36.南北朝動乱・石見編
36.4.戦線の拡大
36.4.9. 雲月作戦
美濃を抑え、日野邦光、高津道性が没落し不在の今が、那賀郡の南朝軍の制圧の好機と上野頼兼は捉えた。
そこで、上野頼兼は、足利尊氏に建言する。
足利尊氏は上野頼兼の建言によって、 石見における一大機動作戦を展開することを決意する。
尊氏の弟足利直義は暦応4年/興国2年(1341年)6月、安芸守護武田信武に上野頼兼と協同作戦するため石見派兵を命じた。
7月、安芸の北朝方は 山県郡大朝(広島県山県郡北広島町)に集結し、雲月峠(北広島町)を目指して中国山脈南麓沿いに西の雄鹿原(北広島町)方面へ進んだ。
一方頼兼軍の主力は美濃郡を遠く南方に迂回して、八幡(北広島町)に入り安芸軍と連絡した。
雲月峠から坂落としに山陰側へ攻め下り、直接今福(浜田市金城町)、有福(江津市有福温泉町)など福屋氏の根拠を衝く作戦である。
福屋氏
福屋氏は益田氏一門の御神本氏の庶流で、天福元年(1233年)御神本兼広が石見那賀郡福屋(現、浜田市旭町今市)に移住して、その在地名を姓として福屋を名乗った。
天福2年(1234年)兼広は有福温泉町の南方に聳える標高417mの本明山に本明城(別名:福屋城、乙明城)を築き、拠点とした。
南北朝時代は、宗家の益田氏は北朝に味方したが、益田氏庶家の三隅氏、周布氏と共に南朝方として戦った。
この福屋氏から、福光、横道、井田、高野氏などの諸氏を分出している。
当時、福屋氏の勢力は雲月峠を越えて安芸国山県郡にまで勢力範囲を伸ばしていた。
そのため、福屋軍を主流とする南朝軍は 奥原(北広島町)の大多和城(詳細な場所は不明)を本陣に芸石連合軍を迎え撃つ作戦をとった。
7月下旬、大多和城周辺において最初の衝突をした。
この戦いで南朝方は都野保通・邑智宗連・河上孫三郎らの諸将を失って敗退した。
勝に衆じた連合軍は8月初旬、益田兼見・土屋平三らを先陣として、本明城 に迫った。
しかし本明城の守備は堅固で、その後7ヵ月間徒らに攻防戦を繰り返えすのみであった。
康永元年/興国3年(1342年)1月、攻囲軍は越生光氏を案内として福屋城を強攻し、ついに2月、福屋兼景は支えきれず開城のやむなきに至った。
福屋を攻略した武家方は2月中旬、新田義氏を追って小石見城(浜田市原井町)に迫った。
義氏はこの頃は、井野村兼雄(三隅兼連三男)を頼って小石見城にいたのである。
義氏は小石見を脱して周布城(周布兼氏)に逃がれた。
しかし、ここも猛攻を受けてついに兼氏とともに武家方に降った。
また、井野村兼雄も小石見城を捨てて殿河内城 (浜田市原井町)に逃れていたので、頼兼は吉河経明を殿河内に向わせ、これを攻め落とした。
一方、頼兼の本隊は三隅城に迫った。
暦応5年/興国3年(1342年)2月22日上野頼兼は三隅高城に迫った。
三隅の兵は、これを細田河原に邀(むか)え撃ちて城内に引き上げた。
細田河原は三隅高城の麓を流れる三隅川の下流、今の三隅町西河内に在る。
三隅高城と大多和外城(浜田市三隅町岡見)、鳥屋尾城(浜田市三隅町井野)、矢原(浜田市三隅町矢原)の外城の三城との連絡が絶たれることになった。
3月17日鳥屋尾城が陥落し、5月には大多和外城も落ち、高津孫三郎、波多野彦三郎、徳屋彦三郎らが降参した。
5月末まで三隅周辺は日夜連続的攻撃を受けて、ついにその支城鳥屋尾・大多和外 の両城も陥ったが三隅城だけは依然として健在であった。
かくして安芸守護の応援を得て行われた雲月作戦は、三隅高城を残しながらもだいたい所期の目的を達成したので、 約一年ぶりに安芸部隊は本国へ帰還した模様である。
この作戦によって石見宮方は壊滅的打撃を受け、その間に都野保通・邑智宗連・河上孫三郎・福屋兼景・周布兼氏・新田義氏・井野村兼雄らが降伏或いは姿を消していった。
これらの戦状について、逸見有朝及び須藤景成の軍忠状がある。
(小早川書及吉川家什書抄)
安藝岡安木町村地頭逸見五郎二郎入道大阿代子息四郎有朝中軍忠事、
(前略)
一、同廿六日(暦応四年七月) 大多和城凶徒都野左近將監保通、邑智備後介宗連以下降參了、
一、自去年八月八日、至于當年二月一日、取巻福屋城日夜軍忠之處、同九月一日、於大手中尾、含弟六郎有経被射通左鼻崎江右口脇畢、並旗差左近二郎被右腰、此條福島左衛門四郎入道、並内藤二郎於兩使被見知之候了、依而福屋彌太郎左衛門尉兼含弟修理亮介降參了、
一、同二月十二日、自福屋城令發小石見城取陣、同十七日凶徒総大将新田左馬助義氏、並周布城凶徒左近將監兼氏降參之、同夜小石見城凶徒井村石見權守兼雄以下令降參了、
一、同十八日、令發向周布城致軍忠了、
一、同廿二日、令發向三隅、對大多和外、並鳥屋尾、矢原三ヶ所之城取陣、日夜所致軍忠之處同三月十七日夜鳥屋尾之城令退治候畢、其後大多和外城高津原孫三郎波多野彥三郎河越安藝守、德屋彥三郎令降參了所詮自去年七月八日、至于當年五月廿七日、令致警固、度々軍忠畢、
云々
曆應五年六月十八日
源有朝狀
進上街奉行所 承了(判)
安藝國大朝本生一分地頭吉河辰熊丸代須藤彌五郎景成申軍忠事
(前略)
一、同二十二日大和田城凶徒都野左近將監、邑智備後介以下令降了、
一、自去年八月八日、至于當年二月一日、取卷福屋城、致日夜軍忠之處、福屋彌太郎左衛門尉、並舍弟修理亮以下凶徒等降參了、
一、同二月十二日自福屋城令發向小石見城取陣、同十七日、凶徒総大将新田左馬助義氏、 並周布城凶徒左近將監以下令降參了、同夜小石見城凶徒井村石見權守兼雄以下降参、同十八日、發向周布、致軍忠了、
一、廿一日令發向三隅城、對大多和外、並鳥屋尾矢原三ヶ所城取陣、致日夜軍忠之處、同三月十七日夜對治島屋城了、而其後大多和外城凶徒高津孫三郎波多野彦三郎、河越安藝守、徳屋彦三郎等令降參了、云々
康永元年六月廿三日
承了(花押)
那賀郡(江津市、浜田市)の全山野に展開したこの大作戦も、ついに三隅籠城軍を攻略できなかった。
このことは、最後の肝心な一点が仕上げられなかったことを、どうしても感じさせる。
即ち、「画竜点睛を欠いた」ということである。
というのも、一旦勢力を落とした、福屋・井野村・都野・河上らの南朝方は、三隅城が持ちこたえていることに意を強くし、それぞれ後継者を擁立して次第にその勢力を回復しつつあったからである。
ちょうどこの頃、満良親王(後醍醐天皇の第十一皇子)の子(後の石見宮)が戦塵を逃れるために石見に来ていた。
この若宮に付き添って来たのが、三隅兼連の妹の胡簶局(やなぐいのつぼね)(通称)であった。
次の話はこの「胡簶局」に関する話を行う予定である。
<続く>