの話を聞いて新城築城に心は揺れた。
小笠原家先祖代々の温湯城の返還が不可能になった今こそ、新城を造るべきでこれは長旌の使命であると思ったのだった。
長旌には長雄から引き継いだ財産があったが、五万石には届かなかった。
築城するには資金が不足している、と長旌は思った。
そこで、長旌は十郎座衛門に資金不足を解消する方策はあるかと尋ねた。
十郎座衛門は、
「大切なのは領民に過度の負担を負わせないことです。
それを基本にして、まずは出費を出来るだけ抑え、地道に蓄財することが肝要かと」
と言った。
さらに、
「また戦費の縮小、具体的には毛利から要請がある出兵規模の縮小、出兵期間の短縮を様々な言い訳をして実行することです。
先代が造られた彌山のお館が小振りであることや、土塁を造られなかったのも、この築城資金を貯めるためだったのです。
しかし先代も行っておられて海外交易は今や毛利の監視が厳しくなっており、今は見合わせることが大事かと思います」
と言った。
長旌は十郎座衛門の意見を取り入れ蓄財に努めた。
毛利の出兵指示に対しても、長旌は病弱を理由に代理人を立て経費の節減を図った。
天正10年6月2日、織田信長が本能寺で明智光秀に殺された時から事態は急変した。
織田氏の版図は、関東は上野及び武蔵の一部から、西は備前や美作・伯耆一部にまで及ぶ広大なものとなっていた。
織田信長が亡くなった後、畿内で再び騒乱の時代が訪れ、それが出雲、石見まで広がる懸念が生じたのだった。
小笠原長旌は、信長落命の知らせを聞いて領地境の防備を強化した。
そして丸山城築城を具体化しようとした。
長旌は一族、重臣を集め丸山城築城の計画を話し、意見を求めた。
反対、賛成の意見は五分であった。
反対意見の多くは築城費用の不足であり財政負担に対するものだった。
また毛利から不要な嫌疑を受けることを心配する者もいた。
長旌の兄弟の長秀、元枝は築城に賛成していた。
そして、領民を含め皆で団結して辛くても成し遂げるべきであり、或る程度の犠牲は止む無し、という雰囲気になっていくようになる。
一方毛利に対しては、築城計画を吉川元春に報告し支持を得ることが出来た。
因みにこの元春は天正10年(1582年)の暮れに家督を長男の元長に譲り隠居した。
そして翌年、元春は広島県山県郡北広島町志路原に居城の建設に着手している。
66.4.築城
丸山城を造るための縄張りと呼ばれる設計図は既に出来上がっていたので、現場工事への着手は早かった。
工事は『普請』と呼ばれる土木工事を行い、『普請』が完成すると、『作事』と呼ばれる建築工事に進む。
『普請』では堀の掘削や曲輪の造成、石垣の積み上げが行われる。
『作事』では門や住居、生活に必要な建物が造られる。
丸山城は総石垣造りの城郭で、南の頂部に本丸・北に西の丸を配し、その間を三ノ曲輪とした。
本丸の北側に居館を造ってこれを西ノ丸と呼んだ。
【曲輪】
曲輪とは堀や石垣、土塁で区切られた区画のこと。
城の防御力を強くするのはこの曲輪をどう配置していくかというのが重要になってくる。
山の斜面に曲輪を作っているため、それほど大きな曲輪を作ることはできなかった。
曲輪の配置のことを「縄張(なわばり)」という。
本丸は、東西 70m、南北 65mの規模で、東西に門を配し、周囲に石塁状の石垣 を廻らせた。
西の丸は、東西 45m、南北 55mの規模で、南辺に 2箇所、北辺に1箇所の門を配し、本丸同様に石塁状 の石垣が廻る。
<西の丸の跡地、本丸側から撮影>
登城道は十二の曲輪から東麓に降りる道、西の丸から北へ直線的に降りる道跡、さらに三の曲輪を東西に抜け つづら折りに降りる道を造った。
しかし毛利に遠慮したのか、この城は防御施設をほとんどもたない、いわば小笠原氏の体面を保つだけの山上の城館となっていた。
天正13年7月に丸山城が完成した。
小笠原家の念願である温湯城に代わる巨大な山城を築城した。
しかし、長旌の心の中で、毛利に対する遠慮と小笠原当主としての虚栄を張りたいという願望との葛藤が常にあり、結局山城として防御面では中途半端なものとなった。
66.5.余談
丸山城と吉川元春館
天正10年(1582年)、吉川元春は家督を嫡男の元長に譲って隠居した。
そして、吉川氏一族の石氏の治めていた地を譲り受け、隠居館の建設(広島県山県町北広島に)を開始した。
元春は完成を待たず、、出征先の豊前小倉城で天正14年11月に死去した(享年57)。
この館の完成時期ははっきりしていない。
この館は後に「吉川元春館」と呼ばれている。
川本町教育委員会による丸山城跡調査報告書(平成27年(2015年))によると、丸山城の石垣は
「・・・崩落部分に見える石材充填の様子や、 石塁上端部の内側を立石列に仕上げる造りなど、外面の石積みの共通性だけでなく、断面形 態においても吉川元春館の石塁構造と極似することを確認できた。」
とある。
また、永禄8年(1565年)毛利が尼子の月山富田城を攻めた時に陣城とした勝山城の石垣と、吉川元春館の石垣、丸山城の石垣は類似しており、他の山陰地方の城の石垣とは異なっている、と云われている。
これらの事が、小笠原長雄と吉川春元の間に親しい関係があったことを思わせるのである。
<丸山城、吉川元春館の石垣断面比較図 (一部)>
<丸山城 西の丸東側南門>
<吉川元春館>
小笠原家の家督相続問題は残ったままであったが、長雄・長旌父子念願の新城は完成した。
しかし、この完成を待っていたように、新たな難儀が襲いかかってくるのである。
<続く>