色々な事が有ったはずの79年間が過ぎてゆく。
来年は80歳になる。
生きていてもいいかな???、、、天空に問いただすと
「貴方は、ピンピン、コロリの人生で、
自分の人生が
終った事も気が付かないまま
一足飛びに、
天国に飛翔するという
不思議な家系だから、、、
まだ、、
生きていてもいいかな??、、、
「 死んでから考えなさい!!」
神様にお叱りを受けた。
少なくとも、、、
筋肉隆々の両腕を見ている限りでは
旦那さんの、、、
老老介護が終ってから、、、
全ての家の片付けが終ってから、、、
孫が大学を卒業するのを見届けてから、、、
もう、、、死んでもいいかな???と
生存試験に通過するだけのことをしてから
もう一度訪ねに来なさい、、、
湖に浮かんだ白い船に居た人に、、、
たづねたら
お乘りなさい、、、
早くこちらに来ないと
席が無くなるわよ、、、、
船のガイドさんは、
真っ白な布を身にまとい
早く、、、早く、、と
招くのだった。
神様は、、、乗ってはダメ!!
と、、、手を横に振ると、、、
ぴか!!と光って船は消えた。
連日の暑さで、、クーラーの風の下で寝てしまって
からだが冷え切っていた。
いきなり目が覚めると、、、
喉がカラカラで、、、「脱水直前」だった。
炎天の中、ダウンコートを着て、、スズメバチの、、、戻り蜂を相手に
スズメバチ退治で、汗びっしょり、、、
シャワーを浴びて、、、クーラーの下で寝てしまっていた。
成果は一匹の戻り蜂を玄関に追い込んで、、殺虫剤で麻酔状態にしてから
ビニールに閉じ込めた。
つぶす勇気もないし、、、苦しまないで、麻酔状態で死なない状態で、死んでくれればもう、
巣をつくられて
「万円」の出費は、くいとどまるだろう。」
疲れ切って、、クーラーを23,5にしたまま、、
すぐ下のソファーで
ねむってしまった
TVは知床のシャチの家族の研究成果の実地観察の番組だった。
助かった!!!、、、目が覚めて、、、!
熱いコーヒーを飲むと、、、利尿作用があるから、、
、余計に脱水症状が起きるかもしれない、、、
眠い目をこすりながら、、、大塚薬品の
ポカリスエットを、、、
500ミリ一気に飲んだ。
私は生きている!!、、、、
未だ死んでたまるもんですか?
玄関のチャイムが鳴った。、、、
花キューピットからの花束お届けに、、起こしてもらった。
幸運であった。助かった!
しばらく会っていない、、、弟からのプレゼントであった。
誕生祝には息子や親戚、友人から、、、小さな花は届いていたが、、、
息子からは、、花と、、、「温泉水のjyukaku,,,」であった。
息子は医師をしているが、、コロナにも感染することなく、、、
親は祈るような気持ちで、、、
良い伴侶があらわれてほしいと思っているが
勤務医は50歳近くまで医局員の一人として、、アルバイト人生が続いていたので
一人前の民間の医師として出発してから、、やっと、、、
勉学時代の経済的マイナス面から、、脱出を始めたばかりで
マイホームと、マイカーが買えるまでは、、、結婚しても離婚医なるだろうからと
結婚はなさそうである。
私立医科大学に進学して、、
、あちこちに、、返済しながらの学士人生は
博士になってからは、、、
自立することで、一人前の医師の月給が、、戴けて、、一挙に学資の返済は終わるだろうね。
人より20年遅れの家庭を築いていくと信じている。
目の前に80歳がおりてくる日には、、
私たちも、、年金暮らしに入るだろう。
戦後のドサクサの復活期に、、、日本総貧乏時代に
医師になって家族に貢献したいという少年の夢は
医師免許を取得するころには
国や地域社会に貢献できるたちばになれるように、謙虚な医師として
志した頃の、「お金儲けの人生」は、、、どんどん遠くなっていった、、、そうです。」
へき地に行けば、、月給も高額なのは解っていたが、、、
外科を選んだという事は、、、手術手技を学ばねば
何もできないという科を選んでしまった。
旭川 留萌、、夕張、、、余市、、、倶知安、、、函館、、、帯広、、、根室、、、北見、、
医学博士を許されてからは、、、国立循環器センターに、、、何か月か行ったきり
家には変えてくることは無かった。
北大医学部の関連病院は道内に点在している。
医局生活は、、
組織の命令で、あちこちに出張して 手術の主義をおぼえてゆくのである。
かなり貧困家庭の戦後には、、、ソニーの社員であった父親の仕送りは
医師免許を取得すると、すぐに、、、仕送りはストップ。
東北大の弟への仕送りにまわされた様である。
医局生活を続けて、外科医になる為には、「奨学金」と
博士になれるまでの、、数年は、自分で稼げる相棒を探して
無理してでも結婚に踏み切らないと
30歳までの結婚のチャンスはないと思ったそうである。
後は一人前の外科医になってkらの結婚の機会は40を過ぎるだろう、、、
結局、愛してるとか、、好きだとかの、、夢物語の結婚は無理だと思い
腕に技術の有る、、、看護婦さんか、、薬剤師、、、女医さんに未来の家庭を任せるという
条件結婚になってしまったようである。
私も、、昭和の男尊女卑のすごい時代に生れてしまって
せっかく、、、総合病院で現役の薬剤師として勤務していたのに
父の開業の後継者として 孤軍奮闘していた内科医の兄のもとに
博士号を取得したら、、我が家の開業に合流して
兄と、従兄のお婿さんの耳鼻科医、、、幼少期からの友人の歯科医、
やがて医師として出発するだろう、、弟、、、薬剤師の兄と、私。
父の亡き後は、皆で、開業医だった敷地を病院にしてゆこうと、、、
戦前派病院長だった父の遺影を見乍ら「淡交会」という組織を結成していた。
そこに、、博士号取得に暁には、、、
合流して
病院発足の企画に加わりたいという医師が、、今のダンナさんでした。
本人の私の意志はともかく、、、
敗戦後の日本は,荒廃した東京を、、何とか復興させたいと
都民は必至で、、なりふり構わずに、、、街を取り戻してゆかねばならない時代だった。
未来の企画の外科医として参加すると申し出た若き医師を
母は、、、外科医だった伴侶の父が、若くなって、、
戻ってきてくれるんだと、、、もう、、何も見えなくなっていた。
兄は、、何も、、北大の医師を、、東京に引き戻さなくても
東京都内の私立の医師も、、又いとこの内科医も
淡交会に入ってくれているから、、、
北海道は、、東京に戻ってきた医師が、、、別の医局に参加しないと
医師のローテションのアルバイトは来てくれないだろうと
兄は母校の医師と従姉妹の医師と、自分んと、、千葉大の弟を押していた。
医師の家庭に生まれた一人の女性の運命は、、、どうなるんだろう、、、?
何でもいいから、、一度は結婚しないと納得しない母と家族の中で
弟だけは、、、無言だった。
何とも微妙な表情で、、、戦後を生き抜くための
病院の企業の計画の、、、ための結婚なんて、、、続くのか?
私自身にもワカラナイ。 南国育ちで、ショウガコウから大学卒業、、就職と
駿河台に生きる場所を自分で獲得した私が、、、なんで??北海道に行くのか?
ともかく、、自分に腕があるのだから、、、毛コンが続かないようなら
別れるしかないと、、、腹を決めて、、結婚に踏み切った。
親友にも、、誰にも知らさない結婚式だった。
何処で聴いたのか、、、高校時代からの親友が2人
結婚式場の受付をしてくれていた。
決して、、人生は、、、毛企画どうりには行きません、、、
どうなるのかは、、その時次第ですね。
ダンナには、、死ぬほど好きな初恋の人が居たのに
病院計画の、、見知らぬ、、、私と結婚することで
北海道に受け入れてもらえなかったときの、、、就職の確保だったのだろうか?
男の世界は、、生きなばならない、、、競争社会だから、、、
医師をすることの舞台裏には
医療の為のチームの腕を持った薬剤師の私は
家庭というバックが務まるかもしれない、、、ダメなら、、、出直そう、、、
考えているうちに、、、55年がすっ飛んだ。
未だに、、ダンナとは他人のように思えるよそよそしさも、、、消えないまま
すれ違いながら、、、自分の役割を果たしているうちに
結婚している状態で、、、80歳を迎えようとしている。
旦那は「医師をするということ以外は、、、何もしない」という、、、
全く持って、、、医師に生れて貴重な、、、医師であり、、、
職場の病院が家庭であったし、一緒に働く人たちとの医療現場の人生だったように
私には、、、見える。
お互いに「愛」だの、、「恋」だのと言う感情は
未だに持ったことはないが、、、お互いに尊敬している「信頼感」だけはあり
今まで続いたのは「信頼感」だけだった様な、、、気がします。
昭和生まれは、、、男尊女卑がすごい、、、
現代の若者の間では、、ありえない、、「男性社会だった。」
母のお見合い状態で、、、私の運命は、、北海道に外科医を迎えに行くという
親兄弟の決定に沿って、、、勤務先を退職して
外科医を迎えに行くという、、、計画材料のような、、、
絶対命令の北海道行きとなった。
息子達は、、敗戦後の日本は 皆生きる為だけに、、生きてるような
味気ない結婚だね。その点、、僕と家内は、、、お互いに惚れた同士だからね、、、
長男家族の結束は、、見事なものだ!!。
私たちのような、、戦後の心貧しい時代の親から生まれた子供達とは思えない
ほれぼれする結束の固い家族を構築しているから
社会に貢献も出来ている。
結果良ければ,、すべてよしである。
ここまでこれた、、、袖擦り合うも、、多生の縁の結婚も
主人が初めて勤務した個人病院が、、、
今や法人の「巨大病院として、、札幌市に貢献できている。」
coronaの指定病院で、、医師も感染を余儀なくされながらも
第5種になるまでの戦いは、、、TVでも放映された。
立派に社会貢献のできる病院になるまでは、、、
長い30年以上、、、家に居るより病院に居たという、、、
家庭に帰るよりは、、医師会とか、、学会とか、、、単身赴任とか
長い時は2年近く、、合わないような結婚だが、、、
お互いに自立して、、夜昼すれ違いながら
仕事を分担してきた。
次男だけが、、、せっかく医師になれたのに、、、
「父さんと母さんを見ていると、、
医師をするという事は、、
家庭が無い方が、、今は楽だと思うという。
社会の目は、、医師へのやぶにらみ的、月給の多い種族という妬みもあるから
誤解も良い所だね、、、多く戴く分は時間貧乏な為、医業だけに閉じこもるから
一斉、、、ほかの仕事は「お金で時間を買うという人生だよ。」
アチコチ目まぐるし出張生活バイト生活のローテをしながら
他kシーで市民取り乍ら、、、ボロボロに働いた。
博士号を取得するころは、、、移動生活が多くて
国への税金の納入で、、、人生は、余力はないよね。
出身の医科大学が東京で、出張先が伊豆で
毎日新幹線で、本院のカンファレンスニ舞い戻り
当直はまた伊豆だから、、、
行ったり来たりの
交通費だけで
学級は飛んじゃった時代があったそうですね。
本籍は東京で、父母は東京出身でも
北海道の高校卒の息子は、大学の仲間は東京出身者が多くて
伊豆の病院より本院に残り、大学院に行くようですね。
北海道出身ということで、伊豆のような田舎が大好きになってしまって
東京に転勤命令が来た時には、、、伊豆に残りたいからと、、、
とうとう、、静岡の人間になったようです。
慈恵会医科大学を卒業した私の父も、
若いころは沼図の御用邸近くの病院に勤務していた。
雨が降ると、、道路は水の出る地区に住んでいたようで
長靴を履いて、傘を持った写真が残っていますね。
母も、人生の一番幸せだった時は、、長男と三人暮らしだった
伊豆の生活だったとも言っていましたね。
北海道に帰ってくることは、、、もうないと思いますが、、、
幸せな、、、普通の生活が出来ることが夢ですね。
息子に言わせると
大學に50歳近くいた、、親父や僕らみたいな医師の奥さんは
子育てだって、、母親だけに背負わされるだろうから、、、
50過ぎてから、、、人生の伴侶だけの結婚が良いかもしれない、、、
子供を持つのは、、、無理だという考えのようですね。
少子化を防御するなら、、、医師の仕事をするものを
全員国家公務員医なってもらい、、、
安月給ですが、、、住宅が移動先にあるという
変則生活をしながら一人前になって行く医師たちの
本院は気が付かないようですが、、、家庭を持つとか
出産や育児には、、極めて変則的な移動中に、低冷気と合致するので
大きなお金が大回転して、、手元に菜凝らない割に
事務の煩雑さや、異動先々での税の申告は
出張医がすると、、事務ばかり増えるので、
異動先で税を支払った後の残金を支払うような規則にすれば
医師が金満家のような錯覚も、、減って、
医師の指定が、、、不登校や、自閉症になるのを防げるかもしれませんね。
僕は「医師の仕事が好きだから、、、
仕事だけできれば、、
ほかは何もいらない。」
家庭があったら、、
仕事も家庭も両立しないのが、、
僕の場合いい切れるね。」
「守れないよ、、医師をするという事は、、、全力でも、、追い付かないよ!!」
ネットで知識だけいっぱいある、、、モンスター患者さんだって
アルバイト先に、けっこいましたそうですね(--)!
周りが優秀で、、医学は日進月歩で、、医師自体の維持費がかかり、、
ダンナさんは、、
一番動いていた時代は、、、
30個ぐらいの学会の支払いを
していた夜でしたね。
大學の30万円位満たない手取りで、、
何十万もの学会費を払ったときもありました。
一生、、働いて、、働いて、、、
時間に追われて、、
、患者さん時間が主役でさ。。。
かあさんに、孫の顔見せる事が出来なくて、、、
兄ちゃんが孫を育てて、、
母さんをお婆ちゃんにしてくれて、、、
僕にはには感謝だよ。
孫の存在って、、、ロジンの若さの泉だよね、、、きっと!
でも、、僕は、、意志をすることが好きだし,、
、医師を続けられるように、、
チームに貢献できることを
天職だと思っているから、、、
税金払っている様な人生だけど
いつも無一文だけど、、、
今回、、東京栄転を断って、異郷句に許可を得て
静岡にとどまれたことは、、、嬉しいよ。
静岡大好きだし、、、一生ここに住みたいよ、」
「父さんみたいに、、個人病院い勤務したから、、これからは、、
50歳からの人生は、、、余裕の時間が出来ると思うよ。
母さん、、、父さん、、、僕を医師にしてくれて、、感謝しているよ。
これからも、、社会に貢献できる医師で居られるように
一生、勉強するからね、、、」
電話は、、切れた。
なぜか肩に力がはいっていた、肩が凝った。
coronaには感染しないで、、勤務を続けているから、、大したものです。
社会の風評と、、高額所得という、、、収入金額だけで
維持費のかかる生き方をしないと、、、10年で、医学会からは置いて行かれるという
入っても、、出てゆくノルマの金額を税金はみてくれないから
収入だけにかかる税金は、、時間貧乏の医師の「お金で時間を買うという」
素の行動が、、、民間や税務感からは「贅沢に見えるのでしょうね。」
我が家も、、タクシーのおかげで、、勤務できている。
息子もタクシーのおかげで勤務できていた大学生活は
やっと卒業したが、、、目の前に50歳がみえるのだ。
「母さん、、人生100年時代だよ、、、急がないことだよ。」
「今、、僕に家族が居ても、、、守れないよ、、、」と
のんきかもしれない。
ダンナが初めて勤務したころの個人病院☞
80歳に向かって、、
最後の70歳代で、、、
しょんぼりしない様に
元気を送ると、、、
弟から、、、
今まで、、戴いたことのない花束が届いた。
誕生日の日は、、、
旦那は仕事で、帰宅できなかったが、、、
いつものことで、、誕生のお祝いなど、、期待することも無かった。
私も、、旦那の誕生日には、、
モノを、、プレゼントに買った覚えもないのですよね、、
職場のお仲間の思いやりの誕生祝で、、、主人は満足なので
とりわけて、、私も、息子達も、、
お父さんのお誕生日には、、
「お父さんは居ない日」だという感覚で過ごしてきた。
外科医という、、「患者さんの怪我や手術の時間」が、、
すべてのものを控えさせるという「優先権」が有った。
80を目の前に、、例年のように、、
、ダンナの居ない誕生日は
味気なくなるので
息子家庭の誰でも、、暇な人、、、
婆ちゃんと、、うどん食べに行こうと、、メールをしておいた。
夕方には、、息子夫婦が一緒に、夕食をしよううと、、、迎えに来た。
私の方で、
「 食べたいものがあったら、、外食しよううよ、、、
ママが、、おごるから、、、夏バテ乗り切ろう、、」と
誕生日に合流するのも、、良いかもしれない時期なので
還暦も、喜寿も、誕生日の日も、
ひたすら病院で過ごした旦那さんとは
夫婦というより、、、
「背中合わせの、、時間が過ぎた55年間」だった。
ダンナは仕事、、、、私は子育て家事雑用、、、
ひたすら、、、自分の領域の仕事を、、、真摯にやってのけるだけの日々が過ぎた。
アルバムには、忘年会や、病院イベントの集団写真ばかりで
「仕事が家庭」で有ったような、、、
「医者バカ」の、、、
医者しかしない、、旦那だった。
医者しかしないという、、、専門的な生き方は
周りのチームの医療スタッフと、、
夜なかで有ろうと、、
嵐であろうと
お正月であろうと
種々室には出てきてくれるスタッフと、チームの結束が条件となる。
暇な時間は「看護学校の講師として」
某臨床工学士集団への「人工心肺の指導者として」
医局の心臓外科チームが、アメリカ縦断の学術学会と親睦会を兼ねてゆくと言えば
2週間以上のアメリカ学会にチームの結束からはみ出さない為にも
メイョ~クリニックで知られているロテェスターから
ハーバード大学のボストンまで、、、学会に同行して
医局の学術団体の先生方との絆を大切に、、半月は家に帰らない、、、ダンナ!。
旅行費用も、、つま先立ちで用意して、、
ニュヨークでは外出しないで、、、スライド整理係を引き受けていたとか。
お土産は「メイドイン、、、ジャパン、、、とテロップのついたネッカチーフ!!」
写真は一杯とってきましたね、、、
あの頃は、、現像を頼むのですが、、、良い記念医なる写真が、
整理しながら、、並べるのが楽しかったですね。
ダンナさん自身は、、、普通の穏やかな、、、人に何でも譲ってしまう人ですが
お友達は、、秀才ばかりでしたね。
小樽商大の学長とか、、、
北大植物園の園長さんだとか、、、
東大の病理の先生とか、、、
ダンナさんだけが、、、普通にどこにでもいる、、、雇われ院長でしたね。
大學に、、アメリカ帰りの臨床経験の多い心臓外科医が日本に帰ってきたときも
日進月歩の医学は、新しいことを学んだ先生に執刀してもらおうということで
徹底して、病院に良いスタッフが働きやすいように
自分から、、、助手に廻って、、病院麻利益を優先するという
今でも、、永久名誉学会員んですが、、、
時とともに、、日進月歩の医学には、、、新しい技術を取得した先生に
全力で便宜を図り、、、人が敬遠する仕事に回ってしまうという、、、
院長さんも、、前院長さんの御指名を、、一度は断っても
北大が院長を続けないと、、、ピッツバーグとの交流は
日本とアメリカの国際交流も兼ねているから、、、
どんなに優秀な医科大であったとしても、、、地域の医大のすぐれた医師であっても
アメリカの大學は、、日本国の「国立大学の医師がいんちょう」という条件下に
「北海道のアメリカの医師は、、国の保護下に交流するという時代だったのだろうか?」
それとも、、国立大の医師が院長の方が
何か異変に遭遇したとき、、、
自国のVIPを守れるという事なのだろうか?
世界史5点しか取れない頭脳の私には
一斉の責任能力はないという立場を前提に
英語が、、ネィティヴ出ない旦那が
聴き間違いから起こる責任回避の為に
ノー天気に話せる奥様族を
通訳にして、、気やすい会話の交流をしている場合も
「ぜろ」ではないと思えるから、、、マチュピチュの話や
イグアスの瀧の話など、、、 南アメリカの自然の話に
冒険心が燃え上って、、、話さないことで名の知れたVIPの先生が
会合の中心の話してとして、、、面白い大自然の話を繰り広げてくれたのでした。
不得手な院内政治的な思考の無い旦那さんには、、、医師会から感謝状や、記念品 表彰状と
会長が変るたびに、、賞を戴いてくるという、、、 地域の医療杜の連携に
熱い熱意をもやし、、、ドクターヘリの導入に、札幌医大の先生方と
女性にはワカラナイですが、、、地域と国の仲立ちの努力を 分担して
日夜会議に出かけていましたね。
ドクターヘリが導入された時は
高橋知事さんや 警察官僚の方などと
ご苦労さん界のような事なのでしょうね、、、会合が続いて
家には居ない日が多かったですね。
TVを観ていたら、、、テープカットに、、ダンナさんも映っていて
万感の思いの顔で、、鋏を使っていましたね。
その後は、、外科医に戻って、、旭川医大の学長になられた先生の教えを受けて
腕をなかば切り落としかけた患者さんの血管縫合に成功したとか言って
栄えある院長の座などは、、、どうでもよさそうに、、、
その農民の腕が繋がった事の感激を、、話してやまない、、、
良い師匠に恵まれた、、、血管外科、。心臓外科の時代の
外科出身の医師らしく、、
子茶個茶と入り組んだ亀の甲を科学として、、、
化学の薬剤師のリケジョの私には
単純明快、、、医師としてのプライドだけは守り通して、
現役の医師を83歳の今日まで、、、
周りの協力という、、理解を得れたのは
名誉と栄光を負うタイプの医師ではなくて、、、
ひたすら、、病院への貢献できる事を喜びとして
資格があっても、、技術があっても、、、
人のあまり向いてこないすき間を埋め乍ら
病院全体の地域イリョとの連携に、、、
昭和生まれの医師は、、医者生命を感じていたのかもしれませんね。
最近はご夫婦とともに、、会食をと
お誘いを受けるのですが、、、参加したことは有りません。
お仕事の助っ人なら、、、万難を排して、、、
幼児のツッパリにでもなればと、、、参加しているのでございます。
北大の講師をしていたダンナさんに、、前院長が去る時に指名してゆきました。
悩んで悩んで、、一度は断ったダンナでしたが
あらゆる条件の便宜を図ってもらうことで、、院長を引き受けました。
そして、、全日本の臨床医や医療スタッフの、、一大イベントの
「クリニカルパス学会」の会長を務め、、全国から3000人以上の参加者があり
勤務先の病院の名は、、全国津々浦々からも、、、自宅にまで電話が入るほど
臨床医の優れた病院であることが、、知られて、、、
全国かあ集まってくれた3000人の先生や看護師さん、医療チームの技師さんに薬剤師、
K病院は名前が全国版いなるほど有名になりました。
研修医の若い先生が友どんどん来てくれるようになり
実質も名医が多い病院ではありましたが
世界の病院評価でも,、、10指に入ると、、、発表された雑誌を持って
医師会の先生ℬ方からも地域医療の提携の出来る病院として、、
未だにお付き合いの交流をしているのが、、嬉しいですね。
病院というのは、、、地域に貢献して、、貢献して、、、
それがダンナさんの目指す医師であった時代の、、昭和の生き残りですからね。
私的には、、、心臓外科医の永久名誉会員の賞状同様
家内の私は開業医のムス⒥目として育ち
一度は医師になろうと志しながらも
女性が務まるには、、、もっと骨太でなければ無理だったと
ひたむきに、、意志を続ける旦那さんには、、、
生涯、、意志をするという、、、心を
ストップ掛けれるのは、、、「年齢」だけだと思いますね。
サミットの時は、、、覆面の大樹病院として緊急患者さんを運んできたのを受けて
国際間の事なきを得た治療が出来て、、、
役目を終わった段階で、、、医大の助教授で有られた、、、ハンサムで
柔和で、、、見るからに院長さんらしい風貌の、、スマイリーな内科医と
速やかに、、院長を交代して、、、政治家てきな事の不得手なダンナさんは
「医師をすることが天職だと」 一医師としての道を選び、、坤為地にいたっています
大學時代の友人や、、、
小学校時代の同級生や、、、
もと、教授の同級生が
7人もいた、、ダンナの若い時代は、、
家庭以外のイベントが
ダンナの家族以上に、
、仕事相棒との会合の方が必要な時代があったりして
私が旦那と同席する時は、、、
ご夫婦で旦那の勤務病院を
訪問してくれた先生が、
ご家族を連れて見えられた時に
先生方だけで、
仕事のお話が進むように、、
主催者の配慮の為の
アルバイト接待役で、、、航空案内おばさん役で
はるばるの病院訪問の礼儀として、
ヒコーキに乗船するまでの、安全確認の為の報告をt飲まれたりした。
ダイナース特別待合室で、、
無事のお帰りの
見守り隊として、、、
ダンナから家族会員のカードと、、、
日当を戴いて
患者さんの予約で、仕事が積んで
見送れない旦那に
時間を提供するという
病院の外野として、、、活動するぐらいでした。
旦那からいただいたボケットマネーは、、
旦那の自腹で、、、
病院から出ているわけではない。
緊張と、スマイルと、自腹で買った「ゆうからおり」の小物セットを
お嬢さんなどお連れになった先生のお見送りに
訪問者と仲良くなり、、しばらく、、何年も、航空便が届いていました。
楽しかった会食などの感謝をこめて、、
先生方の惜別の情を上手く伝えられるかという
ご家族の日本訪問の安全の為の仕事に徹するという
旦那の雇われ同様の
舞台裏の役に全力の日々でしたね。
病院は 個人の猫の手のお手伝い出逢うから
認識できるようなお手伝いではありませんが、、、
何回も来ている先生なのに、、何も話さなくて、、、というので
お引き受けしたのですが、、、、
先生ではない、、、先生の奥さんという、、
緊張しないでよい相手だと認識された仁尾でしょうね
お話が尽きないほど、、話されて、、、話されて、、、何年も一緒だったというのに
先生方には無口だったと言って、、、楽しかったと、、、
握手を何回もしながら、、先生の奥さんも
こんなにしゃべったハズバンドを見たのは、、初めてだと
私には、、ハグをしてくれました。
この先生ご家族はアメリカ人でしたが
もう、、、何十年も前のことですが、、、
日本はパンダで,フィ-バーしているときでした。
中国の有名な外科医の先生が、、
老年の奥様といらしたとき
先生方の医学的な会議が終了した後
丸一日、、、ご夫婦含め
3人の中国の外科医のご家族を、
札幌市内案内にと、依頼されて、、、
一に安全、、、2に安全、、、3、4、、、が無くて「5」に安全と
緊張の中で,、、
道庁を案内した後、
知事公館とか
北大病院とか、、、
普段から護衛が居て
救急事態に受けの体制の有る所ばかり
責任の重さに、、、作り笑いが
痙攣するのではと、、思うほど、、、自然を装っても
冷や汗の連続でした。
たった一人で、、中国の外科医のVIPご夫婦の札幌案内を引き受けるなんて
若気の物怖じを知らない時代の、、、私だったことを
歳とってから、、冷や汗が出る思いで、、
相手が、、大人物だったから、、、若い未熟な案内人の
能力内の注文しかしなかったのだと気が付きましたね。
中国では有名な外科医の先生でしたね。
その後、、その先生の一人が、、病院長になられた頃
漢方薬や、
薬史博物館長や
東京薬科大の教授の先生らとなどと
中国を訪ねて、、、
4大中医学院を回る時に
ホテルまで訪ねてくださり、、、
博物館長ご夫妻を交えて
人の輪が、、国際親善に役立ったのではないかと、、、
拡大解釈したくなるような、、、
歓迎の日々でしたね。
光栄な旅の想い、
何でも引き受けてみると、、、
国際親善の小さなスケールも
楽しいものだと思ったりしました。
その後中国には行く機会もなく、、
80を迎えようとしていていますが
旦那さんの時間貧乏が、、、
私の仕事になってしまいましたが
その結果、、、中国に行ったときには、、、
能くしていただき
同行した先生方の中には、
ポテンシャル的に釣り合う人もいらして
一主婦の、無料奉仕のような、、、
「旦那の時間をやりくりできないというだけの都合で」
依頼で、、家族を札幌案内したことが
80を目の前にすると、、、当時の緊張感は忘れて
御老体の御婦人に付き添ったことを感謝された意味が
この、、歳になって、、初めて、、、若い私が付き添ったことが
老人には、ココロ強い、、ベストの接待だったと
何十年も過ぎてから、、、、年寄りの海外旅行には
男でも女でもいいから、、、案内人を着ける事が
素晴らしい、、おもてなしにもなるし、、用心棒にもなるのだと
この頃になって、、、しみじみ、、、若き日のダンナは、
人の接待の企画が優れていたことに、、、今頃気が付くのですよね、、、
料理も、、人さばきも、、、若いころのダンナには、、
手時かな、、安くて済みそうな食材も、、人材も、、、
目についたものが、、奥サンであっても
「そんなあなた、、、むつかしすぎること頼まないでよ」と言って断っても
頼んでしまうという、、、大胆な冒険を気やすく頼む人でしたね。
若さ独特の鈍感力で、、、
80過ぎるまで、、、引退するかな?
すると言いながらも
「 検診をするという、、認可された資格試験に合格するから
毎年検診に現れるという婆ちゃんになった患者さんが
先生居なかったから、、、また来ます」
と言って、検診受けないで来たというのです。
「札幌市からの依頼の検診」は地域貢献であるからと
主人は、名誉とか、、権力には縁のない人なので
外科医の現役の頃は
乳房温存の手術も経験しているので、
マンモグラフィの映像から、、、
がん細胞の🈐ごたえまでわかる子tが多かったと言っていました。
術後何十年も生を守られているという婆ちゃんが
ことしで27回目の検診だと言っていました。
「マンモグラグの診断の本」は
かって、、検診研究では追従を許さなかった
「市川平三郎先生の、国立がんセンターの 乳がんのチームとの本を勉強して
資格試験の合格したのが始まりでした。
かって、、市川先生の教えのもとに
がん検診研究のセンター長だった 弟の、森山先生が
ピットホールの本などを出版したとき
叔父さんを尊敬して「放射線科に我が息子は、、、」
「叔父さんの実力は、、神の域だ,、、よ、、、」
息子は、、一生かかても、、
叔父さんの域には、、行きたいとは思いながらも、、、
伯父さんは天才だという、、、」
私の旦那さんと叔父さんは、、若き日には、、行き来していた義兄弟です。
伯父さんが学会の時、、ホテルをとってあったのに、、、
連れてきた先生と、、朝まで話が弾み、、、
寝ないまま、、、
朝になって僕らを自転車で、水源地公園まで連れて行ってくれて
ママチャリに乘った叔父さんのお友達を
チビッ子の自転車で追いかけたんだよね、、、。
小学生の兄ちゃんの自転車での追跡は、、
小学生らしくてOKだが
幼稚園生のチビッ子の次男君は、、、
「根性アルネ!!」
「お母さん、、この子は医者になるでしょうね。」と、、予言して帰られました。
その若き弟の友人は九州の方の大學の教授になられて
我が家の旦那さんとも、、生涯、、学会などで、、お逢いする御縁が続きました。
次男はその先生が幼稚園の時に予言したように、、放射線科の医師となりました。
本州に出ていったきり、、、20年以上たちました。
男たちの御縁というのは、、、
家庭婦人の母親の私は置き去りの
外野の野草同様ですが
先生方は、、、
ちっとも仲間外れにしないで、、、あたかも仲間の延長のように
如才なく、、冗談もおっしゃられて、、、話されているうちに、、、
ほのぼのと、、、緊張しないのは、、
同じ仕事の先生方の集まりだからでしょうね
ダンナからは妻にあたるはずの私の誕生日には
掌に入る花束を、、、(500円ぐらい)充分だろうと思えるらしいのですが
結婚当時から、、苦学生だった旦那さんが、、、家内にこのを買ってくるなんて
晴天の霹靂でしたから、、、嬉しかったですね。
大好きな女性に失恋した勢いで、、、「もう、、誰でもいいや、、」
30歳になる前に結婚して、、片思いの彼女への想いを絶ちたかったという
自分の都合だけで、、、「結婚しよう、、、」と
私が逃げ場になったという、、、結婚後の真摯な貧乏ぶりが
私には、、この先生の、、医師をしようという、、、執念にも似た志を
舞台裏から支える仕事で、、間接的に、、社会に貢献できるかもしれないと、、、
男尊女卑の昭和を生きる、、、婆ちゃんは、、、
後方の憂いのない、、意志をすることの舞台裏を、、仕事にしようと
貧乏くじであるに違いないが、、、やりがいがあるのではと、、、
北海道に住みながら、、、ひたすら雪を掻きつづけた55年間でしたね。
ダンさんのせいいぱいの好意である、、、50円の花ポットには
「ありがとうで、、」済ませるのですが、、、嬉しいものですよね。
弟からの花束は、、、こんな田舎っぺの姉が受け取っても良いのかと思うほどの
華やかな花束です。 びっくりしました。
スッカリ道産子の母ちゃんとして、、、鎮座していた婆ちゃんは、、
母のピアノリサイタルの演奏会の日に、、
若さにかまけて、、思い切り華やかな、、
舞台の飾り花を創った日のことを思い出しました。
若い日に、、婆ちゃんは、、、生け花の師範をしていて
デパートの華展覧会などにも、、、
小品を出していた若き日の、、無鉄砲な散財にも無頓着で
花を勉強していた頃を麻観だしました。
私はかっては、、、開業医の、、世間知らずの、、、娘だったのかもしれない」
素晴らしい花だと思いつつも、、、
髙かったろうな~~~~って、、
申し訳ない気持ちと複雑で開いたね。
来年は80歳ですから、、、もう、、、
いつまで生きているかもわからない歳になりながら
人生の最期の花束として、、感謝で、、、日記帳に、、、記録しておきます。
我が家は、、、病院を通して、、、貢献したいという、、臨床医の医者バカで
奥さんを振り返ってくれるような暇は無かった人ですが
外ズラが良くて、、、我が家の停まって下さった先生方には
朝まで、、喜んで話し込むという、、、ジャンルの違う先生方の話に融け込んで
奥さんも家族の子供たちも、、一緒になって、、、
朝の貧しい「塩おにぎりを喜んでくださり、、、」
人生の最終幕の始まりに、、こんなに素敵な花束を下さり、、、
若き日の、、、未だ、、がんセンターの廊下で寝起きしながら
早期がんの発見に集中していた学者の先生方の
きらきらした、、、一途な瞳を思い出しながら
多くの花束をつくって、、、御お送り着たこてゃ有っても
こんな花束を受け取ったのは、、、人生で初めてでした。
80代は、心して、、生きて行こうと思います。
弟よ、、、どんなことが有っても、、、姉よりは、、、長生きしてください
君が戦後の日本緒復活期を、、生き生きと生きていたから、、、
一人ぼっちの北海道で、、
「医師をする旦那の舞台裏なら、、仕事として引き受けようと、、大真面目で
主婦の雑用に人生を過ごしてきた55年間でしたね。」
男社会の日本では、、、女がサカシク動けば、、
本命の男がダメになるという
社会構造であることが大部分な昭和の私たちは
人生の最期の花束で、、、この生き方で、、良かったのだと、、、
ホッとした瞬間でした。
」」
これは社会音痴の 家内が思う勝手な思い込みの日記です、旦那さんは、読んだら、、きっと、、、
バカ丸出しの、、、外野の眼だと、、、怒る気もしないでしょうね、、、
男の世界、、、大会社と同じ組織の社会人は、、、女の近視眼的見解は、、、笑うだけだろうと、、、
いつもの、、腹も立たない、、昼ドラマ作家になれるよという
別の社会の男たちの世界が、、、大病院麻医師の世界かもしれません。
一人ぼっちで洗濯おばさん、、、雪掻きおばさんを勤めあげた、、私も、、、
日記帳ぐらいには、、、我が見解を書いても良いだろうと、、、結局はデタラメ古期かもしれませんが
高度すぎて理解できない医師のダンナの集団に、、、
外野の見解を残しておきたかったという、、
自己満足の日記になりました。
真面目に読むな~~~、、これはかってなおばさんの日記の
昼ドラかもしれないから、、、根。
病院とか医者の世界は深すぎて、、、そこは見えない、、
深野淵です、、、
NHKのシャチの家族の方が、、、賢いかも、、、
m(^^)m 花のプレゼントに、、、
一瞬、、我も、、社会人かもと、、、自惚れついでに
うれしさの感動が、、ばねになってこんなに長い日記を掛けたことに
弟よ、、、
ありがとう、、、
感謝で、、ぼうぼうと燃えた炎が、、
こんなに長い、、、日記をかかせつぃマッチョ!!
来年は80歳になる。
生きていてもいいかな???、、、天空に問いただすと
「貴方は、ピンピン、コロリの人生で、
自分の人生が
終った事も気が付かないまま
一足飛びに、
天国に飛翔するという
不思議な家系だから、、、
まだ、、
生きていてもいいかな??、、、
「 死んでから考えなさい!!」
神様にお叱りを受けた。
少なくとも、、、
筋肉隆々の両腕を見ている限りでは
旦那さんの、、、
老老介護が終ってから、、、
全ての家の片付けが終ってから、、、
孫が大学を卒業するのを見届けてから、、、
もう、、、死んでもいいかな???と
生存試験に通過するだけのことをしてから
もう一度訪ねに来なさい、、、
湖に浮かんだ白い船に居た人に、、、
たづねたら
お乘りなさい、、、
早くこちらに来ないと
席が無くなるわよ、、、、
船のガイドさんは、
真っ白な布を身にまとい
早く、、、早く、、と
招くのだった。
神様は、、、乗ってはダメ!!
と、、、手を横に振ると、、、
ぴか!!と光って船は消えた。
連日の暑さで、、クーラーの風の下で寝てしまって
からだが冷え切っていた。
いきなり目が覚めると、、、
喉がカラカラで、、、「脱水直前」だった。
炎天の中、ダウンコートを着て、、スズメバチの、、、戻り蜂を相手に
スズメバチ退治で、汗びっしょり、、、
シャワーを浴びて、、、クーラーの下で寝てしまっていた。
成果は一匹の戻り蜂を玄関に追い込んで、、殺虫剤で麻酔状態にしてから
ビニールに閉じ込めた。
つぶす勇気もないし、、、苦しまないで、麻酔状態で死なない状態で、死んでくれればもう、
巣をつくられて
「万円」の出費は、くいとどまるだろう。」
疲れ切って、、クーラーを23,5にしたまま、、
すぐ下のソファーで
ねむってしまった
TVは知床のシャチの家族の研究成果の実地観察の番組だった。
助かった!!!、、、目が覚めて、、、!
熱いコーヒーを飲むと、、、利尿作用があるから、、
、余計に脱水症状が起きるかもしれない、、、
眠い目をこすりながら、、、大塚薬品の
ポカリスエットを、、、
500ミリ一気に飲んだ。
私は生きている!!、、、、
未だ死んでたまるもんですか?
玄関のチャイムが鳴った。、、、
花キューピットからの花束お届けに、、起こしてもらった。
幸運であった。助かった!
しばらく会っていない、、、弟からのプレゼントであった。
誕生祝には息子や親戚、友人から、、、小さな花は届いていたが、、、
息子からは、、花と、、、「温泉水のjyukaku,,,」であった。
息子は医師をしているが、、コロナにも感染することなく、、、
親は祈るような気持ちで、、、
良い伴侶があらわれてほしいと思っているが
勤務医は50歳近くまで医局員の一人として、、アルバイト人生が続いていたので
一人前の民間の医師として出発してから、、やっと、、、
勉学時代の経済的マイナス面から、、脱出を始めたばかりで
マイホームと、マイカーが買えるまでは、、、結婚しても離婚医なるだろうからと
結婚はなさそうである。
私立医科大学に進学して、、
、あちこちに、、返済しながらの学士人生は
博士になってからは、、、
自立することで、一人前の医師の月給が、、戴けて、、一挙に学資の返済は終わるだろうね。
人より20年遅れの家庭を築いていくと信じている。
目の前に80歳がおりてくる日には、、
私たちも、、年金暮らしに入るだろう。
戦後のドサクサの復活期に、、、日本総貧乏時代に
医師になって家族に貢献したいという少年の夢は
医師免許を取得するころには
国や地域社会に貢献できるたちばになれるように、謙虚な医師として
志した頃の、「お金儲けの人生」は、、、どんどん遠くなっていった、、、そうです。」
へき地に行けば、、月給も高額なのは解っていたが、、、
外科を選んだという事は、、、手術手技を学ばねば
何もできないという科を選んでしまった。
旭川 留萌、、夕張、、、余市、、、倶知安、、、函館、、、帯広、、、根室、、、北見、、
医学博士を許されてからは、、、国立循環器センターに、、、何か月か行ったきり
家には変えてくることは無かった。
北大医学部の関連病院は道内に点在している。
医局生活は、、
組織の命令で、あちこちに出張して 手術の主義をおぼえてゆくのである。
かなり貧困家庭の戦後には、、、ソニーの社員であった父親の仕送りは
医師免許を取得すると、すぐに、、、仕送りはストップ。
東北大の弟への仕送りにまわされた様である。
医局生活を続けて、外科医になる為には、「奨学金」と
博士になれるまでの、、数年は、自分で稼げる相棒を探して
無理してでも結婚に踏み切らないと
30歳までの結婚のチャンスはないと思ったそうである。
後は一人前の外科医になってkらの結婚の機会は40を過ぎるだろう、、、
結局、愛してるとか、、好きだとかの、、夢物語の結婚は無理だと思い
腕に技術の有る、、、看護婦さんか、、薬剤師、、、女医さんに未来の家庭を任せるという
条件結婚になってしまったようである。
私も、、昭和の男尊女卑のすごい時代に生れてしまって
せっかく、、、総合病院で現役の薬剤師として勤務していたのに
父の開業の後継者として 孤軍奮闘していた内科医の兄のもとに
博士号を取得したら、、我が家の開業に合流して
兄と、従兄のお婿さんの耳鼻科医、、、幼少期からの友人の歯科医、
やがて医師として出発するだろう、、弟、、、薬剤師の兄と、私。
父の亡き後は、皆で、開業医だった敷地を病院にしてゆこうと、、、
戦前派病院長だった父の遺影を見乍ら「淡交会」という組織を結成していた。
そこに、、博士号取得に暁には、、、
合流して
病院発足の企画に加わりたいという医師が、、今のダンナさんでした。
本人の私の意志はともかく、、、
敗戦後の日本は,荒廃した東京を、、何とか復興させたいと
都民は必至で、、なりふり構わずに、、、街を取り戻してゆかねばならない時代だった。
未来の企画の外科医として参加すると申し出た若き医師を
母は、、、外科医だった伴侶の父が、若くなって、、
戻ってきてくれるんだと、、、もう、、何も見えなくなっていた。
兄は、、何も、、北大の医師を、、東京に引き戻さなくても
東京都内の私立の医師も、、又いとこの内科医も
淡交会に入ってくれているから、、、
北海道は、、東京に戻ってきた医師が、、、別の医局に参加しないと
医師のローテションのアルバイトは来てくれないだろうと
兄は母校の医師と従姉妹の医師と、自分んと、、千葉大の弟を押していた。
医師の家庭に生まれた一人の女性の運命は、、、どうなるんだろう、、、?
何でもいいから、、一度は結婚しないと納得しない母と家族の中で
弟だけは、、、無言だった。
何とも微妙な表情で、、、戦後を生き抜くための
病院の企業の計画の、、、ための結婚なんて、、、続くのか?
私自身にもワカラナイ。 南国育ちで、ショウガコウから大学卒業、、就職と
駿河台に生きる場所を自分で獲得した私が、、、なんで??北海道に行くのか?
ともかく、、自分に腕があるのだから、、、毛コンが続かないようなら
別れるしかないと、、、腹を決めて、、結婚に踏み切った。
親友にも、、誰にも知らさない結婚式だった。
何処で聴いたのか、、、高校時代からの親友が2人
結婚式場の受付をしてくれていた。
決して、、人生は、、、毛企画どうりには行きません、、、
どうなるのかは、、その時次第ですね。
ダンナには、、死ぬほど好きな初恋の人が居たのに
病院計画の、、見知らぬ、、、私と結婚することで
北海道に受け入れてもらえなかったときの、、、就職の確保だったのだろうか?
男の世界は、、生きなばならない、、、競争社会だから、、、
医師をすることの舞台裏には
医療の為のチームの腕を持った薬剤師の私は
家庭というバックが務まるかもしれない、、、ダメなら、、、出直そう、、、
考えているうちに、、、55年がすっ飛んだ。
未だに、、ダンナとは他人のように思えるよそよそしさも、、、消えないまま
すれ違いながら、、、自分の役割を果たしているうちに
結婚している状態で、、、80歳を迎えようとしている。
旦那は「医師をするということ以外は、、、何もしない」という、、、
全く持って、、、医師に生れて貴重な、、、医師であり、、、
職場の病院が家庭であったし、一緒に働く人たちとの医療現場の人生だったように
私には、、、見える。
お互いに「愛」だの、、「恋」だのと言う感情は
未だに持ったことはないが、、、お互いに尊敬している「信頼感」だけはあり
今まで続いたのは「信頼感」だけだった様な、、、気がします。
昭和生まれは、、、男尊女卑がすごい、、、
現代の若者の間では、、ありえない、、「男性社会だった。」
母のお見合い状態で、、、私の運命は、、北海道に外科医を迎えに行くという
親兄弟の決定に沿って、、、勤務先を退職して
外科医を迎えに行くという、、、計画材料のような、、、
絶対命令の北海道行きとなった。
息子達は、、敗戦後の日本は 皆生きる為だけに、、生きてるような
味気ない結婚だね。その点、、僕と家内は、、、お互いに惚れた同士だからね、、、
長男家族の結束は、、見事なものだ!!。
私たちのような、、戦後の心貧しい時代の親から生まれた子供達とは思えない
ほれぼれする結束の固い家族を構築しているから
社会に貢献も出来ている。
結果良ければ,、すべてよしである。
ここまでこれた、、、袖擦り合うも、、多生の縁の結婚も
主人が初めて勤務した個人病院が、、、
今や法人の「巨大病院として、、札幌市に貢献できている。」
coronaの指定病院で、、医師も感染を余儀なくされながらも
第5種になるまでの戦いは、、、TVでも放映された。
立派に社会貢献のできる病院になるまでは、、、
長い30年以上、、、家に居るより病院に居たという、、、
家庭に帰るよりは、、医師会とか、、学会とか、、、単身赴任とか
長い時は2年近く、、合わないような結婚だが、、、
お互いに自立して、、夜昼すれ違いながら
仕事を分担してきた。
次男だけが、、、せっかく医師になれたのに、、、
「父さんと母さんを見ていると、、
医師をするという事は、、
家庭が無い方が、、今は楽だと思うという。
社会の目は、、医師へのやぶにらみ的、月給の多い種族という妬みもあるから
誤解も良い所だね、、、多く戴く分は時間貧乏な為、医業だけに閉じこもるから
一斉、、、ほかの仕事は「お金で時間を買うという人生だよ。」
アチコチ目まぐるし出張生活バイト生活のローテをしながら
他kシーで市民取り乍ら、、、ボロボロに働いた。
博士号を取得するころは、、、移動生活が多くて
国への税金の納入で、、、人生は、余力はないよね。
出身の医科大学が東京で、出張先が伊豆で
毎日新幹線で、本院のカンファレンスニ舞い戻り
当直はまた伊豆だから、、、
行ったり来たりの
交通費だけで
学級は飛んじゃった時代があったそうですね。
本籍は東京で、父母は東京出身でも
北海道の高校卒の息子は、大学の仲間は東京出身者が多くて
伊豆の病院より本院に残り、大学院に行くようですね。
北海道出身ということで、伊豆のような田舎が大好きになってしまって
東京に転勤命令が来た時には、、、伊豆に残りたいからと、、、
とうとう、、静岡の人間になったようです。
慈恵会医科大学を卒業した私の父も、
若いころは沼図の御用邸近くの病院に勤務していた。
雨が降ると、、道路は水の出る地区に住んでいたようで
長靴を履いて、傘を持った写真が残っていますね。
母も、人生の一番幸せだった時は、、長男と三人暮らしだった
伊豆の生活だったとも言っていましたね。
北海道に帰ってくることは、、、もうないと思いますが、、、
幸せな、、、普通の生活が出来ることが夢ですね。
息子に言わせると
大學に50歳近くいた、、親父や僕らみたいな医師の奥さんは
子育てだって、、母親だけに背負わされるだろうから、、、
50過ぎてから、、、人生の伴侶だけの結婚が良いかもしれない、、、
子供を持つのは、、、無理だという考えのようですね。
少子化を防御するなら、、、医師の仕事をするものを
全員国家公務員医なってもらい、、、
安月給ですが、、、住宅が移動先にあるという
変則生活をしながら一人前になって行く医師たちの
本院は気が付かないようですが、、、家庭を持つとか
出産や育児には、、極めて変則的な移動中に、低冷気と合致するので
大きなお金が大回転して、、手元に菜凝らない割に
事務の煩雑さや、異動先々での税の申告は
出張医がすると、、事務ばかり増えるので、
異動先で税を支払った後の残金を支払うような規則にすれば
医師が金満家のような錯覚も、、減って、
医師の指定が、、、不登校や、自閉症になるのを防げるかもしれませんね。
僕は「医師の仕事が好きだから、、、
仕事だけできれば、、
ほかは何もいらない。」
家庭があったら、、
仕事も家庭も両立しないのが、、
僕の場合いい切れるね。」
「守れないよ、、医師をするという事は、、、全力でも、、追い付かないよ!!」
ネットで知識だけいっぱいある、、、モンスター患者さんだって
アルバイト先に、けっこいましたそうですね(--)!
周りが優秀で、、医学は日進月歩で、、医師自体の維持費がかかり、、
ダンナさんは、、
一番動いていた時代は、、、
30個ぐらいの学会の支払いを
していた夜でしたね。
大學の30万円位満たない手取りで、、
何十万もの学会費を払ったときもありました。
一生、、働いて、、働いて、、、
時間に追われて、、
、患者さん時間が主役でさ。。。
かあさんに、孫の顔見せる事が出来なくて、、、
兄ちゃんが孫を育てて、、
母さんをお婆ちゃんにしてくれて、、、
僕にはには感謝だよ。
孫の存在って、、、ロジンの若さの泉だよね、、、きっと!
でも、、僕は、、意志をすることが好きだし,、
、医師を続けられるように、、
チームに貢献できることを
天職だと思っているから、、、
税金払っている様な人生だけど
いつも無一文だけど、、、
今回、、東京栄転を断って、異郷句に許可を得て
静岡にとどまれたことは、、、嬉しいよ。
静岡大好きだし、、、一生ここに住みたいよ、」
「父さんみたいに、、個人病院い勤務したから、、これからは、、
50歳からの人生は、、、余裕の時間が出来ると思うよ。
母さん、、、父さん、、、僕を医師にしてくれて、、感謝しているよ。
これからも、、社会に貢献できる医師で居られるように
一生、勉強するからね、、、」
電話は、、切れた。
なぜか肩に力がはいっていた、肩が凝った。
coronaには感染しないで、、勤務を続けているから、、大したものです。
社会の風評と、、高額所得という、、、収入金額だけで
維持費のかかる生き方をしないと、、、10年で、医学会からは置いて行かれるという
入っても、、出てゆくノルマの金額を税金はみてくれないから
収入だけにかかる税金は、、時間貧乏の医師の「お金で時間を買うという」
素の行動が、、、民間や税務感からは「贅沢に見えるのでしょうね。」
我が家も、、タクシーのおかげで、、勤務できている。
息子もタクシーのおかげで勤務できていた大学生活は
やっと卒業したが、、、目の前に50歳がみえるのだ。
「母さん、、人生100年時代だよ、、、急がないことだよ。」
「今、、僕に家族が居ても、、、守れないよ、、、」と
のんきかもしれない。
ダンナが初めて勤務したころの個人病院☞
80歳に向かって、、
最後の70歳代で、、、
しょんぼりしない様に
元気を送ると、、、
弟から、、、
今まで、、戴いたことのない花束が届いた。
誕生日の日は、、、
旦那は仕事で、帰宅できなかったが、、、
いつものことで、、誕生のお祝いなど、、期待することも無かった。
私も、、旦那の誕生日には、、
モノを、、プレゼントに買った覚えもないのですよね、、
職場のお仲間の思いやりの誕生祝で、、、主人は満足なので
とりわけて、、私も、息子達も、、
お父さんのお誕生日には、、
「お父さんは居ない日」だという感覚で過ごしてきた。
外科医という、、「患者さんの怪我や手術の時間」が、、
すべてのものを控えさせるという「優先権」が有った。
80を目の前に、、例年のように、、
、ダンナの居ない誕生日は
味気なくなるので
息子家庭の誰でも、、暇な人、、、
婆ちゃんと、、うどん食べに行こうと、、メールをしておいた。
夕方には、、息子夫婦が一緒に、夕食をしよううと、、、迎えに来た。
私の方で、
「 食べたいものがあったら、、外食しよううよ、、、
ママが、、おごるから、、、夏バテ乗り切ろう、、」と
誕生日に合流するのも、、良いかもしれない時期なので
還暦も、喜寿も、誕生日の日も、
ひたすら病院で過ごした旦那さんとは
夫婦というより、、、
「背中合わせの、、時間が過ぎた55年間」だった。
ダンナは仕事、、、、私は子育て家事雑用、、、
ひたすら、、、自分の領域の仕事を、、、真摯にやってのけるだけの日々が過ぎた。
アルバムには、忘年会や、病院イベントの集団写真ばかりで
「仕事が家庭」で有ったような、、、
「医者バカ」の、、、
医者しかしない、、旦那だった。
医者しかしないという、、、専門的な生き方は
周りのチームの医療スタッフと、、
夜なかで有ろうと、、
嵐であろうと
お正月であろうと
種々室には出てきてくれるスタッフと、チームの結束が条件となる。
暇な時間は「看護学校の講師として」
某臨床工学士集団への「人工心肺の指導者として」
医局の心臓外科チームが、アメリカ縦断の学術学会と親睦会を兼ねてゆくと言えば
2週間以上のアメリカ学会にチームの結束からはみ出さない為にも
メイョ~クリニックで知られているロテェスターから
ハーバード大学のボストンまで、、、学会に同行して
医局の学術団体の先生方との絆を大切に、、半月は家に帰らない、、、ダンナ!。
旅行費用も、、つま先立ちで用意して、、
ニュヨークでは外出しないで、、、スライド整理係を引き受けていたとか。
お土産は「メイドイン、、、ジャパン、、、とテロップのついたネッカチーフ!!」
写真は一杯とってきましたね、、、
あの頃は、、現像を頼むのですが、、、良い記念医なる写真が、
整理しながら、、並べるのが楽しかったですね。
ダンナさん自身は、、、普通の穏やかな、、、人に何でも譲ってしまう人ですが
お友達は、、秀才ばかりでしたね。
小樽商大の学長とか、、、
北大植物園の園長さんだとか、、、
東大の病理の先生とか、、、
ダンナさんだけが、、、普通にどこにでもいる、、、雇われ院長でしたね。
大學に、、アメリカ帰りの臨床経験の多い心臓外科医が日本に帰ってきたときも
日進月歩の医学は、新しいことを学んだ先生に執刀してもらおうということで
徹底して、病院に良いスタッフが働きやすいように
自分から、、、助手に廻って、、病院麻利益を優先するという
今でも、、永久名誉学会員んですが、、、
時とともに、、日進月歩の医学には、、、新しい技術を取得した先生に
全力で便宜を図り、、、人が敬遠する仕事に回ってしまうという、、、
院長さんも、、前院長さんの御指名を、、一度は断っても
北大が院長を続けないと、、、ピッツバーグとの交流は
日本とアメリカの国際交流も兼ねているから、、、
どんなに優秀な医科大であったとしても、、、地域の医大のすぐれた医師であっても
アメリカの大學は、、日本国の「国立大学の医師がいんちょう」という条件下に
「北海道のアメリカの医師は、、国の保護下に交流するという時代だったのだろうか?」
それとも、、国立大の医師が院長の方が
何か異変に遭遇したとき、、、
自国のVIPを守れるという事なのだろうか?
世界史5点しか取れない頭脳の私には
一斉の責任能力はないという立場を前提に
英語が、、ネィティヴ出ない旦那が
聴き間違いから起こる責任回避の為に
ノー天気に話せる奥様族を
通訳にして、、気やすい会話の交流をしている場合も
「ぜろ」ではないと思えるから、、、マチュピチュの話や
イグアスの瀧の話など、、、 南アメリカの自然の話に
冒険心が燃え上って、、、話さないことで名の知れたVIPの先生が
会合の中心の話してとして、、、面白い大自然の話を繰り広げてくれたのでした。
不得手な院内政治的な思考の無い旦那さんには、、、医師会から感謝状や、記念品 表彰状と
会長が変るたびに、、賞を戴いてくるという、、、 地域の医療杜の連携に
熱い熱意をもやし、、、ドクターヘリの導入に、札幌医大の先生方と
女性にはワカラナイですが、、、地域と国の仲立ちの努力を 分担して
日夜会議に出かけていましたね。
ドクターヘリが導入された時は
高橋知事さんや 警察官僚の方などと
ご苦労さん界のような事なのでしょうね、、、会合が続いて
家には居ない日が多かったですね。
TVを観ていたら、、、テープカットに、、ダンナさんも映っていて
万感の思いの顔で、、鋏を使っていましたね。
その後は、、外科医に戻って、、旭川医大の学長になられた先生の教えを受けて
腕をなかば切り落としかけた患者さんの血管縫合に成功したとか言って
栄えある院長の座などは、、、どうでもよさそうに、、、
その農民の腕が繋がった事の感激を、、話してやまない、、、
良い師匠に恵まれた、、、血管外科、。心臓外科の時代の
外科出身の医師らしく、、
子茶個茶と入り組んだ亀の甲を科学として、、、
化学の薬剤師のリケジョの私には
単純明快、、、医師としてのプライドだけは守り通して、
現役の医師を83歳の今日まで、、、
周りの協力という、、理解を得れたのは
名誉と栄光を負うタイプの医師ではなくて、、、
ひたすら、、病院への貢献できる事を喜びとして
資格があっても、、技術があっても、、、
人のあまり向いてこないすき間を埋め乍ら
病院全体の地域イリョとの連携に、、、
昭和生まれの医師は、、医者生命を感じていたのかもしれませんね。
最近はご夫婦とともに、、会食をと
お誘いを受けるのですが、、、参加したことは有りません。
お仕事の助っ人なら、、、万難を排して、、、
幼児のツッパリにでもなればと、、、参加しているのでございます。
北大の講師をしていたダンナさんに、、前院長が去る時に指名してゆきました。
悩んで悩んで、、一度は断ったダンナでしたが
あらゆる条件の便宜を図ってもらうことで、、院長を引き受けました。
そして、、全日本の臨床医や医療スタッフの、、一大イベントの
「クリニカルパス学会」の会長を務め、、全国から3000人以上の参加者があり
勤務先の病院の名は、、全国津々浦々からも、、、自宅にまで電話が入るほど
臨床医の優れた病院であることが、、知られて、、、
全国かあ集まってくれた3000人の先生や看護師さん、医療チームの技師さんに薬剤師、
K病院は名前が全国版いなるほど有名になりました。
研修医の若い先生が友どんどん来てくれるようになり
実質も名医が多い病院ではありましたが
世界の病院評価でも,、、10指に入ると、、、発表された雑誌を持って
医師会の先生ℬ方からも地域医療の提携の出来る病院として、、
未だにお付き合いの交流をしているのが、、嬉しいですね。
病院というのは、、、地域に貢献して、、貢献して、、、
それがダンナさんの目指す医師であった時代の、、昭和の生き残りですからね。
私的には、、、心臓外科医の永久名誉会員の賞状同様
家内の私は開業医のムス⒥目として育ち
一度は医師になろうと志しながらも
女性が務まるには、、、もっと骨太でなければ無理だったと
ひたむきに、、意志を続ける旦那さんには、、、
生涯、、意志をするという、、、心を
ストップ掛けれるのは、、、「年齢」だけだと思いますね。
サミットの時は、、、覆面の大樹病院として緊急患者さんを運んできたのを受けて
国際間の事なきを得た治療が出来て、、、
役目を終わった段階で、、、医大の助教授で有られた、、、ハンサムで
柔和で、、、見るからに院長さんらしい風貌の、、スマイリーな内科医と
速やかに、、院長を交代して、、、政治家てきな事の不得手なダンナさんは
「医師をすることが天職だと」 一医師としての道を選び、、坤為地にいたっています
大學時代の友人や、、、
小学校時代の同級生や、、、
もと、教授の同級生が
7人もいた、、ダンナの若い時代は、、
家庭以外のイベントが
ダンナの家族以上に、
、仕事相棒との会合の方が必要な時代があったりして
私が旦那と同席する時は、、、
ご夫婦で旦那の勤務病院を
訪問してくれた先生が、
ご家族を連れて見えられた時に
先生方だけで、
仕事のお話が進むように、、
主催者の配慮の為の
アルバイト接待役で、、、航空案内おばさん役で
はるばるの病院訪問の礼儀として、
ヒコーキに乗船するまでの、安全確認の為の報告をt飲まれたりした。
ダイナース特別待合室で、、
無事のお帰りの
見守り隊として、、、
ダンナから家族会員のカードと、、、
日当を戴いて
患者さんの予約で、仕事が積んで
見送れない旦那に
時間を提供するという
病院の外野として、、、活動するぐらいでした。
旦那からいただいたボケットマネーは、、
旦那の自腹で、、、
病院から出ているわけではない。
緊張と、スマイルと、自腹で買った「ゆうからおり」の小物セットを
お嬢さんなどお連れになった先生のお見送りに
訪問者と仲良くなり、、しばらく、、何年も、航空便が届いていました。
楽しかった会食などの感謝をこめて、、
先生方の惜別の情を上手く伝えられるかという
ご家族の日本訪問の安全の為の仕事に徹するという
旦那の雇われ同様の
舞台裏の役に全力の日々でしたね。
病院は 個人の猫の手のお手伝い出逢うから
認識できるようなお手伝いではありませんが、、、
何回も来ている先生なのに、、何も話さなくて、、、というので
お引き受けしたのですが、、、、
先生ではない、、、先生の奥さんという、、
緊張しないでよい相手だと認識された仁尾でしょうね
お話が尽きないほど、、話されて、、、話されて、、、何年も一緒だったというのに
先生方には無口だったと言って、、、楽しかったと、、、
握手を何回もしながら、、先生の奥さんも
こんなにしゃべったハズバンドを見たのは、、初めてだと
私には、、ハグをしてくれました。
この先生ご家族はアメリカ人でしたが
もう、、、何十年も前のことですが、、、
日本はパンダで,フィ-バーしているときでした。
中国の有名な外科医の先生が、、
老年の奥様といらしたとき
先生方の医学的な会議が終了した後
丸一日、、、ご夫婦含め
3人の中国の外科医のご家族を、
札幌市内案内にと、依頼されて、、、
一に安全、、、2に安全、、、3、4、、、が無くて「5」に安全と
緊張の中で,、、
道庁を案内した後、
知事公館とか
北大病院とか、、、
普段から護衛が居て
救急事態に受けの体制の有る所ばかり
責任の重さに、、、作り笑いが
痙攣するのではと、、思うほど、、、自然を装っても
冷や汗の連続でした。
たった一人で、、中国の外科医のVIPご夫婦の札幌案内を引き受けるなんて
若気の物怖じを知らない時代の、、、私だったことを
歳とってから、、冷や汗が出る思いで、、
相手が、、大人物だったから、、、若い未熟な案内人の
能力内の注文しかしなかったのだと気が付きましたね。
中国では有名な外科医の先生でしたね。
その後、、その先生の一人が、、病院長になられた頃
漢方薬や、
薬史博物館長や
東京薬科大の教授の先生らとなどと
中国を訪ねて、、、
4大中医学院を回る時に
ホテルまで訪ねてくださり、、、
博物館長ご夫妻を交えて
人の輪が、、国際親善に役立ったのではないかと、、、
拡大解釈したくなるような、、、
歓迎の日々でしたね。
光栄な旅の想い、
何でも引き受けてみると、、、
国際親善の小さなスケールも
楽しいものだと思ったりしました。
その後中国には行く機会もなく、、
80を迎えようとしていていますが
旦那さんの時間貧乏が、、、
私の仕事になってしまいましたが
その結果、、、中国に行ったときには、、、
能くしていただき
同行した先生方の中には、
ポテンシャル的に釣り合う人もいらして
一主婦の、無料奉仕のような、、、
「旦那の時間をやりくりできないというだけの都合で」
依頼で、、家族を札幌案内したことが
80を目の前にすると、、、当時の緊張感は忘れて
御老体の御婦人に付き添ったことを感謝された意味が
この、、歳になって、、初めて、、、若い私が付き添ったことが
老人には、ココロ強い、、ベストの接待だったと
何十年も過ぎてから、、、、年寄りの海外旅行には
男でも女でもいいから、、、案内人を着ける事が
素晴らしい、、おもてなしにもなるし、、用心棒にもなるのだと
この頃になって、、、しみじみ、、、若き日のダンナは、
人の接待の企画が優れていたことに、、、今頃気が付くのですよね、、、
料理も、、人さばきも、、、若いころのダンナには、、
手時かな、、安くて済みそうな食材も、、人材も、、、
目についたものが、、奥サンであっても
「そんなあなた、、、むつかしすぎること頼まないでよ」と言って断っても
頼んでしまうという、、、大胆な冒険を気やすく頼む人でしたね。
若さ独特の鈍感力で、、、
80過ぎるまで、、、引退するかな?
すると言いながらも
「 検診をするという、、認可された資格試験に合格するから
毎年検診に現れるという婆ちゃんになった患者さんが
先生居なかったから、、、また来ます」
と言って、検診受けないで来たというのです。
「札幌市からの依頼の検診」は地域貢献であるからと
主人は、名誉とか、、権力には縁のない人なので
外科医の現役の頃は
乳房温存の手術も経験しているので、
マンモグラフィの映像から、、、
がん細胞の🈐ごたえまでわかる子tが多かったと言っていました。
術後何十年も生を守られているという婆ちゃんが
ことしで27回目の検診だと言っていました。
「マンモグラグの診断の本」は
かって、、検診研究では追従を許さなかった
「市川平三郎先生の、国立がんセンターの 乳がんのチームとの本を勉強して
資格試験の合格したのが始まりでした。
かって、、市川先生の教えのもとに
がん検診研究のセンター長だった 弟の、森山先生が
ピットホールの本などを出版したとき
叔父さんを尊敬して「放射線科に我が息子は、、、」
「叔父さんの実力は、、神の域だ,、、よ、、、」
息子は、、一生かかても、、
叔父さんの域には、、行きたいとは思いながらも、、、
伯父さんは天才だという、、、」
私の旦那さんと叔父さんは、、若き日には、、行き来していた義兄弟です。
伯父さんが学会の時、、ホテルをとってあったのに、、、
連れてきた先生と、、朝まで話が弾み、、、
寝ないまま、、、
朝になって僕らを自転車で、水源地公園まで連れて行ってくれて
ママチャリに乘った叔父さんのお友達を
チビッ子の自転車で追いかけたんだよね、、、。
小学生の兄ちゃんの自転車での追跡は、、
小学生らしくてOKだが
幼稚園生のチビッ子の次男君は、、、
「根性アルネ!!」
「お母さん、、この子は医者になるでしょうね。」と、、予言して帰られました。
その若き弟の友人は九州の方の大學の教授になられて
我が家の旦那さんとも、、生涯、、学会などで、、お逢いする御縁が続きました。
次男はその先生が幼稚園の時に予言したように、、放射線科の医師となりました。
本州に出ていったきり、、、20年以上たちました。
男たちの御縁というのは、、、
家庭婦人の母親の私は置き去りの
外野の野草同様ですが
先生方は、、、
ちっとも仲間外れにしないで、、、あたかも仲間の延長のように
如才なく、、冗談もおっしゃられて、、、話されているうちに、、、
ほのぼのと、、、緊張しないのは、、
同じ仕事の先生方の集まりだからでしょうね
ダンナからは妻にあたるはずの私の誕生日には
掌に入る花束を、、、(500円ぐらい)充分だろうと思えるらしいのですが
結婚当時から、、苦学生だった旦那さんが、、、家内にこのを買ってくるなんて
晴天の霹靂でしたから、、、嬉しかったですね。
大好きな女性に失恋した勢いで、、、「もう、、誰でもいいや、、」
30歳になる前に結婚して、、片思いの彼女への想いを絶ちたかったという
自分の都合だけで、、、「結婚しよう、、、」と
私が逃げ場になったという、、、結婚後の真摯な貧乏ぶりが
私には、、この先生の、、医師をしようという、、、執念にも似た志を
舞台裏から支える仕事で、、間接的に、、社会に貢献できるかもしれないと、、、
男尊女卑の昭和を生きる、、、婆ちゃんは、、、
後方の憂いのない、、意志をすることの舞台裏を、、仕事にしようと
貧乏くじであるに違いないが、、、やりがいがあるのではと、、、
北海道に住みながら、、、ひたすら雪を掻きつづけた55年間でしたね。
ダンさんのせいいぱいの好意である、、、50円の花ポットには
「ありがとうで、、」済ませるのですが、、、嬉しいものですよね。
弟からの花束は、、、こんな田舎っぺの姉が受け取っても良いのかと思うほどの
華やかな花束です。 びっくりしました。
スッカリ道産子の母ちゃんとして、、、鎮座していた婆ちゃんは、、
母のピアノリサイタルの演奏会の日に、、
若さにかまけて、、思い切り華やかな、、
舞台の飾り花を創った日のことを思い出しました。
若い日に、、婆ちゃんは、、、生け花の師範をしていて
デパートの華展覧会などにも、、、
小品を出していた若き日の、、無鉄砲な散財にも無頓着で
花を勉強していた頃を麻観だしました。
私はかっては、、、開業医の、、世間知らずの、、、娘だったのかもしれない」
素晴らしい花だと思いつつも、、、
髙かったろうな~~~~って、、
申し訳ない気持ちと複雑で開いたね。
来年は80歳ですから、、、もう、、、
いつまで生きているかもわからない歳になりながら
人生の最期の花束として、、感謝で、、、日記帳に、、、記録しておきます。
我が家は、、、病院を通して、、、貢献したいという、、臨床医の医者バカで
奥さんを振り返ってくれるような暇は無かった人ですが
外ズラが良くて、、、我が家の停まって下さった先生方には
朝まで、、喜んで話し込むという、、、ジャンルの違う先生方の話に融け込んで
奥さんも家族の子供たちも、、一緒になって、、、
朝の貧しい「塩おにぎりを喜んでくださり、、、」
人生の最終幕の始まりに、、こんなに素敵な花束を下さり、、、
若き日の、、、未だ、、がんセンターの廊下で寝起きしながら
早期がんの発見に集中していた学者の先生方の
きらきらした、、、一途な瞳を思い出しながら
多くの花束をつくって、、、御お送り着たこてゃ有っても
こんな花束を受け取ったのは、、、人生で初めてでした。
80代は、心して、、生きて行こうと思います。
弟よ、、、どんなことが有っても、、、姉よりは、、、長生きしてください
君が戦後の日本緒復活期を、、生き生きと生きていたから、、、
一人ぼっちの北海道で、、
「医師をする旦那の舞台裏なら、、仕事として引き受けようと、、大真面目で
主婦の雑用に人生を過ごしてきた55年間でしたね。」
男社会の日本では、、、女がサカシク動けば、、
本命の男がダメになるという
社会構造であることが大部分な昭和の私たちは
人生の最期の花束で、、、この生き方で、、良かったのだと、、、
ホッとした瞬間でした。
」」
これは社会音痴の 家内が思う勝手な思い込みの日記です、旦那さんは、読んだら、、きっと、、、
バカ丸出しの、、、外野の眼だと、、、怒る気もしないでしょうね、、、
男の世界、、、大会社と同じ組織の社会人は、、、女の近視眼的見解は、、、笑うだけだろうと、、、
いつもの、、腹も立たない、、昼ドラマ作家になれるよという
別の社会の男たちの世界が、、、大病院麻医師の世界かもしれません。
一人ぼっちで洗濯おばさん、、、雪掻きおばさんを勤めあげた、、私も、、、
日記帳ぐらいには、、、我が見解を書いても良いだろうと、、、結局はデタラメ古期かもしれませんが
高度すぎて理解できない医師のダンナの集団に、、、
外野の見解を残しておきたかったという、、
自己満足の日記になりました。
真面目に読むな~~~、、これはかってなおばさんの日記の
昼ドラかもしれないから、、、根。
病院とか医者の世界は深すぎて、、、そこは見えない、、
深野淵です、、、
NHKのシャチの家族の方が、、、賢いかも、、、
m(^^)m 花のプレゼントに、、、
一瞬、、我も、、社会人かもと、、、自惚れついでに
うれしさの感動が、、ばねになってこんなに長い日記を掛けたことに
弟よ、、、
ありがとう、、、
感謝で、、ぼうぼうと燃えた炎が、、
こんなに長い、、、日記をかかせつぃマッチョ!!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます