他のブログを書いていたら、uoutubeで岡村孝子が出てきた。なにの脈絡があるのかわからないが、岡村孝子について書きます。
岡村孝子はヤマハポプコン(ヤマハポピュラ-コンテスト)であみんという2人組みで名曲「待つわ」で優勝した当時はNSP 、谷山浩子、八神純子、渡辺真知子、中島みゆき、因幡晃、佐々木幸男、世良公則&ツイスト、佐野元春、長渕剛、円広志、大友裕子)、チャゲ&飛鳥、クリスタルキング、雅夢、伊藤敏博、アラジン、あみん、TOM★CAT、辛島美登里らのミュージシャンが優勝していたが、何故か泥臭くミュージシャンとは思えない2人が優勝したことが不思議であった。
しかし確かに惹きつけるものがあった。一時流行った「まちぶせ」に感じは似ているが。
しかし売れましたね。その後アルバムも出したが相棒の加藤晴子は「自分の才能のなさから、音楽業界は自分の居場所ではないと思うようになった」と語って、休養後芸能界から引退した。
しかし岡村孝子はまずまず音楽界で活躍できる逸材であった。
私は岡村孝子など興味は無かった。そして一人になってからそんなに活躍してるとは思わなかった。
何故私が岡村孝子のことを書いているかというと、私の妻が岡村孝子のファンでアルバムのCDを良く買っていたからである。
それでもそんなに好きになれなかった。しかし妻の思いは強くなって行き、コンサートに連れて行ってくれと頼まれた。
仕方なく承諾したが、コンサートがある時妻は朝6時くらいから出かけて、並んでコンサートの入場券を買ってきた。そこでそんなに人気があるのかと聞くと私あの時間に行って、私の後ろの人で売り切れたと言う。それも田舎で。
それからコンサートがあるときは必ず行くようになった。
人気は上がる一方で、大阪のコンサート会場の大手をすべて回れるほどの人気だった。
私は妻のために禁止行為であるビデオを大阪フェスティバルホールで取ってしまった。
どうどうと3脚をおいて取ったのだ。あくまでも妻のためである。
しかし悪いことはしてはいけませんねー。フェステバルホールで成功したので、大阪城ホールでまたしてしまった。
人ごみで取るのも大変だったが、見張りに見つかってジェスチャーでだめだとやっていたが無視していると、2,3人の関係者が私を引きずり出し、8ミリカメラからテープを取られ、かえるまで8ミリカメラも差し押さえ。
そんなことがあってかっこ悪くて妻を引きずり出して、途中で帰りました。
結局岡村孝子のファンにはなりきれなかったと言うこてですか。すみません。
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昨日ブログを書いている時、このグループの一生と、かかわった人々が凄いものだったことを知り、今日はザ・フォーク・クルセダーズ(以降「フォークル」と書きます。)の歩みを書きます。
1965年、当時大学生の加藤和彦がバンドを造ろうとの呼びかけに北山修が最初のメンバーになり、後3人が加わって5人で結成され、「世界中の民謡を紹介する」というコンセプトから「ザ・フォーク・クルセイダーズ」と名乗る。出入りがあり平沼義男、北山修、加藤和彦の3人になり、1967年解散する前に自主制作した「ハレンチ」に「帰ってきた酔っ払い」と「イムジン河」が入っていた。
第1回関西フォークキャンプコンサート(1967年京都・「神護寺」で行われ高石ともや、ザ・フォーク・クルセダーズ、中川五郎、真崎義博他らが参加。2年後の第3回には京都・「宝積寺」で3日し総勢300人の参加者で、東京から、小室等、六文銭の石川鷹彦、小林雄二、ブレッド&バターの岩沢幸矢、遠藤賢司、南正人、高田渡、ボロディラン、高石ともや、五つの赤い風船、岡林信康[4]、加川良、ジローズ、中川五郎、ザ・フォーク・クルセダーズ、豊田勇造、遠藤賢司、西岡たかし、杉田二郎、越智友嗣、ボロディラン(真崎義博)、金延幸子というすごいメンバーであった。)後解散した。
解散後ラジオでこの2曲が良くかかり、各レコード会社がスカウトに来て乗り気でなかった加藤が1年だけの契約でプロになり杉田次郎が入る予定がはしだのりひこが入った。「帰って来たヨッパライ」は1968年に開始されたオリコンで史上初のミリオンヒットになる「帰って来たヨッパライ」、「悲しくてやりきれない」などの楽曲を含むアルバム「紀元弐阡年」により世に「フォークル」の名を売った。しかし1年後大阪でのさよならコンサートのあと「11PM」に出演後解散。「青年は荒野をめざす」が最後のシングルで累計14億5000万円売り上げた。
フォークルのブレイクにより、松山猛、ザ・ムッシュ、ロック・キャンディーズ、ジローズなどが世に出るきっかけともなった。はしだのりひこは、「はしだのりひことシューベルツ」「はしだのりひことクライマックス」「はしだのりひことエンドレス」などを結成、解散を繰り返し、ソロ転向。
北山修は作詞家として大成功するも、大学院進学(京都府立医科大学医学部卒。医学博士。)を機にしばらく活動を中止する。
加藤和彦はソロに転向するが、やがてサディスティック・ミカ・バンド(加藤和彦、加藤ミカ、つのだ☆ひろ、高中正義というメンバー)を結成。加藤和彦と北山修のコンビでは、『あの素晴しい愛をもう一度』を発表した。加藤夫妻離婚後解散。その後加藤和彦、高中正義、高橋幸宏、後藤次利に坂本龍一、松任谷由実を加えた「サディスティック・ユーミン・バンド」。加藤和彦、高中正義、小原礼、高橋幸宏の4人に桐島かれん(ボーカル)を加えて Sadistic Mica Bandなどの活躍をした。
2002年、加藤和彦は北山修と再会。THE ALFEEの坂崎幸之助が加わり1度限りのコンサートを行った。
2006年「ポーク・クルセダーズ」と言う名前にて一夜限りのコンサートを行ったメンバーは加藤和彦とTHE ALFEEの坂崎幸之助、「足柄金太」の3人であるが、この「足柄金太」というのはファンに北山修と言うことがばれた。当時北山修は世界をまたに駆けた精神科医で公に出れなかったのだ。その後も時折再結成を行っており北山修はきたやまおさむという名で出演した。
しかし2009年10月17日の加藤の自殺をもって再集結は不可能となってしまった。
END。尚資料はWikipediaから運用しました。
私事ですが、8月8日は私の誕生日です。
私の知り合いが「誕生日なんてうれしくない。死に近づいているだけだ」とおっしゃった。
なんとマイナーな考えだと思いました。
その人は大阪大学哲学科卒業です。思考がやはり普通の人と違いますねー。
私は近大理工学部ですから頭の良さが違います。しかし本当の頭の良さは生まれつきもあります。
しかしこれはみんなに言いたい。本当の頭が良い人は心に余裕を持って、勉強するときも、仕事をするときも集中することです。心に余裕が無いときは、色々考えてしまいます。それでは集中も出来ないし、勉強も仕事もうまくいきません。人間はほとんどの脳みそを使っていません。
自分の限界だと思うほど勉強しても、だめなものはだめ。
たとえ心に余裕が無くても、それをとにかく解決しなければいけません。それは勢いですね。
そうしてうまく行く人、うまくいかない人に分かれます。
嫌な事も勢いでかたずける。どうしてもかたずけられないことがあれば、かたずけることが出来るまで悩まない事です。
先ほど書きましたが限界と書きましたが、使わない脳を使ってがんばれば限界は無いと思いますv。いつも自分の範囲で考えていては先にすすみません。
とにかく勢いで集中力を鍛えてゆけば、頭は良くなってきます。それが解ると勉強も仕事もうまくいきます。
まこういうのを使う手もありますが。これは何度も聞いていれば集中力がUPします。勉強にも仕事にも良いものです。成績UPしたい方は買うべきです。長い人生の転換期に。