花鳥風月、、2023年からの第二の日記

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人生いろいろ、、だけど、、

2022年05月19日 | 日記
平成時代まで、、、
日本は平和ボケしていたかもしれませんね、、、

       

coronaのような、、、
    パンデミック、、感染症の
      大暴れするご時世が来るなんて

         考えもしなかった、、、
           

TVでの「暴飲暴食」の画面に
  麦飯と梅干の弁当に、
    、、のりが入って
        鰹節が入っていたら、、
          うれしく食べた昭和25年前後、、、

  大食いギャルが、、
    お皿にてんこ盛りの食事をペロリ、、、
      日本は,そのうち、、、
        食べる物にも
          事欠く日が来る、、、と
            平和ボケのイベントを見ていた。
  この人たちは、、、
    どうするのだろう、、、と
       戦後育ちの婆ちゃんは、
          、、あきれて、、、

     「ま~~~、
        馬でも食べれそうにない
            大皿てんこ盛りを
               食べる為にだけ、、
               、食べてしまったような、、、(@@)👌」

     胃袋も、ノルマ過剰で、、疲れてしまい
        内部の代謝も、それぞれの器官に負担のかけ過ぎは
          思いやりの欠如すら感じるのは

       戦後の食べ物がない、、、寂しさ、、
         芋粥がごちそうだった時代に、
            山野の実を食べたりした時
            皆と分け合い
             実のなる木に、、、笑いかけて
              大きな声で、、ありがとう、、と
             栗の樹にも、ヤマモモにも
            無花果や花器やミカンに
           最高の友情を感じながら
           食べ過ぎることは、、、
         まず、、、無かった時代に
       育ったせいかもね・!
                                 
  時代が違うと言っても、、、
    理由は判らないのだが
      世界の貧困な村の多い今日
       こういう番組を観ていると
         
        食べ物は、、感謝して
        必要な分の8割を
        ゆっくり戴き、、、
        ちょっと、、、、食べ足りないぐらいで
        御馳走様をすると

        人にも、食物にも、、つくった人にも
         感謝と、敬意と、愛が伝わり

         御馳走様、、、と言ってから、

         幸せな御顔が映し出されれば、、、
      味わい深いと思ったり、しながら

      この番組は、フアンがいて、
       成り立っているから、、、   
       放送されている事でしょうから、、、
       若者には、、、
      もてている番組なのかもしれないね、、、?

      年寄りには、、、
     ついて行けない番組だった。
     やっぱり、、、平和ボケの
      若者の番組なのかもしれない。。などと

      番組の趣旨がわからないまま、、
       食べ物は、、美味しく戴かなきゃ、、、
         食材として自らの命を提供してくれた
        肉や、野菜、、魚、、二申し訳ないというのが
        昭和10年代の生まれの常識でした。

       古いのかもしれないが、、、
         温故知新、、、お願いしますよね。

  今、、ウクライナでは、、
   昨日まで、、、自国の文化の中で
      自分たちの創った街で、、、
          人間として暮らしていただろう。

  ひとたび、、戦争に成れば、、、
          人格さえ認められない。
      
      板子一枚、下、、、地獄  

         
  
      平和ボケして、、、
      日本は、大丈夫なのかと、、、
      心配の声もあるが

      庶民の心は、、
        考えたことが、、
         未来につながらないときは


     踊りが始まり、、、
      なんとなく
       集団行動が発生するのが、
               歴史にはあるようだ。

   ライブが、、
     異常な人だかりになっているのは
        若者の心理が出ているようにも思える。

   「イマジン、、、」
     ビートルズの歌声が、、、
         今も聞こえる、、、。
        

      いいじゃないか,、、
      ええじゃないか!、、
      踊らにゃそんそん、、、

   NHKのニュース
      みる私、、、。

      78歳の婆ちゃんが、、、

       ウクライナの
        ニュース観たからって
         涙が出るだけで、、、

         やめて~~~!戦争は!!
          すぐにでも止めて!!、、、


          

       私たちは、
       1人の赤ん坊を
       大人になるまで育てるのが

           どんなに、、
           時間と愛と、
           お金をかけて

            未来に放たれる矢に。。。
            祈りをこめて
            幸せを祈って育ててきたか!!

          

               
            
       男たちは、、、いとも簡単に
         ミサイルで、、、

         人間を,、
       命亡きもののように、、、

          破壊して、、

          木っ端みじんにしてしまうけど、、、

    あなたの母上、、、
    あなたのお嬢さん、、
    あなたの孫だったら

         非、、人道的な

          侵略戦争で

           せっかく、、
          地元の人が、
        生涯かけて作り上げた街を

       破壊できますか、、?

         破壊戦争は

          連鎖して、

        地球丸ごと、、、、住めない星にしてしまい

          その半減期は、、
          何万年もかかるのですよね!!

    イマジン、、、 
      歌っているのは   
       その気持ちを、、、
        一瞬でも忘れたいから、、

      歌を聴いているのも、、
        一瞬でも、、、
         明るい気持ちになりたいから、、、

      歌を聴いているのは、、
         忘れたいから、、、

          同じ人間同士が
           ここまで、、残酷な悪魔になれるのかと、、、。
           ウクライナの
             破壊された学校や、、
               劇場を悼む
         

       戦争で、3人も子供を失くした母は

        いつも小さな、、、
         3つの御位牌に手を合わせ

         戦場近くの病院が父の勤務咲であった時

          死んだ子の為に、、自分も死んで、
           子供を孤独にさせないと、、、思ったそうです。

          しかし、、、
           長男が一人、、、
        此の世に生き残るのもつらくって
           長男の為に、我に返り、、日本に帰らねば、、と
            生きることを選んだそうです。
            母は、、
            あきらめきれない気持ちで
             小さな位牌にして、、
              持ち歩いていると
              3人の我が子が
               母を呼ぶ声が聞こえる、、、と
           

               疎開地で小学校の時に
                 母が呟いていたのが、、、
                     忘れられない。
            


          戦争で、別人のように痩せた父が

          祖父の、
            勇気ある、、
              日本から現地まで
               戦時中なのに
                 娘家族を迎えに来て

              最後の連絡船に乗せた、、、という、、、
            
             明治20年代に生れ、南紀から筑波大学の前身の
             師範学校を卒業して
             27歳で、アメリカに留学している祖父は

             ヘイトクライムのあるカリフォルニアで
             砂漠が緑地帯になってゆくのを
             体験している、

             日本人町の建設に、南紀からは結構な人数が
             戦前のロスァンゼルス
                  サンフランシスコに来ていて
                  
             個人の欲望から出はなさそうな    
             それなりに選ばれていたらしい国民が
             アメリカ大陸に、粛々と、、
             砂漠を緑地に替え乍ら
             居場所を創っていた、、、「先見の明」!!

             どんなに差別をされようとも
             日本人町を創る夢の為に
             何度でも立ち上がり
             勤勉な仕事を続けて

             砂漠の不毛地帯に
             居場所を自分たちで作った時代が

             確かにあったのかもしれないと、、、
             祖父の話を聴きながら、、、
             日本人の、アメリカ大陸への
             入植の、、、初期の初期の、、苦労がしのばれた。

             明治20年代の生まれの祖父の精神は
             
             昭和天皇を尊敬していました。
             あれほどの苦労をされた天皇様は
             居らっしゃらないと、、、

             封建社会から、明治になって,、、
                      大正、、昭和と、、

                        祖父は
            日本が国際社会に成長してゆくのを見続けた人でした。

            旧家であった祖父の家は
            ベースキャンプとなる親戚は
            新宮、、串本、、御坊、、
            和歌山市の建築部門に居たようだ。
            不思議な事に、、
                  皆、
                    高等教育を受けていた。
            新宮などには、同姓のの親戚が
            輪転機の回る「パルプ工場」などを
            経営していて、
            一年生の私は
              叔父さんから
                「この大きなパルプが、、、新聞になるんやで、、」
           「ほんま~~~!すごいの~!」
             あの時の記憶が甦ります。
             
            祖父は、名刀を軍刀にして持ってましたが

            戦後の疎開中に
             孫の一人が、勝手に持ち出して
              樹木を倒せるか?
              石を切れるか?

              あれは切れるか、、これは切れるか、、、と。

              悪がき時代の仲間たちと、、勝手に持ち出し
              鋸の様にしてしまい
              楚洲の戦争時代の痕跡は

              ボロボロにされて、、、
              村の鍛冶屋がサンが、、、
              引き取っていったのでした。

             そのころから、、、悪がきの
             鍛冶屋ごっこが始まり

              私も、、、くっついて
              鍛冶屋さんの仕事を,、見に行った記憶があります。

            疎開地では、立派な㋄人形が有りました。
           「楠 正成」「楠 まさつら」「ショウキサマ」
              桜の下の親子武士の人形は
                今でも記憶に残っています。

              リッパナ、、男の子の5月雛!!

             父も、母も,、、3月の
             女の子の雛は飾らなかった人でした。

              なぜかわかりませんが、、、

             私は生涯、、、自分のお雛様を、、、
             持ったことは有りません。
            祖父が、、我が娘を愛するが故なのか??
            政治家の、、当時は「偉い人やで!」と
            表現されていた人たちが
             知り合いだったせいなのか?
              原因はわかりませんが
               新聞の報道も
               ラジオの報道も、、、
               戦争の終戦は近いと、、、
              報道されていないときに
             日本の,船も、ヒコーキも
             アメリカによって、撃沈されていることが
            事実であるからと
            「空気感」で伝わってくることを
             事前にキャッチできる、、、

          勘の鋭い人だったのかもしれません
             祖父は、
              娘が7歳    息子が5歳の時
             伴侶だった妻を亡くしている。
              旧家だったことも有り
              二人を日本に残して
             カリフォルニアで、大陸の開拓を体験しながら
             留学を果たして
            地域の指導者として
           町長や、校長、、村と中央を繋げる仕事のようだった。

            戦後のドサクサの中で
             山村の奥にまで
              ジープに乗ったアメリカ兵がやって来た。
            B29蛾、、ゴンゴン、、と、轟音で頭上を飛ぶのも
            幼いころの記憶として残っている。
              
             明治20年代の「日本の男の子らに対する愛」
              祖父の人生は、

          私に伝わってくるものが有った。
        
              父親としての、、、
              男が娘を愛する時

            
            一緒に傍には居ない人生を  
                 選んでいる、、、外国暮らしをしたのに

       我が身を振り返らないで
        戦場まで、、、
        娘夫婦を 
      
       最後の、、大陸と日本の
          連絡船の情報をキャッチして

         自ら、、大陸に渡り、、
         家族を迎えに行って、
         着の身,、着のま
        
 
           祖父も。。晩年になって叙勲された。
         主人は今、、、
                
           穏やかな、医者をすることに専念しながらも

            ドクターヘリの就航記念テープカットに
             高橋知事さんらと映っている写真を見せると

           あの頃は、、緊張した毎日だったね、、、
           立ち上げの時代から、、
           病院は、、大きくなったからね。
           
           若い後継者を育てながらの人事で
           年齢差を考えて、、、
           スタッフを募集しながら
             
            病院は続けてゆけるんだね、、、と。

           医師の人脈を欠かさないような
            大學との連携や、細やかな配慮、

          権力や、お金が有っても、、、病院だけは

           医師の総合的な年齢の構成で
            人脈を途切れないようにしないといけないからね。

          お金や、、権力では動かせない
          医師の世界の信頼と、認定医や指導医に
          配慮して、学会に参加して、、
          事務サイドには見えない、、、専門的な要素を
          バトンタッチしてこないと、、、

            保険制度は、、報酬を得られない仕組みになっているからね。

         60年以上も北海道に住んで、
         医学の社会だけに生きた主人は
          知人が多いし、、友人を大切にする。

         決して、、家にはお招きしない。

          札幌の名のある店で会うか、、
          グランドホテルや
           パークホテルで会う
        
        
          男尊女卑に見える一生は、、、
          社会の構成や、システムを変えて
          政治が変わり、、、

         時は金也、、、を税制に入れると
         医師の家は、、時間貧乏の最たる主人が
         
         家庭では、書斎の居間にシングルベットを置き
         空気のバリケードで閉じこもるり
         体力回復に必死だった人生だった。

         外科医は、、、体力だね!!、、
          主人に言ってってしまった。

       怒るかと思いきや、、、
         体力だね❕!、、、外科は!!、、
        
         
        

         
    
       爺ちゃんは叙勲されたね、、、
        民間病院は叙勲とは無関係なんだよ。
      
 「洞爺湖でサミットが有ったとき、、、世界の要人の万一の健康障害の場合は
  当番病院を勤めたjじゃない?」
  「一回ばかしの貢献じゃだめだよ、、、」
                
       受章した爺ちゃんと、、主人の叔父さんは、、地域貢献型の開業医

          「叙勲とはね、、、
       時代を統括した人が
        歳をとっても第一線に居られたら
         時代が彼を置き去りにしている事も多いから、
          「よく頑張ってくれました。
           あなたの時代は終わりましよ!。
           君臨した人だっただけに
            骨董品が若いこれからお時代の発展の
           試行錯誤を邪魔しないで、、、引退してね!」
         祖父は叙勲された時に
           笑いながら、、、国が気付くように勲章をくれたんだよ。」

         祖父の不思議な威厳には、、子供乍ら
             、敬意で見上げていた。

         いつも「三つ揃えを着ていた。」
         アメリカで手に入れたのか??どうか??
         素晴らしい銀時計を、、胸のポケットから出して
         時間を確認していた。

        「お爺ちゃんが、、、死んだら…その時計、、私にくれる?」

         アンポンタンの幼い私は
          お爺ちゃんが、、時計を見るたびに
            同じことを繰り返した。
        祖父は、、、初めて聞いたときのように
         「おお!やるとも!」
          同じ顔をして、、、何度でも、、同じ答えをした。

          祖父は、、晩年はどきょしていた我が家を出ていった。
         息子の義務であるから、、と、
         母の弟である「叔父さんの家を建てるのを手伝って」
         我が家からは出ていった。

         80歳を過ぎてからは、、、叔父さんの家で過ごして
          私は、、、祖父が無くなる一年前
         一歳前の長男を連れて
         留萌から、実家に帰り、
           実家から、新しく建てた叔父さんの家に
           親子で連れて行ってもらった。

          新しいシーツを持って行った。
          長男は一歳になる前だった
          祖父の顔を見るなり、、、泣きだした。

          祖父は、、、おお、、おお、、ワシの顔が怖いか??

         「 後ろ向いていよう~~のお」、、、と
          後ろを向いてしまった。


         「母が、、シーツを、お爺ちゃんに渡して、、て!」

          私がシーツを差し出すと、
         「気持ちは受けとったが、、、シーツは
            おかさんに、、、返しておいてくれ。」

          「なんで?、、新しいのがあったら、、ええやないの?」

          「今はな、、
            御爺さんはな、、、
              息子の嫁が世話してくれるんで
               嫁がしてくれる以外の事は
                受け取らないようにしとるんじゃと、、
           ありがたいが、、、こうした気使いは
             これからも、、しないで好いと、
               それが、、、せめてもの
               爺ちゃんの、嫁への感謝者と
                おかさんに行っておいてくれ、、、
                  良く、、尽くしてくれるおばちゃんに
                   敬意をはろうとるんじゃとな!!」

           昔の人は、、明治20年代の生まれの人は
           男尊女卑に見えていたが、、、

           違う!!、、男の心遣いに
           社会的な事の出来ない立場に居る女性の方で
           一歩、、、引いていたのだと、、、

           その時の自分んが、、、気の付かない自分と母が
           今でも恥ずかしくなるのでした。
  ネイ時40年代の生まれの母は
          両親が居ない中で
           旧家の親戚で、従兄たちと暮らした。
          アメリカから、養育費が届くためか
          母は、新宮女学校では
          大学進学組だった。
           佐藤春夫さんの妹さんと同級で
           文学にも目覚め、、、
           音楽にも目覚め、、、
           自転車に乗り、、

           当時の言葉では
            モダンがールとか、、、
           ァプレ、、とか
           昭和時代の「太陽族」並みの印象で
           斬髪で、、編み上げブーツで
           ピアノをガンガン弾く母は

          当然、、行く先は東京、、、
          国立音楽大学に入学して
          ショルツ先生の教えに
           目からうろこの、、、
          日本に、もたらされたばかりの
          クラシックのピアノ音楽に
        引き込まれていったのだそうです。
          山本直純さんのお母様とは同室になり
           御一緒に、、日本髪を結った舞台で
            オペラを演じている写真などもありました。
           明治生まれの両親は
          自分に生きる!!
         明治維新から、、、文明開化の加速度で
        日本の女性は、、どんどん独立精神
       自己実現が始まっていた時代だったのですね、、、
             
           
           疎開地に13年
           東京に帰れて、
           母は、                 
          死んでしまう3日前まで
            弟子たちに、、、
            ピアノを教えていました。
           80歳過ぎても、、、現役の指導者だった、、、母。
         愛用のグランドピアノは、、弟子に譲り
            象牙のアップライトのピアノは     
             嫁を経由して、、老人ホームに寄付されたらしいです。
          もう一台のピアノは、、孫に譲ったらしいですが
          孫娘は,、、売ってしまったと、、、兄から聴きました。
         5平方メートルしかない我が家には
         ヤマハもU-3型
          アップライトの新しいピアノが送られてきました。
      
          「これは弾くための楽器と思わないでください。
           いつも母が一緒だと思って
            北海道で、孤独にならないようにね。」
         添え書きがしてありましたが、、、
          狭い我が家に、、ピアノが送られてきて、、、
           ピアノの下で寝るという
             寝室のない人生を、、、プレゼントされてしまった。
         
         個人開業の実家は売られて、しまったという
         
        人生の大河は流れ続けています。
         

        北海道に舞い降りてしまった木の葉は
        花筏の木の葉のように
        子供を乗せたまま、、、
         大河に添って流れてゆきました。

     、目的地は神が決めるようですね。

     
           ジェンダ-、、、
            周りの期待する方向の役割に甘んじなければ
             居場所がなくなるだろう。
         男尊女卑の日本はそれがああり前だった。
   
 生物兵器に備えうる、、医療ゾーンのトンネルを
  殺菌灯として,、殺virus灯として、、水際の街を創ることも
未来志向かも知れないと思ったりすると
眠れない夜が続きます。。

*********************************:
          話をもとに戻し、、続きを日記に記しておきます。
       
         戦場近くの病院勤務時代から
         終戦までは、、、
         地獄を体験した母でした。

     戦後の母が、自分を取り戻すまで

     父は、、、
     母の故郷で、診療所に勤め

       13年間も、母の幼友達のいる疎開地で

        無医村の医師をしながら、、、

       戦場の近くまで、、妻子を伴った事を、
       運命とはいえ、、、
       母に申しわけないと
       思っていたと思いますよ、、

     父が生れ故郷の東京に開業したときは

       母の弟の家族を全員引取り
           同居して
       その長女は
      ドレメの大学を卒業することを支え

         医師と結婚するまで『導き』
       次女も。。三女も、、、
      千葉大の法学部卒の男性との結婚式まで見守り
      母の心を満たせるのなら、、、村に人生を預けるという
      父らしい熱血の時㋐感じられた。

      肝心の、、、「実の娘」」の私が大学に入ると
        入れ替わりに、、、54歳で死んでしまいました。

    残された「奉公袋」「千人張り」「神社の寄せ書きのある日章旗」
    母は、、これを託せるのは、、、
     他家に嫁ぐ、、娘のおまえにだけ、、、
      と、、、
      託されたけれど、、、
     父母の思いも、、そのものの示す意味も解らないまま
      丁寧に、、神社でお祓いを受けて、、、

    どこかに奥深く仕舞ってしまい。。。
      30年以上も、、、見ていませんが、、、

    主人の、、断捨離していない、、モノだらけの家には
     探す君出てきませんが、、、

     国家免許を持った女房を、、
      家に閉じ込める作戦かもしれませんね。
   「あんたが働いたところで、、
      税金を治める額が増えるだけだから
        僕の健康を守り、、家に居てくれることが
          一番すぐれた選択だ!!」

   ゴルフすることで、助けてくれる医師や婦長さんの  
      健康と精神との療養を兼ねて
        千葉の鴨川に、、医療施設の量が有りました。

     ゴルフ場も、会計を担当の税理士さんや事務の方の
       退職金を兼ねて、、、
     施設所有麻ゴルフ場の会員権が数か所ありました。
  昭和40年代は「ローラーボー」という
     女性の魅力と、ゴルファーとしての
       アスリートの健康美を兼ねた、
         職員の皆の「マドンナ的女性ゴルファ、」がいて、

      忙しい医療人は、束の間の日曜日を
          施設の会員権を使って2000円ぐらいで
            早朝から、、ゴルフに行っていました。

   麻雀と同じで4人が単位で廻る時代ですから、、、
   欠番を補う意味で、大学生なのに、、兄貴に強制的に
     レディースゴルフクラブに入会させられ、、
       欠番を補うだけの、、マナーと、
         邪魔にならないでついてゆけるだけの
          特訓を、早朝の6時から、、
       強制的に仕事として命じられました。
    「明日は期末試験で、、寝てないから,、おきたくない!:
      そういっても、、、
        「きちんと従わないのなら、、、
          トイレットペーパーは
            自分で買ってきて、自分のは自分で買え!」

     わかったから。、、起きるから、、見たいな強制的な特訓のうちで

    いつの間にか、、コースを回る穴埋めが苦痛で亡くなりました。

     居候で同居していた従姉の女性は、、シングルの腕前になり
     私のような、、
        いつまでたっても、、、
]          野球のバットのような降り方で
      スライスはする、、フックはする、、、
      バンカーは9番でも、、すなだらけにする、、、という

      穴埋めも、、、出来るかどうかの下手ゴルフととがって、、

       ドレメの彼女は、、プロゴルファ―のお誘いで
       一緒に回るという、、、

       私は釣鐘と提灯に例えられるほど、、上達しなかった。

      彼女は、、ドレメだけあって、、
      その年の色彩、、、帽子、、、手袋まで
      お金をかけるし、、、美人だし、、、
      私はクラブを振り回すより、、、
          試験管を降る方へと、、、別れていった、

     彼女は、、ご両親が大きな病院を経営されていて
      御兄弟も、、優秀と誉れ高い国立の医師のご家庭から

      迎えが来て、、、医師と結婚して、、
      イタリアンレストランのオーナーになられて
      彼女を憧れるファンが連れてくるお客で、、
       素敵なママさんをしていましたが、、、

       ローラーボー効果と言えないいのでしょうかね?

      一部のインテリのお金持ちは
      彼女のような美人で、インテリで、、
      ゴルフがシングルという女性と

       グリーンを回り、、、
       ナイスショットで、、、
     拍手を贈られることが、、、
       
      病人相手に、、
      集中力で疲弊したストレスが、、
      すっ飛んだようですね。
      
      子供が4人になっても、、、お手伝いさんを置いて
       レストランは大流行り、、、
       シングルの腕で、、著名なプロゴルファ―と回る
       超時代に乗れた女性の生き方でしたね。

      容姿の老化の隠せない50代後半には
       ご自分から、第一線を退いて
       ご両親と旅行に出ていましたね。

       私は、、どうも、、、疎開地で育ったせいか
      あか抜けた生活に、、誘われても
        自分には、、出来ないと、、初めから思ってしまうせいか、、、
       本を読んでいた方が、、、休まるのでした。

      復興期の団塊の世代の、、集中的なストレスを
         一気に引き受け、、、
           遊んでいるかのように見えながら
           終戦で破壊された日本を復興させ
            追いつき追い越してゆく、
           やる気のパワーを、、、
          社会的な華やかに見えた時代のゴルフの世界で
         気持ちを盛り上げるのは、、、彼女のような
        戦争で苦労した昭和10年前後の女性のなせる、、、
     根性だったかもしれませんね。
     
        戦争で男の子二人と女の子を失っている母は、
         実の弟の長女である彼女に
          失った我が娘を重ねていたのかもしれません。

        戦争中防空壕で生まれて、、足手まといになって
         栄養失調になっていた実の娘からは

         失った娘の「再登場」を感じることは
          年齢的にも出来なかったのでしょうね、、、

         華のある彼女のサポートをしながら、、、
        母はどんどん気持ちが回復してゆきました、

       突然、、耳をふさいで、、、音がする、、と
       逃げ回る事も無くなりました。

       実の娘では有っても、、、
        理科系の女性には、、、
          果たせない役を、、彼女ははたしてくれました。
       戦争は、、
      生き残っても、、、
         トラウマとの、、
            戦いがあるのデス。

                
      
    
    歌謡番組を観る人
    世の中が落ち着かないと、、、
     歌謡番組を、、、楽しめない、、、のは??
      なぜだろ、、、と、、
        ニュースに戻したとき、、、

    北島三郎さんが、、歌手としてスカウトされて
     さぶちゃんでなければ、、、絶対の出せない声で
       歌い始めた。

    歌は、クラシイクでも、
        ポップスでも、
         ジャズ、、でも
           シャンソンでも、、
            ボッサノバ、、でも
        宇多田ヒカルさんでも、、
        大吟醸の、、、中島みゆきさんでも
        何でもよかった、、、
       その時の気分で
      ジャンルを問わず、、効きたい歌声って有った。
      
     coronaが始まって以来、、
       高齢の我らは、、、歌どころではなくて、、
        ニュースや、ネットで、
         ウイルスの事を、知り、、

      敵を知り、、、己の年よりの免疫度を知り
      3回目のワクチンが終るまでは、、、
      家中を。滅菌布でふきまわり、、、
      掃除洗濯には、ウイルスも撲滅する洗剤を使い
      
      貧者の一刀でも良いから
      専門書を読み、
       78歳以上でも、、、生き残りをかけて
       やれることは、、、全て行う。

      マスクも勿論、、
      手洗いも、、、

   布団干しも、、、冬物いれ替えの、滅菌作業も、、、
      コロロナ自体は、、予防注射しているが、、、

     台所の排水溝など、、、毎日洗剤を撒いておかないと
     野理ウイルスなどと、、、
      coronaが、、同時に感染すると 
     先ず、、助からないだろうと、、、考えて

     万一、、、コロナに感染したと仮定すると
     その時、菌類や、ほかのウイルスに感染していると
      重症化するか,、、死であろうな?!と思うから、、、

     ながら族の私は、、、
         結構、、
          ラジオやTVをッkwっぱなしだった。 

      coronaを境に、、、NHK ,,,
      ウクライナ侵略からは、、、NHK

      NHK放送での、、、歌番組、、
        TVを見ていても、

        感情を移入して
         聞かねばならない歌は
            聴いてないんだろと、、、
        自分では意識に無いが、
        、無意識にニュースになっている。
         、、、結果になる。

    歌番組で最近、、心にしみて、、昭和時代を振り返りながら
      北島三郎の、、若い時の,、歌声は、、、
         ジャンルを問わない、、、
           艶のある、、言いかえですね。

       クラシックだとか、、、オペラだとか、、、
        モーツアルトや、、リストや

         ハチャトリアン
        クロードチアリ、、のギター、、
       そして、、優しい兄貴のような、、、裕ちゃん!

      若いころは、、ビッグベンの見える川べりの
        券売り場の小屋で
          アルバート ホールの
           オペラの切符を買って

            丸めてハンドバッグに居て👆置いた
             旅行用の超薄手のワンピースに着替え、
            旅行先で歌を楽しんだこともあった。

        マリア カラス、、、、、一世風靡した時代でもあり
           彼女が、、有名な船の王者の方と結婚したという
             記事も、、興味津々だった若き日もあった。

        ナノに、、、coronaという、、世界の敵
              ウクライナ侵略という、、、
                見下された、、、庶民の権利
                        庶民の幸せ
                        子供の命
                        老人の命、、、

         この中での、、、毎日は、、、
         腹が立つという事も無いほど
         感情が沈滞したまま、、、浮かび上がってこない。。。

         こんな時、、、元気をくれて、、、しばし、、、

         久しぶりに、、、サブちゃんと作詞家のTVを観た。

         いい声ですね~~~!!
         ニッポンの祭りの若集は、、、健在ですね!!
         若い、、次世代の若者が、、、
             元気なら、、、
              元気になれます、、、が!!?
         サブちゃんも、、爺ちゃんだものね!!

         良かったね、、、40年ごろからの復興期!!

          紅白も、歌謡曲も、、、
            南国土佐も、、、お風呂に入りながら
          ラジオかけっぱなしで、、、
         頭が、、ボ~~となるまで
         歌を聴いていた、、、け。

         私は今、、、生きるために、、、
        セイイパイ働いているのかもしれません

        主人が、、就活のゴミ捨てを、、、
        私に任せてくれたのですが、、
     
          自分の物は50代に、、全部処分したのですが、、、
         主人の所属の就活は、、、女房と言えども
         捨てるのは、、、気が引けるから、、、
         シュウカツしたことにして、、、
        離れの2階の押し入れに、、仕舞っておき、、、

        捨てるのは、、一時凍結しました。

         何だか、、、解りませんが、、、
           貴重な写真だった時代が在ったのでしょうね、、、
          医学は日進月歩で、、、
       今は骨董品の写真になっているとは思うのですが
        熱心に、、心臓手術の、、、ベン置換の手術で
         病院に泊りがけだったㇼ、、、
            



        
之、、なんだと思います???
    勝手に、、家内が、、頼まれたかって、、
     そうですね,、捨てましょうね、、、と
       断捨離実行が出来ない不思議なものですよね、、、

       江戸時代の、、医療器具らしいものも、、、有ったので

     どっかにしまい込んでしまいました。

我が家は、、教育とか仕事とか、、、見聞に講習に、、金銭を有効に使ったので
主人は、お金儲けより、、使う方が時間と勢力が要った、、、と言いながらも。

医療の世界は、、あっという間にヴァージョンアップして

10年前の大枚はたいて取得した手術も、
   ロボットや、ダヴィンチが施術するから、、、
     何枚もある、、認定医や指導医は、、、

   どんどん,、、更新しなければ
   措いて行かれてしまうというのが
政治家さんも、、国税局も、、知る由もないから、、、

  金持ちに見えて、、
税金治めると、、役目果たしたよ、、、と
 ニコニコするのが、、、大学の勤務とか
  大病院の医師や、
  へき地に居る医師会の先生方だよね、、、

講習会に出てくるだけで、、、
留守番の医師を大学に頼んで
  患者さんに責任ある立場上  
    安全の為に
      会員権を買ってホテルに泊まり
       交通費払って、、講習会に出席するでしょう、、から、、、

  一大出費も、いとわないで、
   自分の研究テーマであれば、、、外国にも
   研修旅行に、、2週間ぐらいは、、、出かけてゆく、、、

    外国で、手術の見学写真が一杯で、、、
    女房のお土産のネッカチーフには
      英語で「メイド イン ジャパン」と
         テロップが付いている物だったりする。

   あの時は、、、なけなしの貯金を降ろして、、、アメリカに2週間
   見学、実習、、、ゼミなど、、、一部は学会発表で
   主人は、学会場の応援だったのかもしれませんね(^^!👈^

      こんなこともありました。

 何か月も家に帰らずに
     最先端だったらしい、、
         国立循環器センターに
            勉強に行ったまま、、、

            しばらくは帰って来なかったり、、、

            その時の、教材かも知れない、、、写真!!
             ネガもどっかに行っちゃったし、、、




           元気で勤務している間は、、、
         とてもシュウカツ処分は出来ない。

        新聞もとってこない、、、
         ごみもステーションに捨てに行った事の無い
          主人は我が家の
           「何にもセン(しない)専務,、
                  

         サラダとコーヒーは、、つくりますけどね、、、

         他のドクターは、、
          戦時中の
            日本国民一億皆貧困時代に生れていませんから
           
         昭和の対戦前に生れた
            生きることが仕事だった時代の
              主人の年代の中でも

           青医連などのデモ騒ぎで
              貧困の時代に、、、さらに鞭打つような

             国家試験ボイコットで、、、
             医科大学を卒業しても
             全員結束の為、、、国家試験ボイコットで

            身分のない、、医師モドキの、、、使い走りの
            無給時代が続いた年代の医師の、、生きてきた、、足跡を

            部外者の蚊帳の外から見た、、主婦の目で、、
             ありのままを日記に記しておき

             同年代の先生方が,、、こんなことも有ったね、、、と

            苦笑して、戦争の被害が、、一生に渡って
             生きるためにだけ生きるという、、
               保守的な面があることは、、、

             馬には乗って観よ
              人には沿って観よ、、

              戦争の傷蒼の貧困は、、生涯、、、救急体制の
              生きるために戦い以外のよそ見をしないので、、

              結婚👌、、手、、、何なのだろう、、、
                  一生懸命生きて、、気が付くと

                    育児、洗濯、、掃除,、食事つくり。。買い物で

               気が付くと、、、浦島太郎子になって
            
                鏡に向かって、、、若見栄と格闘して
                 だめだ~~~TVの宣伝どうりにはなりません。

                78才目の前は、、、60代にはなりません。
       、、
          あきらめて、、、主人の付き人、、裏方の続です。

                  

         一階は、、3部屋とも主人専用のダンボールの学会誌だらけ、、、

         2階は、主人が外交に使ったドレッサーの
        一間もののスライドドア付と整備ロトコートがぎっしりの箪笥と
         捨てられない、、真空管のTVが2台
          ステレオと、針で聴くレコード盤、、、
            超旧い、、捨てられない、、、ビデオデッキとビデオ映画

          皆殺しのマカロニウエスタンや、野球のビデオ
         愛だの恋だの、、、とり付くシマのない、、、
        人様の心臓に弁などを入れる仕事だった若き日の白衣など、、、

          勝手に捨ててくれとは言っても、、、

          小さなカード、、一つとっても
            今の巨大病院いなる前の、、立ち上げの頃の
           駐車上の、、ゲートの開くカードだったりするから

           ビニール袋に入れて、鴨居に貼った。

        「珍しいもの出て来たね!、、」
         「捨てるのは、、まだ早いでしょう!?」

         まだまだ出てくる、、、
         20歳前後の、、「北大合格の書類とか」
         一年生の身分証明書とか、、、

           結局、、、シュウカツは、、、まだまだ、、

         同級生も、先輩も働いているのだから、、、
           昇天してかtら、、、お盆に戻ってきてもらい
           自分の物は自分でシュウカツしてもらう事にしましたよ、、、

          40坪近い家なのに、、、
          私の個室が無くて、、、
           郵便物だけしか、、整理しない主人のもので
           全室うまっている。

          それも、、、リホームに来た大工さんが
           旦那に「断捨離してもらいな!!」
          こんなに、、昭和のものや、、
          古い電化製品でうまった家は
            大損害でしょう、、、
            足の踏み場無いってやつだね、、、と言って笑った。


          でもね、、この、、青春時代からの物が
           走馬灯のように季節を移り変わらせて
             身の回りにあるという事が、、、
           スゴイボケ防止になっていて、、、

           息子からも、、孫からも、、、
          「爺ちゃんは、、全然呆けていないね、、、!」
            びっくりされる
              づ脳の維持に
                つながっていると仮定すると

          どんなサプリメント飲むよりも、、、
           ボケ防止になっているのかもしれないね!!!

             私の居場所は、、台所と、
             台所のパソコンの椅子だけしかなくて
             結婚以来、、、
             友人も作らなかったし、、、
             断捨離するような、、ブランド品もないし、、、

           薬剤師に復帰したときに、、、
             頭の中のリフレッシュに
               認定薬剤師の講習会や
                認定薬剤師の受付機関に
                 審査対象にあるレポートを書くためもあり

            1990年代の中国の
               4大中医学病院のゼミと親睦の会に参加して
                 五泰山の
                徒歩による昔の医療人の足跡を
                  たどるたびに参加して
            形の残らない者に使いました。
           5~6回も、認定薬剤師の更新をしましたから
          15年ぐらいは、、、イギリス薬剤師会や、
               フランスのパリ大学や
             ノーベル賞受賞の「モアッサン」先生の
            実験室が、そのままになっているのを見学に行って
           今日に至る前の科学者の実験室から
          多くの事を学ばせてもらい、、、
         雑誌に投稿して、、自己記録として
        客観性のある方法で、、、旅行を、、全く無駄にはしたくないと
       知らない所で
      一行でも、、
      誰かの役に立つ「単語があればいい」と、、
     記録には残しました。
              
             
         私立大学に進学した二人の息子の授業料を
          自分でも応援するつもりで
            40歳で、薬剤師に復帰して
             北大の聴講生となって
              新しく進んだ免疫学など、
               講習を受けながら、、復帰したものの、、
      ふと、、気が付くと、、家庭ほったらかしで
      自分で稼いだものは、、自分で使ってしまっていたという
      自分で自分は
         外から見れないものであると
               、、、反省する。
      
       
        
              
      月給は、、皆、、
  自分でつかってしまったのかな~~?

        思い出せない、、、

    その時、、、も、、
      私の生活から、、
      音楽や、演歌、、
      クラシック、、、全ての音は思い出せない。

     枕元には、、、ヒーリングの曲のディスクが
            積み重なっていたのが、、、記憶に残っている。

  音楽を楽しく、、
    音楽を聴きにいているという時期は、、、
      実に、、、家庭的にも、社会的にも、、、
       平和ボケしている様な
       ゆとりのある時か、、、?

    子供の授業料が足りなくて、、、
      受験生に戻って、薬学を再履修しているときは
        いい年をして、、、恥ずかしながら、、

       中島みゆきさんの曲を、、、毎日,、聴きながら
         若者は、、もっと苦しいのだ!!!、、と言い聞かせながら

          息子達よ❕!、、孤独になるなよ~~~

       母ちゃんが付いているからね~~~!!
     泣き乍ら、、、頑張った時期もありました。

      子供が、、苦しい時には
        「二艘の舟」の歌詞をテーブルをひっくり返して
          その裏に、、、マジックで書いて、、、
         遠く実家を離れて
             大海原に翻弄されて漂う息子の舟を忘れないように
                 心が孤独にならないようにと、

       1人食事をするときには
          みんながテーブルを囲んでいるつもりで
            孤独にならないことを祈りながら
               78歳まで、、、来ましたね、、、。

             
             人生歌がある

             人生雅樂がある

             そういえば、、、
              雅楽のディスクを
       
            ピッツ゚バーグの
             知人に送った事が有りましったね。
             
         雅楽に夢中になった時期もあったっけ!!

         その時の精神状態で、
          音楽は、、
           、心にしみてくるものかもしれませんね

        coronaに時代、、、

           本当に、、、歌が少なくなりましたね、、、
         
            ロシアとウクライナの戦争のさなか
              歌を唄うう元気も
            ,、、、、聴こうとする元気も

                   何処に隠れてしまったのでしょうか?

          
           5月のリラの花のように

             つぶらな紫の花の
                 マッスのように

               国民の心の中の
                 紫の
                小さな一つの花を集めて

          
         桜散った5月の空に

        民衆の終戦を祈る歌声に替えて

       リラの花咲く青空で、、

        終戦を祈る歌を、、聴かせてください。

        リラの花びらが
          紫の心の祈りとなって

           終戦の祈りの歌が、、、

          聴こえてくるといいですね。。。

        昨日も、、、眠れなくて、、

             朝になってしまいました。

          ウクライナの侵略戦争は、

               、他人事ではありません。

            どうか、、、巻き込まれないで、、、

             小さな若すぎる国も

              皆で、、
             原爆や水爆や、、核ミサイルの

                人を人とも思わない、、、

              科学の間違った使い方に、、、
                ブレーキを!!

                科学は両刃の剣です。
                


             
           

    

         

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