女として大阪で暮らす2

初心にもどり、ちゃんとブログをつくりたいですね。
たまに、読んでください。誤字脱字は、ご容赦くださいね。

死んだかあちゃん、だんな様へ。

2016-01-12 16:10:11 | 日記
わたしは、大阪に来て、本当に死んでしまいたいほどの苦痛を味わいました。
しかし、生き延びたゆえに、恥ずかしい生き恥を今でも書いております。
それでも、病気か事故で死なない限り、生命はまだ続くのです。

さびしいから、そちらのへ行きたいといつも願っていますが。
まだ、まだ、たくさんの苦しみ、悲しみを経験しないといけないのです。
ほんとうに、最低の生活、人間として最悪の環境でいきていかなくてはいけません。

だから、私がお部屋を全部整理して、かたずけてきれいにするまでまってください。
そうしたら、天の神様がきっと許してくださると信じています。
この世にひとつもみれんなどありませんが、この住まいをすべてきれいにかたづけるだけです。

そして、すべてがかたづいたら、私を呼んでください。
それまで、本当に迷惑をかける生活を、しなくてはなりません。
自殺はできないし、せめて事故で死ねたらいいなあと感じてます。

わたしは、これ以上の生き恥と苦しみは、もうたくさんです。
外では、朝から晩までのすごい騒音です、くるしいなんてものではないのです。
そして、休みの日はどこかの部屋の騒音です、これも私が苦しみためにそうなったのでしょうか。

私は、こんな騒音のために生きていくのは、つらいです。
どうか、騒音のない無の世界に生きたいです。
でも、それまでに整理しなくてはならないことがたくさんあります、それまでまってくださいね。

おかあちゃん、だんな様へ。
                            生き恥をかいている女から。

おっぱいアイスとちんちんアイス

2016-01-12 10:46:05 | 日記
おっぱいのように、乳首からちゅうちゅうすう、アイスクリームがあります。
すごくクリームがでてきて、最後は飛びますね。

だけど、タネ入りなのでもみもみできて、たのしくておいしいです。
わたしもたべてみたけど、おいしかったです。

冬でも、おっぱいアイスは、たぶん食べながら笑顔になぜかなれます。
考えた人も、おっぱいすきなのかもしれませんね。


これは、秋田のほうのちんちんアイスだそうですよ。たべたいわ。

堀北、山本新婚で探していた住まい

2016-01-12 10:13:04 | 日記
センチュリー21系列のフランチャイズ店パキラハウスに2ヶ月前に入社したばかりの、女性の店員に相談にきた、芸能人夫婦の物件がばらされたようだ。しかし、芸能人は秘密などないのだ。かわいそうであうる。予算35万円の家らしいのだが、東京は、高いけど芸能人ならあたりまえなのかしらね。


生活困窮者の現実

2016-01-12 07:52:47 | 日記

住む家も食べ物もない、風呂も入れない…簡単に「生活困窮者」転落する日本

--ブラック企業が横行する日本。これでは、安倍晋三政権が掲げる日本再興戦略「JAPAN is BACK」 ならぬ「JAPAN is BLACK」ではないか。しかし、そんな暗闇に満ちた社会で一生懸命に働く当事者たちはまぶしい光を放っている。本連載では慶應義塾大学経済学部教授の金子勝氏が、そんな当事者の人びとにスポットを当てて、ブラックな社会の実態に迫る。--

 今回金子氏は、静岡で生活困窮者の支援を中心に活動を行いマスコミにも注目されているNPO法人POPOLO事務局長の鈴木和樹氏に、

・生活保護を受けていた幼少期とブラック派遣会社で働いていた過去
・NPOで生活困窮者を支援するに至った経緯

などについて話を聞いた。

●ブラック派遣会社の実態

金子勝氏(以下、金子) 現在は、生活困窮者のための住居支援の「富士POPOLOハウス」、食糧支援の「フードバンクふじのくに」などの運営にかかわる鈴木さんですが、そこに至ったきっかけはどのようなものだったのですか?

鈴木和樹氏(以下、鈴木) 私は静岡生まれ、ほぼ静岡育ちです。幼少期に両親が離婚をして、父方の祖母や叔母の世話になり、生活保護を受けて育ちました。当時はいろいろと嫌な思いをした体験もあります。高校卒業後、アルバイトで貯めた金で一発当ててやろうと思って東京に出ました。高校時代はバンド活動もしていたのでバンドメンバーだった友人を「東京で成功しようぜ」と誘い、音楽の専門学校に入りました。しかし、東京では専門学校にも行かずにパチスロに通っていました。思いのほか儲かり、東京から2年で静岡に戻って、その後も1年半くらいパチプロをしていました。

 2000年代中盤には、パチプロのかたわら派遣営業の仕事もしていました。インターネットプロバイダや有線の営業です。くじをひいてもらって「当たりました!」などと営業をするのですが、そもそも当たりしか入っていないのです。そんな営業をしていましたが、成績が良かったので派遣会社から正社員にならないかと誘われて、正社員になりました。

 ところが正社員になると、新潟支店へ転勤になりました。支店といっても、支店長にされた私とアルバイトの2人だけです。事務所兼住宅だったので、朝の6時から電話が鳴り、その日の仕事の手配が終わるのが深夜1時というハードな生活でした。

 また、そもそも広告で求人をするのですが、これは釣り広告で、実際には募集した内容の仕事はありません。2005~06年でしたが、その当時は新潟でも中高年の男性が仕事を探しに面接に来ていました。そのような働き盛りの人々に紹介する仕事はなく、とても心苦しかったのを覚えています。

 胃潰瘍になって1年で逃げるように静岡へ帰りました。その後、インターネットカフェで店長として働くようになりました。これが07~08年で、ネットカフェ難民が世の中で問題になった頃です。店にも、明らかに風呂に入っていないだろうと思われる中高年のお客さんがよく来ていました。話を聞いてみると、「この時期は水が冷たくて体が洗えない」と言うのです。風呂にさえも入れない人が身近にいるのかと衝撃でした。

 私にも、こうした問題に対してできることがあるのではないかと考え、店長をしながら夜回りをするようになりました。今は多少、社会保障制度がありますが当時は生活保護ぐらいしかなく、それを受けたくない人は本当に路頭に迷う状況でした。


© Business Journal 提供
 一方で彼らを食い物にしようとする貧困ビジネスも横行していました。生活保護などについて学び、生活に困窮している方をサポートし、なおかつ貧困ビジネスにしない方法としてNPOのことも勉強するため静岡県のボランティア協会に就職しました。ボランティア協会では、NPOの中間支援や助成金の仕組み、資金調達を教わりました。その結果、富士POPOLOハウス、フードバンクふじのくになどが立ち上がることになりました。

☆つりの広告の中高年の求人とか、ネットカフェ難民とかみんな知らないけどいまだにありますよね。

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