長い長い夜が明けたあと、ミニョンは勤務先であるマルシアンでキム次長に最後のあいさつをしていた。キムはミニョンとの別れが悲しくて、ずっとブツブツと文句を言っていた。握手を求めているのに、知らん顔して目も合わせない。せめて空港まで送らせろ、と言う次長に、ミニョンはこう言った。
「誰かに送られると決心が鈍って行けなくなりそうなんです。」
そして、もう一度握手しようと手を出した。それを聞いて、ミニョンも自分と同じくらい寂しいのだと分かったキム次長は、渋々とミニョンの手を握りしめるのだった。
ミニョンは別れ際に、ずっとこだわっていたパズルを眺めた。それは、ミニョンとして2度目にユジンと出会ったときに、最後のひとつのピースがなかった湖に小舟が浮かんでいるパズルだった。美しい水面、山々、風にそよぐ草たち、ひっそりと浮かぶ小舟、今見ても、このパズルは春川郊外にある南怡島を思い出す。たまらなく胸が締め付けられた。
「僕がパズルを好きな理由がわかりました。覚えておきたい記憶のかけらが沢山あるんです。でも、僕はそれに気が付かなかった、、、。馬鹿だなぁ。」
ミニョンは自分に言い聞かせるように呟くと、そっと部屋を出て行くのだった。そんなミニョンを、キム次長は悲しげな眼差しで見送るしかなかった。
その頃ユジンは勤務先のポラリスで先輩のチョンアと話をしていた。ユジンは久しぶりに事務所に顔を出して、資料をまとめて、新しい現場に持って行こうとしていた。するとチョンアが何かを差し出した。それは、ミニョンがついさっきユジンのために置いて行ったプレゼントだった。
「なあに?」
「何って、、、別れのプレゼントでしょう?」
「別れ?」
「もしかしてあんた、知らないの?理事はアメリカに帰るのよ?もうっ、あんたには伝えてあるって言ったのに、、、」
みるみるうちに顔色が変わって時計を凝視するユジンを見て、チョンアは声をかけた。
「ユジン、もう打ち合わせはいいから、空港に行ったら?12時の飛行機だからまだ間に合う。これが会うのが最後かもしれないから。」
しかし、ユジンははっと我に帰った。
「大丈夫。私が行ってもしょうがないもの。」
そして、プレゼントの包みをそっと開けた。すると、中には一枚のCDが入っていた。ユジンは手が止まり、チョンアは歓声を上げた。
「わあ、『初めて』のCDじゃない。あんた、昔は良く聴いてたわよね。」
ユジンは静かにCDをデッキに入れてボタンを押した。すると『初めて』の優しいメロディーが事務所に流れ始めた。悲しげな表情のユジンに、チョンアもまたため息をつくのだった。
ユジンがふとCDのケースを開くと、中からハラリと手紙が落ちてきた。そっと開くと、それはミニョンからの手紙だった。
『ユジンさん、僕は今飛行機の中です。立つ前にどうしてもこれを渡したかったんです。チュンサンみたいにピアノも弾けないし、録音も出来ないけど、どうか幸せになってください。』
ユジンの顔色がみるみる変わった。
「オンニ。彼が知るはずがない。だって誰にも言ってないもの。チュンサンが私にテープをくれたって。なのに、彼、知ってる、、、」
そう言うないなや、ユジンは事務所を飛び出した。そして急いでタクシーを捕まえると、空港に向かった。ユジンはタクシーの中でひたすらにミニョンに謝っていた。
「僕らしいって何ですか?」
苦しそうな顔で問いかけたミニョン。
南怡島で呆然とした顔で自分を見つめていた。まるで幽霊でも見ているような顔をして。今思えばあのとき、すでに自分がチュンサンだと知っていたに違いない。
「チュンサンのフリをするなんて。」と言うサンヒョクを殴ったときも、やり場のない怒りをかかえていたのだ。
電話で話したいから待っている、と言ったときも、なぜ自分は行かなかったのだろう。ミニョンはいつも正直に話してくれていた。求めていた答えは最初から今まで、ずっとそこにあったのに、自分は気が付かなかった、、、。今すぐにミニョンに、、、いやチュンサンに会って謝りたかった。
ユジンはタクシーから飛び出すと、空港内を走り回った。出発の時刻表にNY行きの便を見つけると、ターミナルを探して夢中でかけだした。空港は広すぎて、あらゆる人種の乗客たちが話す言語が、さざなみのようにこだましていた。あまりの人波に、ミニョンの姿は全く見えず、刻々と出発の時間は迫ってくる。ユジンはやみくもにミニョンの姿を追い続けた。
その頃ミニョンは、カフェでゆっくりとコーヒーを飲んで、搭乗口に向かおうとしていた。すると、そこに小学生ぐらいの女の子が退屈そうに座って、ぶらぶらと足を揺らしているのが見えた。ついに、女の子の黄色のショートブーツは脱げてしまい、ミニョンの目の前に転がってきた。ミニョンが微笑みながら、彼女にショートブーツを履かせてあげた瞬間、遠い過去のどこかで、同じようなことがあったのを思い出した。誰かの制服のスカートからのぞくすらっとした足に学生靴を履かせている自分、そのだれかは自分に笑いかけている、長くてまっすぐな黒髪が揺れて、、、髪の毛からとても良い香りがする、、、ユジン、、、ミニョンの心臓が、トクンと音を立てた。その時だった。背後で誰かが自分を呼ぶ声がした。
「チュンサン」
振り向くと、さっき遠い記憶で自分に微笑みかけたユジンがそこにいた。髪の毛は短くなって、目にいっぱい涙を溜めているけれども、それは今も昔も変わらないユジンだった。ユジンはそれ以上は何も言わずに、涙を流しながらゆっくりと近づいてきた。そして問いかけた。
「チュンサン、チュンサンなんでしょう?」
そして一瞬身体が崩れ落ちかけた。ミニョンは急いでユジンをささえて、今度はその瞳をしっかりと見つめた。ミニョンの目からもハラハラと涙がこぼれ落ちた。ついに、ユジンが自分を見つけてくれた。そして懐かしい名前で呼んでくれた。ミニョンの心は喜びでいっぱいだった。
「チュンサン、ごめんね。今まで気づかなくて本当にごめんなさい。」
ユジンはそう言うと、迷いもせずにミニョンを思い切り抱きしめた。ミニョンもまた、自分の肩越しでさめざめと泣くユジンをしっかりと抱き締めた。そして胸いっぱいにその懐かしい香りを吸い込んで、静かに目を閉じた。二人は広い空港でいつまでも抱きしめあっているのだった。