今年の大雪も、、、
一人で大格闘して、、、
春の日差しに到達できました。
南紀の山奥の公営診療所に
疎開していた頃の、、、
櫻の山々、、、花びらの川、、
赤いランドセルを背負って、、
診療所の裏の小学校に入学した日のこと
山口先生という,、、
髪にパ-マをかけた女性が
担任だった事、、、
目の大きな先生だった事、、等々が、、、
昨日のことのように思い出されます。
戦争から帰還できた傷痍軍人が、、
白装束で、、、托鉢のような事で、
無表情に生きていた。
働く意欲を無くした時代でしたね。
疎開先の学校の前の
田んぼの隅っこを掘って、、、
粘土を集めていたら
天保銭が、、、どっさり見つかって、、、
「これ?なんじゃろ?」と兄に聞いたら、、、
「天保銭じゃ!、、、何処でみつけた?」
「田んぼの隅っこ掘って、、、粘土集めていたら、、、埋まっていた。。」
次男の兄貴は、、、あっという間に、、、
友達と一緒に、、田んぼを掘りに行って
皆、、それぞれが、、、
細長い天保という字が
くっきりと見える
古銭を手にして
ニコニコ顔で、、、
「興奮していたこと」が思い出されますね。
コンクリーの壁の一部のような、、、
建物の一部のような
がれきの上に
コンクリーの丸い、、、
お風呂の様なものが空中にのっかて居て、、、
不規則に破損したコンクリの壁を登り
空中に取り残されている、、、、
丸い、、、
「コンクリートの風呂桶の様のもの」に
子供達は、、
かわるがわるに入っては、、、
遊んだものでした。
あれは、、、
疎開地にも爆撃が有ったという事だと判ったのは。。。づーと後だった。
6年生になる前に、、、
東京に転出する我が家が、、、
公的な住宅だったと知った時は、、、
立っていた床が抜けた様な気がしましたね。
自分が、、何故?、、、、
東京に行くことになったのかを考え始めたときでした。
戦争が始まった時、、、アメリカの東海岸に住んでいた祖父と祖父の兄の奥さん。
現地に残った旦那さんを置いて、、旦那さんの弟にあたる、、、私の祖父と
日本に帰国したという、、、戦争犠牲者だった。
帰国するにおいて、、アメリカで使っていたものは船に乗せて帰国したそうです。
「祖父の洋館」はひときわ目立った、、、
おしゃれな建物だと、、
孫の私は、、、自慢に思っていたのに、、、
戦争で焼け出された人の集まった疎開地は、、、
和歌山県の山奥には、、、
西洋館の並ぶ、、、
アメリカ村と呼ばれたところもあった。
一人減り、、二人減り、、、
昭和30年ごろには、、、
ほとんどの人々は、、、
村から出て行ってしまった。
小学校に入学したときの、、、
校庭の、、満開の桜の木は 、、、
花びらの絨毯になっていて
風で運ばれて、、、
校庭と田んぼの間を流れる灌漑用水の
小さな小川は
桜の花びらで埋まっていた。
桜の花びらの流れは、
、少しずつ動いて、、、
やがて、、、
坂道を流れて、、、
「円山」と呼んでいた、、、、、、
小さな山の裾を流れる川に流れ込んで、、
枝葉の間に留まりながら、、、
バレーダンサーがくるくる舞うように
回転しながら、、、
ゆっくりと、、
花びらの川になって,、、流れていた。
そして、、6年生の四月の入学式には、、
、 東京の小学校に転入生として
夢の続きを観ておるかのような、、、
花びらの筏に乗って、、、
江戸川近くの小学校に運ばれたような、、、
主体も、自覚も無い、、、
人任せの転校であったことを思い出す。
和歌山を後にして以来
桜の花の咲く 、、、和歌山に、、、
生涯帰るチャンスが無かったのでした。
私は、、、何故???東京にやってきたのだろうか??
父が、、、東京生まれだったから。
市谷の、東京女子医科大学のあるあたりが
戦争前までの実家だったと、、、父が言った。
「子供の頃、、、毘沙門天んで、かくれんぼして、、遊んだと、、、。」
「神楽坂の縁日には、、、緋鯉を買いに、、いつも行ったと、、、。」
早稲田中学に進学したときには、、、
貫録をつけるために、、、制服に泥をつけて、、、
パタパタと、、、泥を振り落として、、、
汚れをつけてから、着用したとも言っていた。
戦中に生れた女の子は、、、
親からも、、、
村からも、、、
国からも
富国強兵策に、、、のっとっていない出産だからと
お祝いや、、誕生祝や、、お雛様祭りは、、、現代のように
親も、、、大騒ぎすることはなく、、、
ひっそりと、、いつもと変わらない日々だったそうである。
女の子自身も、、、自主自立を言い渡されたかのような、、、
自分で頑張ってゆく事だけが、、、
仲間に成れるという希望がありました。
戦争が終った戦後の復活期は、、、
東京というのは名前だけで、、
都会であり
一部の中心街以外は、、、
下町の寅さんのような世界でしたね。
「生まれは柴又、、、寅次郎と、、はっします。」
バナナのたたき売りが商店街の縁日には、、、
人垣の中で、、、
寅さんらしき人と、、?
思しき人が、、、
ねじり鉢巻きで、、、
バナナのたたき売りをしていましたね。
飴玉が一個一円で買えるトキ、、、
バナナの一房が、、、
300円ぐらいしていましたね。
下町では
バナナを食べていると、、、お金持ちと間違われる時代だったのですが
下町のお金持ちは、、、商店街の店主が、、お金持ちと言われていましたね。
あの頃から、、、
アメ横は、、
多くの人が買い物に出かけて
戦争は終わったという、、、、復興の時代に突入して、、、
狭い価値観から、、、生き残りの為の、、、受験地獄の始まりでしたね、、、
時代が落ち付いてきた、、、昭和30年代に入ると
戦後10年も過ぎて、、、
復興に成功したハイヤーの会社の社長のお嬢ちゃんや
近くに在った洗剤会社の社長さんのお子さんらは
私立名門だ大学につながった、私立高校に進学していった、
80歳になる前に、、、
思い出せることは、、ことが、記憶として、日記に記しておかなければ、、、
何時???
此処は何処?
私は誰?
あなたはどなた?、、、
まさかと思うけど、、、私も人間ですから
順番道理、、、、産まれた産道を、、、悲鳴を挙げ乍ら、、、
母なる天国に、、、滝登りしなければならなくなるのは必定ですから
その日が来たら、、、
毎日書いていた「花鳥風月を読み返し、、、」
「 記憶の咲かした花見をするように」
咲いてる咲いてる、、、私の記憶の花、、、
すぐに散ってしまう花びらの川、、、
また読み返して、、、
自分を想い出し
記憶を繋げて、、、80歳からは、、、
記憶をピン止めする日記を掻きつづけたいと、、、思っている。
80歳になるのは、、、
いよいよ来たのだという、、、
今は「小松川寮」は、存在しなくなってしまいました。
建物は記憶の中に生き続けます。
使えなくなった小松川寮は
小松川高校時代に行った山の寮の思い出が
久保君や、、岡田さん、、、竹さんらの顔とともに
思い出されます、、、
「
菅井さんは夜叉人峠の頂上の近くの岩山」が見えてきたとき、、
途中で、、一緒に休んでくれて、、、助かったと思いましたね。
人生は登山と似ていましたね、、、
友人と登るから楽しかった。
頂上付近に差し掛かった80代は、、、ダンナさんと励まし合いながら
二人三脚で行かねば
共倒れになりそうな、、、人生の頂上付近の岩山に差し掛かりましたね。
しかし、、、、ダンナさんは外科医の典型のようなお人です。
女性と、、二人三脚という事など、、、
考えの中には、、、接点がないお人でしょうね。
初恋の学生時代のクラスメートを、永遠の女神と思い続けて、、、
それ以後に出逢った女性は、、全て、、仕事の相棒として
必要不可欠の、、、チームの一員という感覚で捉えている。
私と出会ったときも、、私の感情など、、、関心がなかった。
健康で、平均的な判断力と、、体力が有れば
顔なんて、、、ついていれ場良かった。
ブスと言われる女性でも、微塵と言われる女性でも
どちらでも良かった。
関心は、、、結婚してしまった初恋の彼女のことしか
心には無かった。
結婚は社会的信用の為には必要だと考えてらしい。
自分の仕事を理解してサポートしてくれる女性なら
看護師さんと言わず、、、あく剤師と言わず、
芸術大学卒でも何でもOKだったらしい。
30歳を過ぎると、、、女性を観る目が出来てくるから
高のっぞみになり、、、現実には結婚は無理な時代に入ると
かってに思い込んでいたようですね。
外科医の、、切った張ったの世界が、、ちらりとのぞいたようですね。
女性側からすると、、、
人と人の出逢いという、、、必然の瞬間がないと
結婚なぞという、、、名前まで、、相手の名前になってしまう事を
簡単にはOKしたくないのが、、、普通でしょうね。
他人の名前になるなんて、、、今までの自分はどうなるんでしょうね!!。
ダンナさんの側から言わせると、、、
医師をするにあたって、、、薬剤師になっている女性や、看護師の女性が
仕事への理解があるから、、
自分にとっては、、、「必要な女性であると、思っただけだったそうです。」
本人の私の感情など、、、蚊帳の外だった。
母に直接談判でしたね。「将を射んとすれば、、、その馬を射よ」の
応用編だと言っていた。
「外科医の御主人が、若くして亡くなられて、、、内科医だけではお困りでしょう、、
僕は、、医局で、専門医の資格と『博士号』を取得した暁には、、、
東京に帰ってきますので、、
お宅の開業を助け乍ら、、、東京の医科大学の医局員になって
当直や、休日診療や手となり、、、相談相手となり、、、病院にするときには、
お兄さんや弟さんや、同居中の従兄のの先生たちと一緒に
お宅の医師の一人として、、、メンバーに加わりますから。」
「付き合ってはいませんが、、、
僕は自分が「医師をする」にあたっては
転々と出張生活、モ、
貧乏生活も、続きますので
「理解して、ついてきてくれる伴侶が、
今の僕には必要なんです。」
私は、我が家の近くの総合病院で、、、未来の薬局長候補として
東大での、基礎の仕事。
東京医大での臨床研修後、正規職員として
当直を任されるまで、、修行して、、、
こまった時には頼れる同僚を沢山、、知人として認め合い
東京医大の教授の推薦で、
父も、、兄も、、知り合いの院長のの経営する総合病院へ
やっとたどり着いて、、、
生涯、、この病院で働きたいと思って、、、
自宅からの勤務が出来るという
永久就職でき☜、、、
勤務時間も20分以内という、、、理想の目的地に
自己実現のこれからの為のベースキャンプを手に入れたつもりでした。
50代にして、、、未亡人になった母の杖になって
「父から、、、お母さんを頼んだよ、、、という言葉」を
自分の自己実現と並列して、母をサポートできる、、、
リオスの位置にある勤務地でした。
これから、、長い人生の旅を、、はじめるにあたって、、、
未亡人の母と、一人娘の自分との関係が、、、
スープの冷めない距離として、、、現実に手中に在りと、、思った瞬間でした。
やっと、、、「合点!!」と言える、、、最終目的の就職をゲットして
結婚など、、考えもしない、、充実した日々だったのですよね、、、。
私は、、、一人で生きれる力さえつければ、、、
男兄弟の仲間として、、、一生家族で居られるはずだと思っていたのですよね。
東京都で,、人情豊かな下町で
の250坪の敷地のある診療所の、我が家に居座れば、、、
兄弟4人で、、相続すれば、、、私の取り分で、、、
母のお世話は、、お手伝いさんを頼んでも、
30年以上は見守ってあげる事が出来るだろう!
私は、、結婚などして、、、
継子扱いの、、、どなたか知らない家で生活しなくても
「自己実現が出来るという、、、立場に居たのですよね。」
姑,、舅、、小姑、、、他人の城で
生を使いながら、、、生涯子育てするなんて
とても、、、進んで手に入れたい生活だとは思えなかった。
結局、、、北海道の医師に嫁ぐという事になったのは
母と兄の、、、連合軍が、、、
「独身を決め込んでいる娘を、、、何としても、、家から追い出さなければ、、、」
医事新報という、、、医師会雑誌に、、、
私に無断で、「結婚相手を求むという広告を出したのですよね!!」
ひどいでしょう!!!
昭和40年代は、、女性は結婚して、
家を出てゆくのが当たり前という時代でした。
24歳にもなって、、、実家にしがみついている女性は
毎日、、縁談で、、、吐き気がするという、、、環境の中で
「自己実現を、、、」と
自分を失わない人生を過ごすことに、、、私は一筋の努力を続けてきました。
「観光雑誌に出ている様な、、、一元さんお断りの名門ホテルの女将に、、、」
「名古屋の病院経営の医師ご夫妻の、、医師の息子さんとの縁談、、」
「日赤に勤務中で、、、5万円で生活してくれませんかという医師」
「父上が東大卒で、、、自分は2年間東大一筋で受験したが失敗で、私立医大卒業して、開業直前です。」
。。。。。。
父の知人も、、、仕事先の先生方も、、、
誰でも観ている様な、、月刊雑誌に、、、
「医家妹、、、医師に嫁ぎたし、、、
医師妹、、、当方薬剤師、、性格は勤勉、真面目、親兄弟ともに医師」
兄貴が、、無断で、、、出した、、、結婚の妹の婚活広告でした。
、勤務している独立している
24歳の私が、
母の母屋に住み着いているのが
目障りだったのですね、、!
医家大学の学生時代に結婚した兄は、、、
学生のうちに、、、華やかな化粧の女生徒家に住むようになりました。
部屋が必要だから、、、という理由で
高校生だった私の部屋を、、、帰宅すると、、、無断で片づけてしまい
未来の奥さんの部屋になっていました。
カバヤキャラメルを、一生懸命かって
42冊の「世界名作全集という、、、勝山ひろし 画」の全集も
日本で初めての「カラー絵小説、、、マンガ」の
「 砂漠の魔王」の数冊を手に入れて、
本棚の後ろに、、大切に隠しておいたのに、、、
本棚ごと無くなっていました。
私にことわりも無く、、、6畳の、、、私の部屋は、、、カラのドレッサーだけになっていて、
入院室の端っこの、、布団部屋に机が移されていました。
昭和35年ころの男尊女卑の、、
、典型的な、、、長男が別格の権力の有った、、、日本の駐留の家庭模様の一例です。
こうした、、、長男の独裁にも、、文句を言わずに、、、
隅に隅にと追いやられながらも、、、
自己実現のスタートの日までは、、、
ならぬ堪忍するが堪忍、、、!!
未来の嫁になる義姉候補の👯には、、、当たらぬさわらぬように
黙って譲るものは譲って行きましたね。
日大では、、専門科目に入ると、、、楽しくて楽しくて、、、
14科目のうち、、、13科目まで「優」をいただけましてね。。。
ひとりでに、、、笑みが出てきましたね。
自己満足ってやつですよね、、、調子が出て来て、、、
国家試験も合格して、、、就活する前に
薬理の教授から「東京大学の薬理学研究室に、行くように」と
2年後は、母校のスタッフにしてくれるそうで、、、、いそいそと、、、
命令に従って、、、天下の東大を見学がてら、、、勤務できるチャンスは
謹んでお受けしたという成り行きでした。
しかし、、、ココは永く勤務しても、、、私なんぞ、、、目のだしようがないほど
研究の認識が基礎的に身に着いたら
サッサと移動しないと、、、
万年研究補佐役で、、人生は終わるという事は
明らかな職場なので、、、一年弱で
東大とはゆかりの深い
東京医大の臨床実習の
院内製剤の方へと移動しました。
我が身の丈の実習は、、、患者さんの直接のお役にも立てるし
実践が身に着くという、現実感が在りましたね。
病院薬剤師として、、月給も自立するだけは戴けるし、、、
現実の独立は、、夢でなくなりつつ、、、自己実現への挑戦は
一段一段、、確実に階段を上っているという感じになりましたね、
当直は多い時は週に二日の訓練期間が在りました。
翌日の昼まで実務であり、、、12時から帰宅が許可されました。
居睡りしながら、、、東京の中央線から総無線の東京の端っこまで、、、
一時間10分の勤務は、、、時間的に不利だと思いましたね。
そのころ、、病棟の教授が、、、
関連病院が、大学病院の実習を終えた薬剤師を探している病院が在るから
途紹介してくれたのが、、、我が家の至近距離にある
父も、、、兄も、、弟の医局のゆかりの深い病院でした。
天の助けでした。
料理をしない母の為に
勤務の帰りに、、おかずを買うという、、、ヘトヘトの
母へのsupportが必要なくなりました。
帰り道には、、商店街が連なって、、、体力の節約にもなりました。
薬剤師として、、、未来の薬局長として、、、
生涯勤務できる、、、
我が家の傍の就職口には
小学校、、、中学校,、高校時代の友人も、、、
患者さんとして来院して来るので
薬局業務は、
、昼休みも、、、早飯のあと15分で、、
昼休みの1時間は、、、無視されて
友人たちの患者さんが、、、
勤務中なので急いでいるのよ、、、頼む、、、と言われて
調剤して、、、サービスに活き活きしていたのです。
人生最高の、、、精神的なぬるま湯の中で
自己実現の為の、、、
独立できるベースキャンプに
到達した気持だったのですよね
兄の顔を伺わなくても、、、永久就職は、、こんな身近なところにあったのですよね、、!!!
その時に、、、兄貴の、、、
どくだんと偏見の、、、
「妹の私物化の婚活広告」が出たのですよね!!
「医師妹、、医師に嫁ぎたし、当方薬剤師、、、ウンヌン、、、」
兄貴の、、医事新報の広告は、、、勤務先の病院でもとっているわけですから、、、
人のことと、、自分尾ことと混沌としている兄に、、、猛烈に腹が立ちましたね!!!
居られなくなりましたよね、、、
男尊女卑も、、、ここまでやるか!!!、、、と。
怒りがこみ上げてきましたね。
私は結婚願望が在りませんでした。
小松川高校の親友も、、、独身で、キャリアウーマンを通しました。
親友だった女性は、、千葉工大のパソコンンを極めて
世界中を廻って、、パソコンの指導者をしていたり
高校と大学の親友は
研究版語を取得して、、私立医科大学の薬理の教官となっていたㇼ
母校の高校に、、、先生として戻ってきていたㇼ、、
大学関連病院の薬局長になっている一つ上の先輩もいるし、、、
兄貴に広告で、、ダンナさんを見つける権利がどこにあるのかと、、、
言葉にならないほど、、、腹が立ちましたね。
日本の男尊女卑は、、、女性を虐め過ぎだと、、、思いましたね。
しばらくは、、、兄貴の広告を本気にしている応募者に
どの顔下げて、、、兄のおふざけでしたと。。。言えばいいのか!!
胃が痛くなりましたね。
明治生まれの父母は、、、長男を別格に扱うから、、、
増長して、、、妹の人生まで、、、振り回すという
精神的、、、内政干渉だと思うのですよね。
私達、、理科系の友人同士で
「 独身グループを造っていました。」
私達は、、自立して、自己実現することで
日本の「男尊女卑」の不平等を
誰にも迷惑かけないで、、、乗り越えてゆくことを、誓うのでした。
独身で、女性だって、、社会の貢献できるのだという事で
実行力で、、、自分自身の意思のままに
たった、、、百年に満たない短い人生を、、、
自分自身の専門の腕で、、、生きてゆきたかったのですよね。
半端ではない干渉に、、、当時の体重は40キロになってしまいましたね。
そうすると、、エキスパンダーを持って来て、、
女性は、、胸の筋肉をつけるトレーニングをシロ、、とか?
過干渉に、、、ノイローゼ―になりそうでしたね、
一切口を利かないと、、、
「バランス」とか、、、精神薬を持ってくる。
薬は私の方が専門だから、、、放任していてほしい!!
毎日毎日、、、説教です。
兄も、、母も、、、
「女性には出産という、、育児という、、、
男性には出来ない能力があるからして
結婚して、、子供を育てるという、、、義務がある!!」
子育ての時、、、万一、、ダンナさんが死んでしまっても
子供を育てられるようにと、、、薬剤師にしたのだから、、」
薬剤師の方が、、、本命になってしまうのは、、親も兄も困るというのですよね。
アホカ!、、、真面目に考えて言っているのか?と
口には出しませんでしたが、、、
頭が悪いと、、思わざるを得ませんでしたね。
5歳の子供だって、、、頭の上に手を置くと、、、
払いのけるでしょう、、?
お母さんも、、兄も、、24歳の大人の女性の頭を、空っぽにして
自分の生き方を、インストールしようとしているのは、、、
「禁じ手」、、、無理すじ、、、王様を成り歩で積ませるようなものよ。
碁石で言えば,、シチョウ。,、その石、、、全部取るからね!!
いい加減に、、、腹をくくって、、、私を信じてほしいのですが、、、
さすがに、、男尊女卑も我が家の場合、、、干渉しすぎという、、、
最悪の形で、、、自分が一番かわいい「母親の愛を知らない」母と
この家の独裁者になる道しか残っていないのと、、、勘違いしている兄と
カラスの勝手でしょう、、という私は、、、
津軽海峡を隔てて、、、結婚後は、、淡交如水の、、、良い関係になりました。
はるか、、、津軽海峡を超えて、、、北海道まで来ると
親兄弟の,、干渉過多も届かなくなり
ダンナさんは、、医師をすること以外は興味のないという人だけに
別の意味で、、、男尊女卑の人生に運ばれていったのでした。
北海道の大自然の力の前には、、、
男尊女卑もすっ飛んでしまうほどの
問答無用の、、、雪の季節に、、、ねじ房られて、、、
雪掻き奴隷の人生を、、送ることになったのでした。
アホカ❕!、、、、私は!!!(++)!!
********* 思い出と,、、いたわりと、、、******************************
母は、、、本当の母に7歳の時に死に別れ、、、その後は継母に育てられている。
母親の本当の愛を知らないで育って居る。
きっと、、、孤独だったのだろう、、、
せっかく、、、4年生の国立音大を卒業しているのに、、、
外科医の父と結婚してしまっている。
生涯、、ピアノ教室とコンサートを運営しながらも
結婚して出産育児と続いて
私は音楽を、、捨てた、、、と、、言っていた。
( 捨ててないでしょう!!、、、生涯現役で、、80歳で、、母校の音楽家と
お弟子さんとで、、恒例のコンサートを開いて
音大にお弟子さんが進学し田ではないですか?
家庭を持った女性としては、、両立させた方ですよ、、、
立派でしたよ、、、!、、お母さんは、、、お化けのように偉大です。
母、、、、、、御本人は幸せなんだろうとは推察できますが
自分が一番かわいいというタイプの母と結婚した父は
懐の大きい人だと思った。
子供以上に我儘な母と、、うまくやって来れたことそのものが、、、
父の懐の大きさゆえだと思っていた。
でもね、、、54歳で、、
過労死の外科医なんて、、、早すぎます、、、
戦争に行った人は、、、何故か早く死んでしまいますね。
学徒出陣で戦争に行って、、、運よく帰還できた叔父さんも、、、54歳で
大学の講義の最中に亡くなりました。
シベリア抑留に耐えた叔父さんも、、、
早くなくなりました
虐めだ、、、!、、過干渉だ、、!男尊女卑だ!!!と
とさかに来ていた私ですが
何も、、、自己実現は出来なかったですが、、、
80歳まで生きれているという、、、運の良さに、、、ひたすら感謝です。
医師をすることしか興味のないダンナさんに当たって、、、
家の中の力仕事や万家事全般に、、、動き前逢って
冬は雪掻きで、、、筋往くウーマンになって、、、
結局、、、皺が出来る暇もないまま、、、
いきなり、、、ある日老婆になって
人生が終るのかもしれませんね。
お母さんなりに、、、せいいぱい、、
娘の事を考えた結果が、、、
自分の事を考えていたという結果になってしまいましたが、、
人人は、、皆、、そのようです。
鏡よ鏡よ、、、此の世で一番大切な人はどなたですか??
勿論、、、この私すよネ、、、
戦争が起きるわけですよね、、、
人葉、、、皆、、、子供から脱出できない所があるんですね。
実の母と7歳で死に別れた、、、孤独な母は、、、
娘に対して、、、自分の描いた理想の人生をあてはめようとする、、、
「お母さん、、、子供はね、、、お母さんの私物じゃないのよね、、、」
しばしば母に言った言葉だった。
「子供は、、未来に放たれた矢のようなものだと思わない?」
「母さんは、、7歳の時、、実母に死に別れて、、、
自覚してなくても、、、
実母の愛は、、継母という、、
他人の愛に入れ替わったでしょう?」
「お爺ちゃんは師範学校を出ていたから、、、
娘には『哀しからずや、、、道を説く君、、、』みたいなお父さんじゃなかったの?」
立派で、、絵に描いたような、、、正しい写生のように
人生の道案内をしてくれる、、、先生、、見たいなお父さん。
継母の、、知恵と知識で、、、「哀しからずや、、、道を説く君」みたいな、、」
「私を信じて、、、大学を卒業しているのだから、、、一人で生きてゆけるから、、」
しかし、、、日本という国は、、、頑固なまでに、、女性は社会に組み込まれていない時代でした。
政治の世界では、、「貧乏人は麦を喰え!!」などと、、、新聞は茶化していた世相の時代です。
私の人生の行く手に現れる、、、ダンナになる人が、、、
娘という、、相続権を駆使できる、、、
未来の他人を、、
いかに、、
自分たちの都合の良い人と
添わせるか、、、どうか、、、
と、、、いう、、、
生きのこり術?
早逝した父の後を継いでくれる、、、「外科医」に決めてあったという、、、母。
継母の、、知的な正しいと思うリードを、、
、母の愛と思って育った母。
、、、知的だけが取り柄の母の愛。
ありがとう、、、私も、、母さんと、、、よく似た愛しか知りません。
小さな愛の、、私の日記、、、
大きな愛の「ジャッキーㇿビンソンの永久欠番の、、、42番」
今日は背番号42番をつけた選手が、、、野球場をうめていた!!
野球人は、、、大きな愛に、、目覚めている人たちの集まりだったのですね、、、
戦争が無くなる日がきっと来ますね、、、その日の為にも、、、
42番を背番号に、、、メジャーの野球が
大きな愛を教えてくれながら、、、
小さな愛を、、、かっ飛ばして、、、大きな愛に気付かせて、、、くれています。
人は、、差別をしてはなりません。
大きな愛の一言ですね。
42番の背番号、、、、 一言では表せない、、、アメリカの歴史を背負った
スポーツが、、、
野球が人種を超えて、、、
世界に浸透してゆくでしょう、、、これからも、、、きっと!
戦争が終わる日がきっと来るでしょうね、、、
素晴らしい、、42番に、、、拍手です。
一人で大格闘して、、、
春の日差しに到達できました。
南紀の山奥の公営診療所に
疎開していた頃の、、、
櫻の山々、、、花びらの川、、
赤いランドセルを背負って、、
診療所の裏の小学校に入学した日のこと
山口先生という,、、
髪にパ-マをかけた女性が
担任だった事、、、
目の大きな先生だった事、、等々が、、、
昨日のことのように思い出されます。
戦争から帰還できた傷痍軍人が、、
白装束で、、、托鉢のような事で、
無表情に生きていた。
働く意欲を無くした時代でしたね。
疎開先の学校の前の
田んぼの隅っこを掘って、、、
粘土を集めていたら
天保銭が、、、どっさり見つかって、、、
「これ?なんじゃろ?」と兄に聞いたら、、、
「天保銭じゃ!、、、何処でみつけた?」
「田んぼの隅っこ掘って、、、粘土集めていたら、、、埋まっていた。。」
次男の兄貴は、、、あっという間に、、、
友達と一緒に、、田んぼを掘りに行って
皆、、それぞれが、、、
細長い天保という字が
くっきりと見える
古銭を手にして
ニコニコ顔で、、、
「興奮していたこと」が思い出されますね。
コンクリーの壁の一部のような、、、
建物の一部のような
がれきの上に
コンクリーの丸い、、、
お風呂の様なものが空中にのっかて居て、、、
不規則に破損したコンクリの壁を登り
空中に取り残されている、、、、
丸い、、、
「コンクリートの風呂桶の様のもの」に
子供達は、、
かわるがわるに入っては、、、
遊んだものでした。
あれは、、、
疎開地にも爆撃が有ったという事だと判ったのは。。。づーと後だった。
6年生になる前に、、、
東京に転出する我が家が、、、
公的な住宅だったと知った時は、、、
立っていた床が抜けた様な気がしましたね。
自分が、、何故?、、、、
東京に行くことになったのかを考え始めたときでした。
戦争が始まった時、、、アメリカの東海岸に住んでいた祖父と祖父の兄の奥さん。
現地に残った旦那さんを置いて、、旦那さんの弟にあたる、、、私の祖父と
日本に帰国したという、、、戦争犠牲者だった。
帰国するにおいて、、アメリカで使っていたものは船に乗せて帰国したそうです。
「祖父の洋館」はひときわ目立った、、、
おしゃれな建物だと、、
孫の私は、、、自慢に思っていたのに、、、
戦争で焼け出された人の集まった疎開地は、、、
和歌山県の山奥には、、、
西洋館の並ぶ、、、
アメリカ村と呼ばれたところもあった。
一人減り、、二人減り、、、
昭和30年ごろには、、、
ほとんどの人々は、、、
村から出て行ってしまった。
小学校に入学したときの、、、
校庭の、、満開の桜の木は 、、、
花びらの絨毯になっていて
風で運ばれて、、、
校庭と田んぼの間を流れる灌漑用水の
小さな小川は
桜の花びらで埋まっていた。
桜の花びらの流れは、
、少しずつ動いて、、、
やがて、、、
坂道を流れて、、、
「円山」と呼んでいた、、、、、、
小さな山の裾を流れる川に流れ込んで、、
枝葉の間に留まりながら、、、
バレーダンサーがくるくる舞うように
回転しながら、、、
ゆっくりと、、
花びらの川になって,、、流れていた。
そして、、6年生の四月の入学式には、、
、 東京の小学校に転入生として
夢の続きを観ておるかのような、、、
花びらの筏に乗って、、、
江戸川近くの小学校に運ばれたような、、、
主体も、自覚も無い、、、
人任せの転校であったことを思い出す。
和歌山を後にして以来
桜の花の咲く 、、、和歌山に、、、
生涯帰るチャンスが無かったのでした。
私は、、、何故???東京にやってきたのだろうか??
父が、、、東京生まれだったから。
市谷の、東京女子医科大学のあるあたりが
戦争前までの実家だったと、、、父が言った。
「子供の頃、、、毘沙門天んで、かくれんぼして、、遊んだと、、、。」
「神楽坂の縁日には、、、緋鯉を買いに、、いつも行ったと、、、。」
早稲田中学に進学したときには、、、
貫録をつけるために、、、制服に泥をつけて、、、
パタパタと、、、泥を振り落として、、、
汚れをつけてから、着用したとも言っていた。
戦中に生れた女の子は、、、
親からも、、、
村からも、、、
国からも
富国強兵策に、、、のっとっていない出産だからと
お祝いや、、誕生祝や、、お雛様祭りは、、、現代のように
親も、、、大騒ぎすることはなく、、、
ひっそりと、、いつもと変わらない日々だったそうである。
女の子自身も、、、自主自立を言い渡されたかのような、、、
自分で頑張ってゆく事だけが、、、
仲間に成れるという希望がありました。
戦争が終った戦後の復活期は、、、
東京というのは名前だけで、、
都会であり
一部の中心街以外は、、、
下町の寅さんのような世界でしたね。
「生まれは柴又、、、寅次郎と、、はっします。」
バナナのたたき売りが商店街の縁日には、、、
人垣の中で、、、
寅さんらしき人と、、?
思しき人が、、、
ねじり鉢巻きで、、、
バナナのたたき売りをしていましたね。
飴玉が一個一円で買えるトキ、、、
バナナの一房が、、、
300円ぐらいしていましたね。
下町では
バナナを食べていると、、、お金持ちと間違われる時代だったのですが
下町のお金持ちは、、、商店街の店主が、、お金持ちと言われていましたね。
あの頃から、、、
アメ横は、、
多くの人が買い物に出かけて
戦争は終わったという、、、、復興の時代に突入して、、、
狭い価値観から、、、生き残りの為の、、、受験地獄の始まりでしたね、、、
時代が落ち付いてきた、、、昭和30年代に入ると
戦後10年も過ぎて、、、
復興に成功したハイヤーの会社の社長のお嬢ちゃんや
近くに在った洗剤会社の社長さんのお子さんらは
私立名門だ大学につながった、私立高校に進学していった、
80歳になる前に、、、
思い出せることは、、ことが、記憶として、日記に記しておかなければ、、、
何時???
此処は何処?
私は誰?
あなたはどなた?、、、
まさかと思うけど、、、私も人間ですから
順番道理、、、、産まれた産道を、、、悲鳴を挙げ乍ら、、、
母なる天国に、、、滝登りしなければならなくなるのは必定ですから
その日が来たら、、、
毎日書いていた「花鳥風月を読み返し、、、」
「 記憶の咲かした花見をするように」
咲いてる咲いてる、、、私の記憶の花、、、
すぐに散ってしまう花びらの川、、、
また読み返して、、、
自分を想い出し
記憶を繋げて、、、80歳からは、、、
記憶をピン止めする日記を掻きつづけたいと、、、思っている。
80歳になるのは、、、
いよいよ来たのだという、、、
今は「小松川寮」は、存在しなくなってしまいました。
建物は記憶の中に生き続けます。
使えなくなった小松川寮は
小松川高校時代に行った山の寮の思い出が
久保君や、、岡田さん、、、竹さんらの顔とともに
思い出されます、、、
「
菅井さんは夜叉人峠の頂上の近くの岩山」が見えてきたとき、、
途中で、、一緒に休んでくれて、、、助かったと思いましたね。
人生は登山と似ていましたね、、、
友人と登るから楽しかった。
頂上付近に差し掛かった80代は、、、ダンナさんと励まし合いながら
二人三脚で行かねば
共倒れになりそうな、、、人生の頂上付近の岩山に差し掛かりましたね。
しかし、、、、ダンナさんは外科医の典型のようなお人です。
女性と、、二人三脚という事など、、、
考えの中には、、、接点がないお人でしょうね。
初恋の学生時代のクラスメートを、永遠の女神と思い続けて、、、
それ以後に出逢った女性は、、全て、、仕事の相棒として
必要不可欠の、、、チームの一員という感覚で捉えている。
私と出会ったときも、、私の感情など、、、関心がなかった。
健康で、平均的な判断力と、、体力が有れば
顔なんて、、、ついていれ場良かった。
ブスと言われる女性でも、微塵と言われる女性でも
どちらでも良かった。
関心は、、、結婚してしまった初恋の彼女のことしか
心には無かった。
結婚は社会的信用の為には必要だと考えてらしい。
自分の仕事を理解してサポートしてくれる女性なら
看護師さんと言わず、、、あく剤師と言わず、
芸術大学卒でも何でもOKだったらしい。
30歳を過ぎると、、、女性を観る目が出来てくるから
高のっぞみになり、、、現実には結婚は無理な時代に入ると
かってに思い込んでいたようですね。
外科医の、、切った張ったの世界が、、ちらりとのぞいたようですね。
女性側からすると、、、
人と人の出逢いという、、、必然の瞬間がないと
結婚なぞという、、、名前まで、、相手の名前になってしまう事を
簡単にはOKしたくないのが、、、普通でしょうね。
他人の名前になるなんて、、、今までの自分はどうなるんでしょうね!!。
ダンナさんの側から言わせると、、、
医師をするにあたって、、、薬剤師になっている女性や、看護師の女性が
仕事への理解があるから、、
自分にとっては、、、「必要な女性であると、思っただけだったそうです。」
本人の私の感情など、、、蚊帳の外だった。
母に直接談判でしたね。「将を射んとすれば、、、その馬を射よ」の
応用編だと言っていた。
「外科医の御主人が、若くして亡くなられて、、、内科医だけではお困りでしょう、、
僕は、、医局で、専門医の資格と『博士号』を取得した暁には、、、
東京に帰ってきますので、、
お宅の開業を助け乍ら、、、東京の医科大学の医局員になって
当直や、休日診療や手となり、、、相談相手となり、、、病院にするときには、
お兄さんや弟さんや、同居中の従兄のの先生たちと一緒に
お宅の医師の一人として、、、メンバーに加わりますから。」
「付き合ってはいませんが、、、
僕は自分が「医師をする」にあたっては
転々と出張生活、モ、
貧乏生活も、続きますので
「理解して、ついてきてくれる伴侶が、
今の僕には必要なんです。」
私は、我が家の近くの総合病院で、、、未来の薬局長候補として
東大での、基礎の仕事。
東京医大での臨床研修後、正規職員として
当直を任されるまで、、修行して、、、
こまった時には頼れる同僚を沢山、、知人として認め合い
東京医大の教授の推薦で、
父も、、兄も、、知り合いの院長のの経営する総合病院へ
やっとたどり着いて、、、
生涯、、この病院で働きたいと思って、、、
自宅からの勤務が出来るという
永久就職でき☜、、、
勤務時間も20分以内という、、、理想の目的地に
自己実現のこれからの為のベースキャンプを手に入れたつもりでした。
50代にして、、、未亡人になった母の杖になって
「父から、、、お母さんを頼んだよ、、、という言葉」を
自分の自己実現と並列して、母をサポートできる、、、
リオスの位置にある勤務地でした。
これから、、長い人生の旅を、、はじめるにあたって、、、
未亡人の母と、一人娘の自分との関係が、、、
スープの冷めない距離として、、、現実に手中に在りと、、思った瞬間でした。
やっと、、、「合点!!」と言える、、、最終目的の就職をゲットして
結婚など、、考えもしない、、充実した日々だったのですよね、、、。
私は、、、一人で生きれる力さえつければ、、、
男兄弟の仲間として、、、一生家族で居られるはずだと思っていたのですよね。
東京都で,、人情豊かな下町で
の250坪の敷地のある診療所の、我が家に居座れば、、、
兄弟4人で、、相続すれば、、、私の取り分で、、、
母のお世話は、、お手伝いさんを頼んでも、
30年以上は見守ってあげる事が出来るだろう!
私は、、結婚などして、、、
継子扱いの、、、どなたか知らない家で生活しなくても
「自己実現が出来るという、、、立場に居たのですよね。」
姑,、舅、、小姑、、、他人の城で
生を使いながら、、、生涯子育てするなんて
とても、、、進んで手に入れたい生活だとは思えなかった。
結局、、、北海道の医師に嫁ぐという事になったのは
母と兄の、、、連合軍が、、、
「独身を決め込んでいる娘を、、、何としても、、家から追い出さなければ、、、」
医事新報という、、、医師会雑誌に、、、
私に無断で、「結婚相手を求むという広告を出したのですよね!!」
ひどいでしょう!!!
昭和40年代は、、女性は結婚して、
家を出てゆくのが当たり前という時代でした。
24歳にもなって、、、実家にしがみついている女性は
毎日、、縁談で、、、吐き気がするという、、、環境の中で
「自己実現を、、、」と
自分を失わない人生を過ごすことに、、、私は一筋の努力を続けてきました。
「観光雑誌に出ている様な、、、一元さんお断りの名門ホテルの女将に、、、」
「名古屋の病院経営の医師ご夫妻の、、医師の息子さんとの縁談、、」
「日赤に勤務中で、、、5万円で生活してくれませんかという医師」
「父上が東大卒で、、、自分は2年間東大一筋で受験したが失敗で、私立医大卒業して、開業直前です。」
。。。。。。
父の知人も、、、仕事先の先生方も、、、
誰でも観ている様な、、月刊雑誌に、、、
「医家妹、、、医師に嫁ぎたし、、、
医師妹、、、当方薬剤師、、性格は勤勉、真面目、親兄弟ともに医師」
兄貴が、、無断で、、、出した、、、結婚の妹の婚活広告でした。
、勤務している独立している
24歳の私が、
母の母屋に住み着いているのが
目障りだったのですね、、!
医家大学の学生時代に結婚した兄は、、、
学生のうちに、、、華やかな化粧の女生徒家に住むようになりました。
部屋が必要だから、、、という理由で
高校生だった私の部屋を、、、帰宅すると、、、無断で片づけてしまい
未来の奥さんの部屋になっていました。
カバヤキャラメルを、一生懸命かって
42冊の「世界名作全集という、、、勝山ひろし 画」の全集も
日本で初めての「カラー絵小説、、、マンガ」の
「 砂漠の魔王」の数冊を手に入れて、
本棚の後ろに、、大切に隠しておいたのに、、、
本棚ごと無くなっていました。
私にことわりも無く、、、6畳の、、、私の部屋は、、、カラのドレッサーだけになっていて、
入院室の端っこの、、布団部屋に机が移されていました。
昭和35年ころの男尊女卑の、、
、典型的な、、、長男が別格の権力の有った、、、日本の駐留の家庭模様の一例です。
こうした、、、長男の独裁にも、、文句を言わずに、、、
隅に隅にと追いやられながらも、、、
自己実現のスタートの日までは、、、
ならぬ堪忍するが堪忍、、、!!
未来の嫁になる義姉候補の👯には、、、当たらぬさわらぬように
黙って譲るものは譲って行きましたね。
日大では、、専門科目に入ると、、、楽しくて楽しくて、、、
14科目のうち、、、13科目まで「優」をいただけましてね。。。
ひとりでに、、、笑みが出てきましたね。
自己満足ってやつですよね、、、調子が出て来て、、、
国家試験も合格して、、、就活する前に
薬理の教授から「東京大学の薬理学研究室に、行くように」と
2年後は、母校のスタッフにしてくれるそうで、、、、いそいそと、、、
命令に従って、、、天下の東大を見学がてら、、、勤務できるチャンスは
謹んでお受けしたという成り行きでした。
しかし、、、ココは永く勤務しても、、、私なんぞ、、、目のだしようがないほど
研究の認識が基礎的に身に着いたら
サッサと移動しないと、、、
万年研究補佐役で、、人生は終わるという事は
明らかな職場なので、、、一年弱で
東大とはゆかりの深い
東京医大の臨床実習の
院内製剤の方へと移動しました。
我が身の丈の実習は、、、患者さんの直接のお役にも立てるし
実践が身に着くという、現実感が在りましたね。
病院薬剤師として、、月給も自立するだけは戴けるし、、、
現実の独立は、、夢でなくなりつつ、、、自己実現への挑戦は
一段一段、、確実に階段を上っているという感じになりましたね、
当直は多い時は週に二日の訓練期間が在りました。
翌日の昼まで実務であり、、、12時から帰宅が許可されました。
居睡りしながら、、、東京の中央線から総無線の東京の端っこまで、、、
一時間10分の勤務は、、、時間的に不利だと思いましたね。
そのころ、、病棟の教授が、、、
関連病院が、大学病院の実習を終えた薬剤師を探している病院が在るから
途紹介してくれたのが、、、我が家の至近距離にある
父も、、、兄も、、弟の医局のゆかりの深い病院でした。
天の助けでした。
料理をしない母の為に
勤務の帰りに、、おかずを買うという、、、ヘトヘトの
母へのsupportが必要なくなりました。
帰り道には、、商店街が連なって、、、体力の節約にもなりました。
薬剤師として、、、未来の薬局長として、、、
生涯勤務できる、、、
我が家の傍の就職口には
小学校、、、中学校,、高校時代の友人も、、、
患者さんとして来院して来るので
薬局業務は、
、昼休みも、、、早飯のあと15分で、、
昼休みの1時間は、、、無視されて
友人たちの患者さんが、、、
勤務中なので急いでいるのよ、、、頼む、、、と言われて
調剤して、、、サービスに活き活きしていたのです。
人生最高の、、、精神的なぬるま湯の中で
自己実現の為の、、、
独立できるベースキャンプに
到達した気持だったのですよね
兄の顔を伺わなくても、、、永久就職は、、こんな身近なところにあったのですよね、、!!!
その時に、、、兄貴の、、、
どくだんと偏見の、、、
「妹の私物化の婚活広告」が出たのですよね!!
「医師妹、、医師に嫁ぎたし、当方薬剤師、、、ウンヌン、、、」
兄貴の、、医事新報の広告は、、、勤務先の病院でもとっているわけですから、、、
人のことと、、自分尾ことと混沌としている兄に、、、猛烈に腹が立ちましたね!!!
居られなくなりましたよね、、、
男尊女卑も、、、ここまでやるか!!!、、、と。
怒りがこみ上げてきましたね。
私は結婚願望が在りませんでした。
小松川高校の親友も、、、独身で、キャリアウーマンを通しました。
親友だった女性は、、千葉工大のパソコンンを極めて
世界中を廻って、、パソコンの指導者をしていたり
高校と大学の親友は
研究版語を取得して、、私立医科大学の薬理の教官となっていたㇼ
母校の高校に、、、先生として戻ってきていたㇼ、、
大学関連病院の薬局長になっている一つ上の先輩もいるし、、、
兄貴に広告で、、ダンナさんを見つける権利がどこにあるのかと、、、
言葉にならないほど、、、腹が立ちましたね。
日本の男尊女卑は、、、女性を虐め過ぎだと、、、思いましたね。
しばらくは、、、兄貴の広告を本気にしている応募者に
どの顔下げて、、、兄のおふざけでしたと。。。言えばいいのか!!
胃が痛くなりましたね。
明治生まれの父母は、、、長男を別格に扱うから、、、
増長して、、、妹の人生まで、、、振り回すという
精神的、、、内政干渉だと思うのですよね。
私達、、理科系の友人同士で
「 独身グループを造っていました。」
私達は、、自立して、自己実現することで
日本の「男尊女卑」の不平等を
誰にも迷惑かけないで、、、乗り越えてゆくことを、誓うのでした。
独身で、女性だって、、社会の貢献できるのだという事で
実行力で、、、自分自身の意思のままに
たった、、、百年に満たない短い人生を、、、
自分自身の専門の腕で、、、生きてゆきたかったのですよね。
半端ではない干渉に、、、当時の体重は40キロになってしまいましたね。
そうすると、、エキスパンダーを持って来て、、
女性は、、胸の筋肉をつけるトレーニングをシロ、、とか?
過干渉に、、、ノイローゼ―になりそうでしたね、
一切口を利かないと、、、
「バランス」とか、、、精神薬を持ってくる。
薬は私の方が専門だから、、、放任していてほしい!!
毎日毎日、、、説教です。
兄も、、母も、、、
「女性には出産という、、育児という、、、
男性には出来ない能力があるからして
結婚して、、子供を育てるという、、、義務がある!!」
子育ての時、、、万一、、ダンナさんが死んでしまっても
子供を育てられるようにと、、、薬剤師にしたのだから、、」
薬剤師の方が、、、本命になってしまうのは、、親も兄も困るというのですよね。
アホカ!、、、真面目に考えて言っているのか?と
口には出しませんでしたが、、、
頭が悪いと、、思わざるを得ませんでしたね。
5歳の子供だって、、、頭の上に手を置くと、、、
払いのけるでしょう、、?
お母さんも、、兄も、、24歳の大人の女性の頭を、空っぽにして
自分の生き方を、インストールしようとしているのは、、、
「禁じ手」、、、無理すじ、、、王様を成り歩で積ませるようなものよ。
碁石で言えば,、シチョウ。,、その石、、、全部取るからね!!
いい加減に、、、腹をくくって、、、私を信じてほしいのですが、、、
さすがに、、男尊女卑も我が家の場合、、、干渉しすぎという、、、
最悪の形で、、、自分が一番かわいい「母親の愛を知らない」母と
この家の独裁者になる道しか残っていないのと、、、勘違いしている兄と
カラスの勝手でしょう、、という私は、、、
津軽海峡を隔てて、、、結婚後は、、淡交如水の、、、良い関係になりました。
はるか、、、津軽海峡を超えて、、、北海道まで来ると
親兄弟の,、干渉過多も届かなくなり
ダンナさんは、、医師をすること以外は興味のないという人だけに
別の意味で、、、男尊女卑の人生に運ばれていったのでした。
北海道の大自然の力の前には、、、
男尊女卑もすっ飛んでしまうほどの
問答無用の、、、雪の季節に、、、ねじ房られて、、、
雪掻き奴隷の人生を、、送ることになったのでした。
アホカ❕!、、、、私は!!!(++)!!
********* 思い出と,、、いたわりと、、、******************************
母は、、、本当の母に7歳の時に死に別れ、、、その後は継母に育てられている。
母親の本当の愛を知らないで育って居る。
きっと、、、孤独だったのだろう、、、
せっかく、、、4年生の国立音大を卒業しているのに、、、
外科医の父と結婚してしまっている。
生涯、、ピアノ教室とコンサートを運営しながらも
結婚して出産育児と続いて
私は音楽を、、捨てた、、、と、、言っていた。
( 捨ててないでしょう!!、、、生涯現役で、、80歳で、、母校の音楽家と
お弟子さんとで、、恒例のコンサートを開いて
音大にお弟子さんが進学し田ではないですか?
家庭を持った女性としては、、両立させた方ですよ、、、
立派でしたよ、、、!、、お母さんは、、、お化けのように偉大です。
母、、、、、、御本人は幸せなんだろうとは推察できますが
自分が一番かわいいというタイプの母と結婚した父は
懐の大きい人だと思った。
子供以上に我儘な母と、、うまくやって来れたことそのものが、、、
父の懐の大きさゆえだと思っていた。
でもね、、、54歳で、、
過労死の外科医なんて、、、早すぎます、、、
戦争に行った人は、、、何故か早く死んでしまいますね。
学徒出陣で戦争に行って、、、運よく帰還できた叔父さんも、、、54歳で
大学の講義の最中に亡くなりました。
シベリア抑留に耐えた叔父さんも、、、
早くなくなりました
虐めだ、、、!、、過干渉だ、、!男尊女卑だ!!!と
とさかに来ていた私ですが
何も、、、自己実現は出来なかったですが、、、
80歳まで生きれているという、、、運の良さに、、、ひたすら感謝です。
医師をすることしか興味のないダンナさんに当たって、、、
家の中の力仕事や万家事全般に、、、動き前逢って
冬は雪掻きで、、、筋往くウーマンになって、、、
結局、、、皺が出来る暇もないまま、、、
いきなり、、、ある日老婆になって
人生が終るのかもしれませんね。
お母さんなりに、、、せいいぱい、、
娘の事を考えた結果が、、、
自分の事を考えていたという結果になってしまいましたが、、
人人は、、皆、、そのようです。
鏡よ鏡よ、、、此の世で一番大切な人はどなたですか??
勿論、、、この私すよネ、、、
戦争が起きるわけですよね、、、
人葉、、、皆、、、子供から脱出できない所があるんですね。
実の母と7歳で死に別れた、、、孤独な母は、、、
娘に対して、、、自分の描いた理想の人生をあてはめようとする、、、
「お母さん、、、子供はね、、、お母さんの私物じゃないのよね、、、」
しばしば母に言った言葉だった。
「子供は、、未来に放たれた矢のようなものだと思わない?」
「母さんは、、7歳の時、、実母に死に別れて、、、
自覚してなくても、、、
実母の愛は、、継母という、、
他人の愛に入れ替わったでしょう?」
「お爺ちゃんは師範学校を出ていたから、、、
娘には『哀しからずや、、、道を説く君、、、』みたいなお父さんじゃなかったの?」
立派で、、絵に描いたような、、、正しい写生のように
人生の道案内をしてくれる、、、先生、、見たいなお父さん。
継母の、、知恵と知識で、、、「哀しからずや、、、道を説く君」みたいな、、」
「私を信じて、、、大学を卒業しているのだから、、、一人で生きてゆけるから、、」
しかし、、、日本という国は、、、頑固なまでに、、女性は社会に組み込まれていない時代でした。
政治の世界では、、「貧乏人は麦を喰え!!」などと、、、新聞は茶化していた世相の時代です。
私の人生の行く手に現れる、、、ダンナになる人が、、、
娘という、、相続権を駆使できる、、、
未来の他人を、、
いかに、、
自分たちの都合の良い人と
添わせるか、、、どうか、、、
と、、、いう、、、
生きのこり術?
早逝した父の後を継いでくれる、、、「外科医」に決めてあったという、、、母。
継母の、、知的な正しいと思うリードを、、
、母の愛と思って育った母。
、、、知的だけが取り柄の母の愛。
ありがとう、、、私も、、母さんと、、、よく似た愛しか知りません。
小さな愛の、、私の日記、、、
大きな愛の「ジャッキーㇿビンソンの永久欠番の、、、42番」
今日は背番号42番をつけた選手が、、、野球場をうめていた!!
野球人は、、、大きな愛に、、目覚めている人たちの集まりだったのですね、、、
戦争が無くなる日がきっと来ますね、、、その日の為にも、、、
42番を背番号に、、、メジャーの野球が
大きな愛を教えてくれながら、、、
小さな愛を、、、かっ飛ばして、、、大きな愛に気付かせて、、、くれています。
人は、、差別をしてはなりません。
大きな愛の一言ですね。
42番の背番号、、、、 一言では表せない、、、アメリカの歴史を背負った
スポーツが、、、
野球が人種を超えて、、、
世界に浸透してゆくでしょう、、、これからも、、、きっと!
戦争が終わる日がきっと来るでしょうね、、、
素晴らしい、、42番に、、、拍手です。
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