68.丸山城攻防
「丸山伝記」には、丸山城明け渡しに伴う、小笠原軍と毛利軍の激しい攻防戦があったと、ある。
丸山伝記
丸山伝記は、出雲神西に移る長旌に同行せず、在所に戻り帰農した小笠原氏の重臣の子孫によって記されたもので、川本町観光協会発行の「丸山城跡登山ガイドマップ」には、次の説明がある。
石見小笠原氏の歴史について記した上・中・下の3巻から成る書物です。丸山城が石見小笠原氏の居城であった頃の出来事について書かれた貴重な史料でもあります。
但し、江戸時代に成立したと伝えられており、伝記として脚色した記述も多いため、歴史的事実と異なる内容も含まれています。なお、原本は現存しておらず、写真のものを含め、写しが数点存在するだけとなっています。
しかし、「石見小笠原氏史と伝承」(前述)は「現在幾許かの小競り合いはあったかもしれないが、「丸山伝記」に記されたような、激しい戦はなかったと思われる」としている。
また、その理由について、川本町誌(昭和52年4月25日発行)には次のように記載している。
この攻防戦が起こった、天正20年(1592年)4月は、豊臣秀吉が引き起こした文禄・慶長の役の始まりの年で、当時の日本は挙って朝鮮出兵の大騒動の最中であり、長旌自身病気で弟の元枝が家政をとり、その二男三七(長親)が吉川広家に従って朝鮮へ渡っていて、毛利勢が丸山城を攻めるというような状況ではなかった。
ところが大貫(江津市桜江町)から丸山への道筋 (久井谷)における持飯坂・滑り坂・団子畑などは実在の地名であり、合戦の記述には誇張もあるがかなり具体的であるところか らみて、何らかの合戦があったことは事実であろう。
その合戦は福屋氏と小笠原氏の多年にわたる紛争の一コマであったと思われ、川本の温湯落城前後より以前のことである。
その真偽はさておき、桜江町誌(昭和48年5月31日 発行)下巻に、丸山伝記の小笠原落城記録を意訳して紹介しているので、これを、次に載せる。
68.1.伝承丸山城の攻防
小笠原氏は毛利輝元に対し真から服従しようとしなかった。
底に含むところがあるやに見えた。
そこで輝元は小笠原に対して心良く思わなかったのである。
元来小笠原と毛利の関係を探ると、輝元自身は元就からは孫である。
敵対すると見た小笠原長族は遠く源氏の新羅三郎義光を遠祖と仰ぎ見に移住し活動を始めて今日迄十五代も続いた歴とした名門でもあり、元就の孫娘 (隆景の女)を嫁に娶っている、毛利とは切って切れない間であったのである。
そこは戦国末世の風潮という下克上の殺戮が日常に行なわれていた直後のこと、仲違いがあったとしても別に不思議はないかも知れない。
さて、長族の本拠丸山城はとみれば、当時難攻不落と見られていた山口高峯城(大内義隆の城)や出雲広瀬の月山富田城等と比較してそれ以上の堅城であっても、それ以下の城では決してないいわゆる難攻不落の丸山城である。
かつて毛利に仕えることを快よからず思って小笠原の威風を慕い戦略にたけた武士どもが、 実用を旨として衆知を絞って短時日ながら堅固に築いた城である。
容易に攻め落されるべきものでない。
輝元はかねてから策を練り進撃の 機を待っていた。
折りも折り、秀吉が天下を掌握し全国に号令をかけ得る実権をやっと握って、手初めとして山城築城禁止令を出し地方の戦国以来の武将弾圧に乗り出した。
そこで輝元は好機到来とばかり我が支配領土下にありながら、我に弓引かんとし心から靡かざる小笠原長の勢力駆逐に踏み切ったのである。
輝元は長旌拠城丸山攻略のため、数万引率れて安芸より出向して来た。
かねてこれまでにもなく三原丸山城は勿論周囲の地形はよくよく調査し尽されている、城の東側は入口の下歩行坂とて上り道狭くて大勢の通行はとてもできそうもない。
それに辿りつく道中も差迫る奥谷山の渓谷であり、大軍の通せる道とてない。
そこで別道をとり攻撃せんと大川(江の川)の渡船を引き、 毛利の大軍江無(田津)河原に陣を取り、その中の水錬達者の者をして、腰に細紐を結びその先に二十筋ばかりの大綱を付けて川を横切り河岸の竹や柳に結び付け、大勢が張り渡したその綱をつたい勢つけておめき叫んで大貫地へ渡って行った。
そこで地理に詳しい大貫地の者をとらえて丸山城に通じる大坂道を登って行った。
この道とて大軍の進める道ではない、左右は切って取ったような急傾斜地で道幅とては、僅かに仙人が通う程度の小径である、数人ずつが一本綱のような細道をよじ登るような有様である、途中小径の中に突出た天狗岩という大岩石がある。
左右の山が両側に迫り深い谷底である。
踏み鳴らす兵士達の足音は複雑な山彦となって響き、なかなかに進み難い。
さてこの坂は長さも長く途中で一食欲しくなるほどのところ故に名づけて持飯坂と言っている。
とても大軍の動ける場所ではない。
一方かねてこのことあるを探知した小笠原は予め左右の峯に伏兵を置き、吹き上る毛利軍をめがけて、かねて用意の大木を打ち掛け、大岩石を転落し、毛利隊を押しつぶす、後続の毛利の軍勢は視界も開けず、叫喚の声も異様な物音となりこだまして天地も覆るばかりの有様であった。
事情のわからぬ毛利勢、笛・鐘・太鼓・陣具を打ち鳴らし、吹き鳴らし、大軍を以って攻め上る。
傷つき倒れ る者の上を乗り越え、踏み越えおめき叫んで頂上めがけて突き進む。
やっとの 思いで頂上に辿れば、道幅も広がり幾分か進みよくなる。
これに勢いを得た毛利勢は、押せ押せよと囃立て、おめき叫んで押す声は、天地に響き、 山彦答えて、この世の最後を思わせる。
さて、この山越に赤土の大坂道が先手真一文字に長けている。
さても心得た小笠原のこと 赤土道へは水を引懸けり転がる仕掛にしつらえた。
何条もってたまるべき、勢い込んだ毛利勢、来る者来る者、足すべらせてすってんどう。
これに気づいた毛利方留太鼓を打つけれど、急げ急げの合図の太鼓を打ち鳴らすかと心得て、真一文字に辷り落ちる。
さて、(この坂を後世まで「スペリ坂」と言伝えている。)落ちた将兵は多勢が人の上に人、人の下に人と打重なり、肩抜け、足捻れ、腰の力も抜け果てて土団子のように身を染めて諸勢残らず腰砕けとなる。
伏したる小笠原勢との様を見て「さても見事な土団子かな」と山々より囃し立てる(それから後ここをダンゴ畑と言うようになった)。
それはさて置き、いよいよ丸山城の西大門まで毛利勢は押寄せた、丸山城の運命は、もはやこれ迄と思われた。
ところが、不思議や一天曇ったと見る間に、丸山一面大雨が降り、 それに加えて大風が起り進むに進めず、引くに引けない。
さてはと一同気を取り直し山上めがけて突き進むに城中方は這い上る毛利兵をめがけてころあい良しと見て取って、釣塀・釣櫓一度に切って落しかける。
加えて数万の岩石を転がし落す、これとの音も加って雨風電雷すさまじく大地も震うすさまじさ、降ったる雨水は谷々を埋め押流す岩石により山が出来、遂には安芸より遠征の毛利勢、数千の死傷の山を築く。
幸いに死傷の難を逃れた者は、甲冑の下まで雨が通し身の自由もききかねるほどであった。
ころ相良しと見計らい小笠原勢は城より大勢打って出で合戦に及ぶ、敵は身こごえ手足も 動かず戦意も欠けて逃げて行く、後より小笠原の諸兵おいかけてこれを討う。
持飯坂から天狗岩のあたり降りしきる雨もなお止まず、山も抜け落ち、山瀬にうたれ、双方共に流れ落ち数千人の死者を出した。
勝に乗じた小笠原勢は深追いをし、大貫路まで出て見れば、江川際に陣を取る毛利の軍勢数万騎なり、急ぎ円山に引返しこの有様を長旌に報告すれば「山城の御法度たるべき由、仰出され、致命的な打撃を受けた今日に、平城を築く暇もない、この上は戦勝も覚束なし、城を打捨て落ちのびよう」とてわずかに従者五十人を召連れ、間道を通り、出雲神宮知行所をさして落ち行き給う。
残った 軍勢はその日一日丸山に籠り、皆々長旌の後を追い神宮領へと逃げて行く。
さりとて神宮の地は僅かに五百貫の地なれば大勢を賄う方途も立たず、互いに時節到来の後日を約し、宿所を求めて望みにまかせ四散した。
68.2.長旌出雲へ向かう
長旌は移封地の出雲神西に向かうと決めた。
そして僅か50人の従者を連れて間道を通り落ちて行った。
残った軍勢はその日一日丸山城に籠り、一部は長旌を追って出雲神西の知行地に向かった。
しかし出雲神西は僅か500貫の領地なので、すべての武将を連れて行くわけにはいかなかった。
そこで皆々は在所に戻り時節到来を待つことにした。
しかし結果的にはこの待っていた時節は来なかった。
結局、長旌は文禄4年(1595年)この出雲神西の地で死去した。
大就寺(出雲市大島町)の境内に長雄、長旌、長郷の墓碑がある。
<令和2年(2020年)6月27日撮影>
碑文
天叟院殿常久大居士 同長旌
大就院殿成是大居士小笠原長雄
宗天院 常雲大居士 同長郷
この碑の裏面の銘に「本願長秋」とあるが、この人が記念碑を建てた小笠原家の人と思われる。
68.3.長旌の末裔
「石見誌」では石見小笠原氏の系図を次のように掲げている。
右下の緑色でマーカーしたのが、初代の長親である。
左の赤マーカーが第15代長旌で、青マーカーは長旌の子である。
これによると、長旌の子は長郷、長近、長栄、千代姫となっている。
ただし、この情報は「丸山伝記」からのものであり、他には何等手がかりになる文書はない。
長旌の子は千代姫と夭折した千代童丸だけで他にいないはずである。
そうすると、間柄を間違って伝達された可能性が高い。
長郷、長近、長栄の3人は恐らく長旌の弟元枝・長秀の子孫であろう。
長旌の弟元枝の子である三七(千代姫と婚姻)は後に長親と名乗って毛利に使えており、この人物が長近と思われる。
その他、長郷は前述の出雲大就寺の墓石に長雄、長旌と一緒に刻まれている名前である。
ひょっとすると、この墓石を建てた長秋という人は、小笠原家の人で自分の父親の名前を長雄・長旌と併記したのかもしれない。
一方、慶長18年(1613年)8月、長栄は三原の武明神社に本社再興の願文をたて、小笠原一族の顕名、武運を祈願しており、また長栄は毛利に使えたとの記述もあり、恐らく長親の子孫でないかと思われる。
ところで、丸山城の本丸跡地に「第十五代長旌公の末裔 松本宗太郎 京都市船井郡八木町」という石柱が建っていた。
この石柱は昭和46年(1971年)4月に建てられたようである。
なお、この写真は令和元年(2019年)11月11日に撮影したものである。
<続く>
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