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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−39(萬寿の大津波と江の川の洪水−4)

14.4 渡村移動前の江の川の河道

 

14.4.1 河道の推定

川の河道が大きく変化することはあり得ることだが、江の川のように山間を削ってながれる川にそのような大きな変化(江の川にとっては小さな変化かもしれないが)が起こることはすこし想像し難いところがある。

時代をうんと遡ると、約200万年前に江の川は粕淵付近でUターンするように流れを変えているが、これは断層活動によるものである。

はたして川の増水・氾濫で川の流れが大きく変化することがあり得るのだろうか?

一般的に川が蛇行するとき、蛇行の外側は削られるが、内側は削られた土砂等が堆積し氾濫原ができる。
現在の坂本は江の川蛇行の外側に位置しているので、かつて、ここに、大きな平地があったことがイメージできないのである。

そこで、江の川の沿岸に、蛇行の外側に平地、あるいはそれに類した土地が現在もあるかどうか、地図で調べてみた。

広島県三次市作木町下作木で砂井谷川でできた三角州付近がそれに似ている。
江の川の蛇行の外側は耕作地、と広い中洲となっており、流れの内側は岩壁のようである。
それが次の図である。

<現地の写真、手前は湿地帯のようで、江の川は中央の石河原の向こう側を流れている>

もし、次の図の印箇所で川が堰き止められたとき、川の流れはどうなるのか?


その推定が図が次の図である。

なんとなく、現在の現在の坂本付近の川の流れに似ている。

これを参考にして渡村の移動について推測してみた。

渡地区の以前(昭和中期頃)の耕作地は現在のように一面が同じレベルではなかった。
耕作地のほぼ中央付近に、3〜4mの崖による段差があり、耕作地は上下に分かれていた。もちろん低い方が江の川寄りの耕作地である。
この江の川寄りの低い方の耕作地が、かつては江の川の河川敷であったのではないだろうか。

伝承では、万寿の津波と江の川の洪水によって、川の流れが変わったと伝わっている。
しかし、ただこれだけでは、川の流れは変わらないであろう。

しかし大雨により地盤が弱体化したところに大地震が起こり山崩れが発生し、この落下した岩石や土砂が、江の川を堰き止めたために、流れが変わったのではないかと思う。

以上のような想定でかつての江の川の河道を推定したのが、次の図である。

山崩れが発生したと推定した地点を、で示した。


このように河道が変わる前の坂本側の住居・耕作地面積がこれだけ広ければ、いわゆる渡千軒と言われる賑わいのある村落になったことも納得がいく。

 

14.4.2 江の川の河道の移動について


過去に江の川沿いで、渡村の移動と同じような現象の、記録や伝承があるかどうか調べてみた。


邑智郡川本町川本

邑智郡誌には川本町の弓峯八幡宮縁起に次の事が記されていると書いてある。

甘南備の庄智邑知の郷に属し往昔は川本と川下とは一村にて石川村と云つてゐたが、建久八年六月の大洪水で川が切れ替り両村となる。
又川本町を弓市と名づけたのは洪水の時川上より弓流れ来て弓の峯に止むる故に名くといふ。

また同じく邑智郡誌に

川下村は往古石川村と稱したること古文書に見へ、當時は今の川本町仙岩寺下に接続し、江川は川本八幡宮の辺を流れて居たが、建久八年(1197年)の大洪水に現今の如くになった。 爾來川本の下といふ意味で川下と稱し來つた。

と書いてある。

川本村も萬寿津波の171年後の建久八年に現在の位置に振り替わったようである。

 

邑智郡美郷町都賀行

邑智郡誌の中の都賀行村誌に「江川流域の變遷」の項があり、それによると
①江の川は、その初め沖の原の西方を流れていた。
②伝説によると、対岸の松原とは陸続きであり、「都賀行郷」は水道であった。
③以前、校舎(現公民館)裏手を井戸を作るため6メートル掘ったとき、地底より夥しき河砂等が出てきて、この場所が以前は河底であることが明らかになった。

[邑智郡誌に記載されている文]

一、江川は其の初め沖の原の西方を流れたるものの如く明治年代迄山根沖に大なる湖沼数個を残して居た。 今はして水田となる。

二、其の入口沖の原南方に於いて大なる堤防を必要とした。

三、洪水の時は河道真直に神社沖に来り、それより一轉して江川に入る。

四、傳説に松原方面陸続きにして「都賀行鄉」は水道なりきと云ひ傳ふ。

五、十數年前水玉山に接し、校舎(現在の公民館)裏手を六米許り堀り下げ井戸掘をせるに、地底より夥しき河砂及び磨滅せる石等出で、河底たる事を明にした。

六、洪水の時には水玉山及び寺院との間を水越えたり。(明治二十一、二年頃の洪水) 其の後は江川の水位下つて水越さず。

七、屋號 古寺は高層の地にあり、二本の椿ありて寺院の門前の木なりしと云ふ。然るに其の後洪水に押し流され其の安置せる佛像は船により上りたるもの即ち西念寺の佛像なりと云ふ。

八、桟敷岩は洪水にも現在にては沈まず。然れごも其の上面には往時水の通過して磨滅せる痕よくわかる。 
九、現在のよばたけ(屋號)は非常の奥なれども、昔は洪水の時船其の邊に行きてつなぎたりといふ。 
十、都賀村上野住國屋は非常に高地なれども洪水に襲はれしといふ。都賀西の神社も同様なれども洪水に襲はれて流れた事がある。

十一、長藤響谷川の下流北方其の他江川邊を調べる時は、川底が八、九米低下せる事は明瞭である。

 

以上、氾濫原が変化・移動することについて考察してみた。

渡村の移動伝承は事実であったような気がしてきた。

 

<続く>

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