花鳥風月、、2023年からの第二の日記

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富士山の世界のTVから現実の居間

2022年08月18日 | 日記
土砂降り続きの

    北海道、、、

      家事 ザツジだけが、、、てんこ盛り、、、

黙々と、時間だけが飛ぶ

土砂降りのさなか
枝や木の収集の日が、、、本日です。

早朝から束の間の、、、雨も疲れて一休み
草は沼地の植物のごとく
他愛もなく抜けてくる

ボルネオの雨林並みに
  巨大になったアジサイが
    侵略戦争を、、はじめた枝有り

80×90のゴミ袋4個、、、
トランクを運ぶキャリアーで、、運んだ

早朝から、、お風呂に飛び込んで

全部洗濯

頑張ることは
  年齢の、、、筋肉退化のくい止めにもなる
  お腹もすくし、、喉も乾く

好きなイギリスパンが2枚、、、
   のこっちる !!(^^

昨日のシチュウも
  1カップ保存してある

牛乳を入れて、、、
温めて、、、と!
アクエリアスも食後  、、、追加!!

Ⅰ本だけ90円で買ってきておいた、、、
北海道のトウモロコシ

今年は130円もしていたから、、、買わずに頑張っていたら
昨日かラ、、、90円だ!!!
 チャンスだ、、1本、、、私の分だけ買った。

主人は入れ歯だから、、、トウキビは進めない。

一人の世界を楽しめる。

北海道のとうきびは、、、トウモロコシの事!!

本州に居た時は
、、、和歌山でも、、京都でも
東京の下町でも、、、

トウモロコシは、、、
   食べなかった。

じゃが芋も、、、
カボチャも

私的には、、、食べたことが無かった。
なんと言われようと

食べる気にならなかった。

北海道に来てから
子育てしていた時に

国際スキー場に向かうとき

中山峠で車を降りて一休み!!

悪がき時代の息子達が
じゃが芋の串刺しを買ってほしいという。
雪の峠で、、歩きながら景色を見ながら
  串に刺したじゃが芋を、、、かじる!

ママも食べろと言う!!
イラナイ、、、
ママはじゃが芋は食べない、、、と言ったら

「こんなに美味いもん食べないなんて
    いいから食べてみろ!!」

かなり、、強引に言われて、、
じゃが芋バターの
串団子風なのを、、、
1こ、、、だけ、、、、、食べた。

  美味い!、、これって?、、じゃが芋?

これは、、、じゃが芋なの??
  本当に???、、、
     じゃが芋よね、、、!!

    美味い! 之って、、、
大自然からの、、、贈り物の味!!

それ以来、、我が家では、
  じゃが芋は、、、本州の兄妹たちにまで

「箱ごと送る、、、北海道人」になった。

弟が若い時に、、
まだ無給時代の、、貧困生活の頃、、
(国立がんセンター勉強に通っていた時)

CTの開発に取り組んでいたお仲間と
 廊下で夜明かしする日々
      、、、だったそうです。

   家にも、、、
    何日も帰宅しないで
    仕事に取っ組んでいるとき

  「お姉ちゃんの送って来たじゃが芋を

    いくつか、、持って行き

    レンジでチーンして
 疲れ切って
 夕食にも行く気がしなかったとき
 食べた時、、、

  美味い!!、、って思ったよ。

今や積年の仕事が評価されて
  数々の賞を戴けた弟も、、、
駆け出しの頃は、、、

北海道からのじゃが芋を、、、
美味しい夕食代わりに頬張り乍ら

CTの開発に、
廊下で寝泊まりする時期が有ったんですよね。


息子が浪人して、
東京の私大の医学部に通う頃に
弟を訪ねると

築地のがんセンターに
一部屋、、もらえて、

端から端まで
依頼されたCTの読影フィルムで結界のような壁が出来ていた。

 浪人して私立医大に通っていた息子は
  教科書に、、叔父さんの本を使ったよ、、、と

    甥っ子と叔父さんの

     放射線医学を通しての対面だった時
「北海道のじゃが芋、、送ってくれてありがとう、、」

  レンジでチーンして、おやつ代わりに
家族は皆喜んで食べているよ、、、」

いくつになっても、、、どんなに社会的な位置が
姉の私と段差が出来ても、、、

弟は、、弟として、、姉としての屈託ない変わらない性格です。

お互いに、、医学部の、、駆け出しの頃の
  想像を絶する激務と、、貧困と時間貧乏を
   共有して、、、世間の風評とは
     360度、、一回転して、、、医師になるよりも
  医師を続けることの大変さは
   家族ごと、、、
孤独な精進を前提とする道を選んだからかもしれない。

弟には、、素晴らしい出会いが有り、、、
国立がんセンターの、、
  千葉大の大先輩の
    市川平三郎先生と出会い、、

当時としては画期的な、、、
二重造影の放射線の画像が、、、
  回転する機械によって実現されて

   「がん」の早期発見の

鏑矢的な評価を得ていた時代だった。

その、、「二重造影」の

エックス線の機械は

開業医だった我が家にも導入されて
  鉛の部屋に収まっていた。

手遅れの「がんの手術の多い時代」から

  「がん」はかなり早期に発見されて

    開業していた我が家にも
      患者さんは殺到していた時代だった。

やがて、、

弟が千葉大を卒業して
千葉大の外科の医局に入って
しばらくたった時

  大先輩の
「市川平三郎先生」との出会いが有った。

はじめは、、
   無給で、、
     市川先生の技術を研修するつもりで

蓄えが、、、今月分で終わりになるというぎりぎりで

 感謝して、千葉大に帰ろうかと、、
  ご挨拶をするつもりが

   
「スタッフとして、がんセンターに勤務医として来ないか?」と、、、
  お声をかけてくださったそうです。

人生で「出会いが有ったのですね!!」
   

弟は幼いころから、
、、、父と
  碁盤に向き合っていたので
  、、、碁が強い、」

研修の時代に、、
市川先生に碁を誘われて
何度かお相手させてもらっているうち

  先生は、、
碁の相手が居なくなるのが、、
さみしかったのかもしれませんね。

       (^^!

弟の腕前は9目置いても、、
   歯が立たなかったのを
     記憶しています。

シチョウになって、、、
碁盤が「くうどう」になる

 笑えない碁を、、、子供の頃にうっていたのを

   思い出します。

市川先生との出逢いは、、、
   本人しかわかりませんが

「姉が思う」には

 「 弟のキャラクター」は

豪快と繊細が市松模様で
  誰でも、、
友達に選んでくれるでしょうね。

母親が、明治生まれなのに
刈上げのヘヤスタイルで
  ブーツで自転車に乗り

   「ハンチングの鳥打帽子」にも似たような

     「イギリス格子の、、お帽子」をかぶり

       テニスに夢中で

        「モダンガール」に見える写真が残っているだけに

 音楽大学で、、、
   著名な先生らと

  日本に入って来たばかりの
   「このゑさん」が持ってきた   
     ベートベンの
       ムーンライトを
        グランドピアノで演奏して

  音大の仲間たちと
    オペラの舞台を演じながら
      出来たばかりの
       鉄道の料金はタダで移動しながら

     舞台を努めたという、、、
       明治生まれの両親としては


    「 ハイカラさん」だったと思いますよね。

このような母親が、戦争に巻き込まれ

   「 筆舌に耐えられない苦労」を重ね、、、

      戦地から引き揚げた
     現役の医師と
   和歌山も、、山深い,、

 疎開地の村の医療施設の医師として
            迎えられることで

焼夷弾で焼き尽くされた東京の実家から
第二の人生をはじめることが出来た幸運と不遇の
  激動の人生行路の途中

    終戦となり、、、
     涙で地に伏した後は

      精神も落ち着き
        疎開中の村にも貢献できて

   村の人たちから頼りにされて、
今でも、父の治療を受けたという知人からは
一方的な、、定期便に近い電話が入る。

「先生は、、、神様だった、、、!」

  戦後の傷痍軍人の家族や
手術で片足を失くした少年のご両親や
いっそ子供を殺してくれ!!と
攪乱する親を隔離したり。

その後少年は
リハビリも担当した父と
歩行訓練をして
父自ら手塩にかけた、
   義足の設計で

父は全力で
  その家族の
  立ち直りに格闘していた。

青年になった彼は、、、

  理容師になりました。
 
足を失くした事故の段階で
ショックで、、気を失っている
  、、、我が子のを抱いて

「いっそ、、殺してくれ!、、」と
両親は、待合室で
泣き叫んでいた、、、。

疎開先の手術場は
ガラス戸で仕切られいて
質素な棚が天井から何段か有るが
床がコンクリーで出来ていた。
手術場として、
  設計されて
    衛生的な現代の手術場とは
       程遠い、、、
空間ばかりがやたらと目立った。

私は、、知っていた少年だったことも有り
ガラスに顔を押し当てて
少年の、、足を見ていた。

形のない肉塊の先に
   親指だけが、、、それとわかる膝から下は

大腿の所で止血のさらしが
すりこ木のような丸い棒で止められていたような記憶がある。

清瀧刀を、逆さまにしたような
重そうなのこぎりで
膝から切り落とされて
  一部分の肉が

    ラケットのように,、、丸く、、残されていた。
父は 全身を消毒した少年の足の切り口に
ラケットのような,、切り残した足のフィフを
ラジオペンチに似た鋏のようなもので

曲がった弓のような金属製の針で
足の切り口を蓋をするように
縫って行った。

まるで、、卓球場だったのかと???
間違うような、疎開地の村の手術場で

このような、、
少年の復活のオペを
そとから覗き、、、
成功を祈っていた、、、幼い私でした。

少年は弟の知人でもあり
顔見知りだったせいか

ご両親が、、
事故で血まみれの我が子が
気絶している様な待合室で

大声で泣きながら
「殺して~~~!!
   いっそ殺して、、、楽にして~~!!」

わめいた、、

少年が完治して
両親は浅はかさを悔いて

子供からも、、、
頭の上がらなくなった事が
しばらく、
疎開の村の話題でした。

      *******************

手術で完治させた
足の義足を設計しながら

「親が取り乱されては、、、のう~~」

苦笑いを誘うのでした。

≪今でも、、母さん❕!≫
「僕を殺してほしいかい?」

冗談を言うほど、、母は
土げさして、、、ごめんなさい!!を
ギャグって見せるほどまで、、

心身共に、、人生の歩みを取り返した。

この実話は
小学6年生の、、
「清美ちゃん」と呼ばれていた少女によって
和歌山県下、、弁論大会で
優勝カップを、その少年の学校にもたらした。

父に言わせると
「病気そのものだけを診るよりは
  環境、、患者さんの取り巻く全体を含めた
 〖病人〗を観るという事は
彼が義足で運動会に出て、かけっこに於いて
びりではあったが
万雷の拍手と歓声でゴールした瞬間

ご両親は、、地に伏して
先生、、、先生、、、と
言葉にならない涙で
顔がぐしゃぐしゃになっていたのを、、、見ていた、、私は

この光景を忘れることはできないのです。
戦争から、、生き残って帰国した父の

戦死した人々への、ご供養になると、思いました。

兄弟3人、戦地に幼い命を失った戦争からの帰還でしたが
失った命を
1人、、、取り戻したような気がしました。

その時、和歌山県下に行置いての弁論大会で
この少年が学校に復帰するまでを発表して
優勝カップを、、疎開地の小学校にもたらした
幼かった少女Kは
80歳になろうとしている今も
父の事を思い出すと、、、電話が入るのを
相槌だけで、、父の代わりに応答するという

私は、、周りが、、輝く中で

案山子のように、、、
思い出に泊まりたい人は
頭の上でも、、、肩の上でも

泊まっていただき、
今は無き父への語り掛けを
 聞き役に徹しているのですが、、、

医師の姿の「原点のような,、使命?」
幼いころに、、、見ちゃったという事が、、、

 医療には、、、頭が下がる、、、何かが有るのですよね。
その後も、、、
   ダム開発が有ったりして、、
    怪我人や,、
  事故で、顔面の骸骨の見えた人など
   診療所に運ばれてきて

  何か月後には
創さえワカラナイような完治した顔を見て
父に聞きました。

父は、、、顔面なので縫うのは要所要所だけにして
テープを使って
創口を合わせ
完治したときには、、
、良く観ないと見えない線だけが、、残るように

治った後の精神状態を考えて、手術したと言っていました。

疎開地では、、、
父が、、戦争から生きて帰って事を

戦場まで迎えに来た祖父が
「命がけの連絡船への先導が、
   今も思い出されると、、、」
終戦が近づいてきた日本への帰国命令を
戦場まで伝えに行って、そのまま
娘夫婦の家族を
最後の連絡船に乗船させたときの思いは
言葉にはできないと、、、晩年話してくれました。

戦争は、、、多くの人々を、、
貧乏に突き落としましたが、、
耀く命が、、神に守られて、、、
地獄から這い登ってくる時

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を学校の図書館で読みました。

自分だけ助かろうなんて、、、
日本人には、、、そんな人はいないはずです。

終戦後、、、団塊の世代を中心に
世界に追いつき、、世界の一員にと
日本を立てなおした世代は

   もうすぐ、、、役目を果たし、、、人生は過ぎていった後、、

平和ボケした、、、頭では戦えない、、、未来がやってくる。

どうか、、孫子の時代にも、、
頑張って、日本を支える若者が

二度と、、核戦争のない世界に向かう事を
祈りながら、、、

宇宙戦艦祈る日を待っている、、、78歳になった

   子供しか育てなかった、、、婆ちゃんです。




精神のケアを兼ねて
 診療所の二階を開放して
現代で言えば、、「文化教室?」のような
戦争から立ち直る、、
趣味の集いの芸事や
音楽の集会をはじめていました。

だの村の診療所の隣り合わせの自宅にも
  ひっきりなしに、、、村の人が来ており
    すっかり村に融け込んでいた頃、、、

 戦争を知らない世代!!
  やがて「団塊の世代」と言われて
   戦後の疲弊した日本を
     不屈の精神と、日本人特有の持久力と
       一本筋の通った、、
日本の為に全力で復活を願う年代の
  ありえあない働き方を持続する年代の
    男の子が、、、
我が家にも生まれたのでした。

 原子爆弾が二発も落ちて
   悪魔のキノコ雲の写真が出回り
     沖縄には基地が出来
       日本国の中のアメリカと言われた時代に

 もう一度、、、日本を取り戻す!!
 戦争をしらない男の子たちが、、、
    昭和23年過ぎから26年ぐらいの間に

      疎開地にも出産が続きました。

   小学校は、、、
    クラスが9組ぐらいまでの、、、
      大所帯の、、、戦争を知らない、、、頼もしい子ら!
村中あげて、、未来への希望の炎に
  活気づいてきた昭和23年から、、、30年ぐらいまでの

   日本が立ち上がる、、、きっかけは
     団塊の世代の、、大人数の出産ラッシュでした。

弟も、、、多くの団塊の世代の男たちのように
  死と隣り合わせだった「がん」という
    不治の病を、、、

 with 「がん」、、、「がん」を持ったまま勤務
  早期発見の、、、CT画像の面で

    多くの優秀な人材が
      仕事を続けられるような時代になった基礎の

   一番つらい時代を背負えたことが、、、
   弟が、、此の世に生を得たことを
   親に向かっても「ありがとう、、、お父さん、、お母さん!」

がんセンター50年志の編纂に備えてかどうか、、、
 そのころ、私は、、弟の患者として

   北海道から、検診に行きました。
実に、、、赤ちゃんの頭ほどの卵巣腫瘍を
弟の机の前に座った段階で
「今すぐ、、北海道に帰り、、義兄の置勤めている病院で
   切除しなさい!!
    こんなになるまで、、ほっておくなんて、、、
     お姉ちゃんは医師の妻としては落第生だ!!」

あきれられてしまった。

  半年以上前から
    主人に、「お腹にしこりが有るんよね」

 何回も言ったのですが、、
「僕は家族には、、医師としてはお断りだから
   自分の信じる医師にかかって、検査しなさい。」

  徹底した所が有りました。

循環器の外科医だし、、診断の部門ではないし
  検査検診の部門でもないから、、、
     他科には、、口出ししない主義だという。

確かに、、、思い出すと、、主人の徹底した
   家族には「医師ではありません」モードは
    結婚当初からである。

流産したときも、、、ついてこなかった。
出産したときも、、、居なかった。
風疹に罹ったときに40度の熱が出た時も

  友人の開業医の住所と電話何号をメモして
  2日間も当直だった。

子供を2人抱えての40度は
  関節がガタガタになっていて、、、
    下の子のミルクを沸かすだけでも
      眩暈がした。

 引っ越したばかりの長屋暮らしだたが
親しい人もいないし
  長男が4歳で、「パンを買ってきなさい。」
   近所の生協でパンをいっぱい買ってきてくれて
     助かった事が有った。

私が盲腸炎にかかったとき
  主人の単身赴任と重なった。

入院は4日で切り上げて、、、自宅で抜糸してくれたものの
  そのまま単身赴任して
     特急で出かけても4時間はかかる所に赴任していった。

抜糸したばかりの腹を、、
  がーぜとバンソコウで
    しっかりと、、自分で創交換をしながら
      50このダンボールに
   主人のものを入れて
  単身赴任先に、、送ったのでした。

主人が大学時代に知り合っていた医療機械の会社が
  法律が変って、、、

「薬剤師の指導が居る時代」になったという事で

主人が頼まれていた会社に正職員として入り

子育てしながら、、、友人も、親類も居ない札幌で
  会社に、
新しい国家免許の数々を申請しながら
  医家に育ったスキルが役に立ち
   6時に仕事が終わっても
     薬事法の医療機械の法的なことについてのゼミを
      セールス担当の社員に抗議するという毎日が続き

主人が単身赴任先を止めて、、、
個人出発するまでの
   家庭に拘束されない束の間が

私は家庭から解放されて
 「会社員の正職員」に没頭していたのでした。

  普通の薬剤師の半額以下の月給でしたが

    他の社員はもっと安く、、、
    もっと長時間
     会社で頑張っているのを見て

    薬事法には
「医療機械は血液製剤などとセットのもの」
   「一般の会社では流通できない実験用の薬品が流通するので」
 「自記温度計のついた冷蔵庫」を請求して
  棚に番号を付けて、、、
   ナンバーで商品管理をすることから
   でたばかりの、、、
 「 VM21のパソコン」を、、、

実に、、、自費で
   60万円で購入するところから始まりました。
「年収の三分の一」でした。
フロッピーは 
葉書の半分以上は有りそうな
バカでっかい、、
何メガという、、、

   バカチョンレベルでしたが

  残業してバックアップをとるしか仕方のない時代でした。

深夜まで、、、バタンバタンと音のする

VM21のバカでっかい
フロッピーに  バックアップを取るという
医療機械セールス界の
   制度替わりの時代に
     夜昼、、無理を知っての注文に
      手術に間に合うように
      医療機械を届けてくれた感謝が有るから

  薬剤師が見つからないという時代でもあり

主人が受けた即時速達の便宜を図り
 患者さんお手術の影の助っ人であった当時の会社の
  担当者の頼まれたの、、、感謝もあっての勤務を
  引き受けた麻でした。

40歳になったころでしたね、、、思い出は
走馬灯のように、、、浮かんでは消えて
人生のランタンは回りながら光ります。

弁当3食,、、
ケルビネータ~、という
バカでっかい冷蔵庫に
男の子は二人、、、
かってに食べれるもので満タンにして

会社で、、今できることに全力投球しました。

 たった2年足らずで、、、、主人は

単身赴任先の国立病院の医長色を退いて

出来たばかりの、、、未来基幹病院へ
教授の指示のもとに、、札幌の返ってきたのでした。

会社を辞めるとき、、、
使っていたパソコンを理事が抱えて
  自宅にもって来てくれました。

「先生が帰ってきてしまった以上
   残念ですが、、ひき止めるわけにもいきませんので
     寂しくなりますが、、、おかげで
       数々の国家免許の申請が出来まして
         新しい制度の、医療機械のセールスの会社として
    保健所の指導に即ぢた営業が出来ることtなりました。

制度替わりであった事が、
短期間ではありましたが、、、社員い一部の女性は
涙を流して、、、
「残念です、、、女性の働く姿に
  自分たちも、頑張れていただけに、、、
     専門職を持った女性って、、、強いんだと
        女性感が変わりました。」

止めてからも、、、社員がお手紙を下さって
   働くことは、、、
息子達の為にも
主人の為にも、、、
  女性という「役に立つ便利な主婦が家にいることで
        助けられていることに、、気が付いてくれてだけでも、、
      お母さんに言えば、、仕事が終わったようなもんだ、、、」と

依存心200パーセント家庭が
単身赴任から帰ってからは
ザツジ万端依存心は、、、150パーセント黒胃に減ったかもしれませんね。

いずれにしても、、、開業の先生のように
人として、
万能的に多才な天分に欠けている
我が家の男どもには
  「母ちゃん」という、、、
万事引受人

   妻でも奥さんでもない、、、

超便利な仕事人の女手に
家を守ってもらっているという

後方に憂いなしの、、、寝るだけに帰る家!

条件があってこそ、、、

大學で、50万位満たない月給で
30個近い学会に所属して
大學行事に参加して、
自己研鑽して

人様の「心臓なんぞに、、、メスを入れるという、、、」

普通の人間が考えないような事をする
≪循環器の外科医≫が

「医師をすること」の難しい条件を突破できるんだと

舞台裏は、、、てんてこ舞いしながら、、、

神は「その者にできない事を命じるわけは無い!」
その一言を信じて
明日のことは心配しないようにして
「今日!、、しなければならないことを実行する」

3時間寝れば、、、
昼間に2時間居眠れば
  何とか、、、「やって来れました。」

憂きことの、、、なおこの上に積もれカシ
  限りある身の、、、力試さん、、、」

  弁慶が義経を守って
     雑事の矢の的になって、、、
         ハリネズミのようになって
           日本の女性は、、、
    旦那が生きてる限り
      走り回るのが、、、
        仕事のようですね。

優雅に浮いているのが、、白鳥、、、
   観光客を見とれさせるのも白鳥、、、
     日本の男は、、、白鳥、、、

   

   日本の母ちゃんは、、、???
      たぶん、、、白鳥の足が水の中で
        水車のように、、、水をかいているのが
     

    観光客には気付かれないで
   絵になっているのは、、、父ちゃんですよね。



日本の母ちゃんは、、、世界でも
   下から数えた方が良いというほど

     社会で働く女性は一握りだそうですね。
     

   主人の名言は

   社会が悪いのでもない、、、
女性自身が能無しなのではありません
まして、、、
  旦那は悪くありません、、、

 お前さんが、、、生れてくる時
  お母さんの子宮の中に
    大切なものを持ってこないで、、
       置き忘れてきたという

   男が持っているのに、、、
      足りないものがあるという人間は
 社会では、、「重さが違うんでしょうね、、、」


残ね~~んでしたね、、、

デモね、、子育てすることで
  孫子を合わせて、、、
  置き忘れたものが、、、5個になって増えてきたから

 忙しかった分は
   神様が、孫子の身体を借りて
     私という、、、働き蜂の孤独を喰って

世間にとびたたせてくれるのですから、、、
      

玉厨子の厨子の、、、
「虎の子」に
   我が身を喰わせよ、、、という教えは

  女性は家庭に入り
    母になり、、、妻を勤めるという事が

   仏様の教えかもしれませんね。

やたら忙しくって
  母にも、兄弟にも、、友にも師にも
      会えなかった人生でしたが

ひたすら自分をかわいがることが
    世の為に働ける男として
 自分の存在価値が出ると、。。。


      

女性から見ると、、
   都合よすぎる理論は

もしかしたら、、、
    操縦しているのは

神様かもしれないと
   思えるときが有るのは

実は、、女性は
男なんて、、、

皆女性が生んだんだから、、、
    

  初めに、、、相手にしていない、、、
   なにかが、、、あって、、

腹を立てるのも…
ばかばかしいという

初期設定が有るのは
  確かです。


男とはまともに、、言いあう気がしません。

     

理由は解りませんが、、、

    真似のできないほど、、、
       我が道を突っ走る、、、 

      
         女性とは異なった
      闘争民族のような気がしています。

      

疲れたから、、、バカな持論だと、、、
笑って、、読み流してくださいね
     
   


これから、、、食事の材料の、、、まとめ買いに行ってきます。






君子欄が、、今年も咲いてくれました。

    

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