67.小笠原の家督問題
67.1.豊臣の時代
小笠原長旌によって丸山城が築城されている間、日本の国情は地殻変動を起こしていた。
畿内を制圧し、天下人への道を歩み出した織田信長が家臣の明智光秀の謀反にあい、本能寺で自害したのである。
再び大戦乱の時代が訪れるかと思われたが、織田の家臣である羽柴秀吉が織田信長の後継者となり、日本統一に向かうのである。
本能寺の変
天正10年(1582年)6月2日、織田信長が京都の本能寺において、明智光秀の謀反により自害した(本能寺の変)。
この時、羽柴秀吉は備中に侵攻し、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を水攻めに追い込んでいた(高松城の水攻め)。
秀吉は事件を知ると、すぐさま清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、備中から京都に軍を返した(中国大返し)。
山崎の戦い
6月13日、秀吉は4万の兵力で山崎(京都府大山崎町)にて1万6000の明智光秀軍と戦い、これを下し京都における支配権を掌握した。
その後、6月27日、清洲城において信長の後継者と遺領の分割を決めるための会議が開かれた(清洲会議)。
秀吉は、信長の嫡男・織田信忠の長男・三法師(後の織田秀信)を推した。
柴田勝家はこれに反対したが、池田恒興や丹羽長秀らが秀吉を支持し、さらに秀吉が幼少の三法師の後見人を信孝とするという妥協案を提示したため、勝家も秀吉の意見に従わざるを得なくなり、三法師が信長の後継者となった。
賤ヶ岳の戦い
天正11年(1583年)4月、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市、旧:伊香郡木之本町)の賤ヶ岳付近で起きた戦いで、羽柴秀吉は柴田勝家に勝利し、織田信長が築き上げた権力と体制を継承し天下人への第一歩がひらかれた。
小牧・長久手の戦い
天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で戦いが行われた。
このとき、羽柴軍10万、織田・徳川連合軍は3万であったとされる。
秀吉は兵力で圧倒的に優位であるにもかかわらず、相次ぐ戦況悪化で自ら攻略に乗り出すことを余儀なくされた。
秀吉は加賀井重望が守る加賀野井城など、信雄の本領である美濃、北伊勢の諸城を次々と攻略してゆき、危機感を覚えた信雄は11月11日、秀吉と講和した。
家康も次男を人質(秀吉側の認識、徳川家や本願寺の認識は養子)に出して和議を結んだ。
こうして秀吉は、軍事的にも身分的にも織田信雄を超えることで、織田政権の一角から、豊臣政権の長へと君臨することになった。
京芸和睦
天正13年(1585年)1月、毛利輝元は豊臣秀吉との国境画定に応じ、毛利氏は安芸国、備後国、周防国、長門国、石見国、出雲国、隠岐国7ヶ国に加え、備中・伯耆両国のそれぞれ西部を領有することとなり、120万石の大名となった。
秀吉の改革
天正16年(1588年)に兵農分離を目的として刀狩りを実行した。
天正19年(1591年)に土地の実情を把握する目的として検地を命じた。
これらの二大政策によって身分制度が確立した。
また、これらの過程を得て、諸侯の配置が確定してきた。
67.2.小笠原家の後継者
天正長旌の願望であった丸山城を築くことが出来たが、後継男子には依然恵まれずにいた。
ただ、長旌には千代姫という娘がいた。
そこで、一族は長旌の娘千代姫と長旌の弟・元枝の子である長親とを婚姻させ、小笠原氏の後継とし、元枝をその後見とした。
また、今後長旌に男子が生まれた場合はその男子を後継とすると定めた。
豊臣秀吉は、天正13年に四国の長宗我部元親、天正14年、15年九州島津義久、天正18年に関東北条氏を攻めた。
小笠原氏は、毛利の配下として従軍するが、長旌が病弱のため弟の元枝が小笠原軍を率いた。
天正17年(1589年)長旌は甘南備寺に佐々木高綱の鎧を戦勝祈願のため寄進している。
これは黄櫨匂威大鎧と言い、宇治川の先陣で有名な佐々木高綱が所用した鎧で、制作時期については保元平治以前と古く、平安末期の作である。
今では残闕の状態で保管されて、国の重要文化財に指定されている。
<黄櫨匂威大鎧残闕(一部)>
この鎧を、今井産業(江津市桜江町)の故今井久祥社長が1995年に復元したのが次の写真である。
日本甲冑(かっちゅう)武具研究保存会の山岸素夫常務理事が監修し、甲冑制作の職人が6年の歳月をかけて完成させた。
67.2.1.嫡子の誕生
天正19年(1591年)長旌に待望の男子が生まれた。
名前を千代童丸と名付けた。
これで家督問題は解決したかに見えたが、翌天正20年(文禄元年)(1592年)4月その千代童丸が死去し
た。
このため、再び長親を後継、元枝を後見とすることとなった。
67.3.出雲神西への移封
67.3.1.毛利輝元
天正17年(1589年)輝元は長年根拠地としていた吉田城を離れて、太田川の中州の五箇村に新城を築き始めた。
城は天正19年(1591年)に完成し、ここを広島と名付けた。
<現在の広島城>
<安芸国広島城所絵図>
そして輝元は、毛利の支配による新時代をつくるため、古くから続いてきた領主と領民の深い因縁を切り離すため、領内の武将の配置替えを行った。
石央地方では、天正19年に都治城主の都治光行が出雲国稲尾に移封された。
翌文禄元年(1592年)に小笠原長旌は出雲神西に移封の命令を下した。
輝元は長旌が病弱を理由に毛利の軍団に自ら兵を率いて出兵しないことに対し、不快な気持ちを抱き続けていた。
そして丸山城を築いた小笠原氏が勢力拡大することを懸念しており、その力を削ぐ機会を狙っていた。
ちょうど豊臣秀吉は天下統一に際して、領主や家臣の移封が数多く行っており、この流れに便乗したものでもあった。
また秀吉が文禄元年(1592年)に出した山城廃止令も移封の口実の一つになった。
さらに小笠原氏にとって不運だったのは、小笠原氏に友好的だった吉川元春が天正14年(1586年)に死去していたことだった。
67.3.2.出雲神西へ
長旌の抵抗
移封の命を受けた小笠原家内は騒然となった。
出雲神西は僅か500貫の地で今の五分の1程度の地であった。
この地は、前々回で述べた「天正13年(1585年)8月内事方であった小笠原長秀(長旌の弟)が記した「小笠原長旌殿領地」」の中にあった「永銭五百貫文 出雲国」の相当するものである、と思われ、小笠原長雄の時代に得た領地であった。
当然全ての家臣を連れて行くわけにはいかない。
また多くの家臣達は温湯城開城以来、毛利に仕えることを快からずと思っており、心から毛利に服従しようとは思っていなかった。
一族のうち元枝は毛利に服従することを主張していた。
今のままでは毛利と戦っても勝機はなく、敗北すればお家断絶の結果になる可能性があると抗戦派を諭し、長旌に移封を受けるよう促した。
しかし長旌は憤慨していた。
やっと生まれた千代童丸が死去した悲しみが癒えないうちに、このような無礼な命令を出した輝元に対して言いようのない怒りを覚えたのだった。
長旌はこの命令を無視して丸山城に居座り続けた。
この年の4月2日付けで小早川隆景は長旌あてに書簡を出して長旌を説得しようとした。
<「石見小笠原氏史と伝承」川本町歴史研究会 平成十三年五月十日発行 より>
私儀、平素の御厚誼を謝し、書面を差し上げます。
永い間の籠城心身共にお疲れのこととお察し致します。
この事は時世の成り行き、仕方のない事でございます。
三原城引渡しのことに及び、雲州領地に蟄居の申し入れがありましたが再度とは申しません。
食地のことは心命なげうってお守り致します。
安心して引き受けてください、つつしんで申し上げます。
小早川左衛門佐
四月二日
大蔵大輔殿
その後、いくつかの騒動を経て、天正20年(1592年)4月17日、小笠原長旌は悲嘆の中、丸山城を去り出雲神西に向かった。
付きそう従者は、僅か50人だったという。
次回は、丸山伝記による丸山城落城の様子を桜江町大貫に伝わる伝承を交えて見ていく。
<続く>