長いですがまずこれを見てください。
1968年9月11日 静岡地裁が死刑判決
裁判官3人の中、最も有罪ではないのかと思った熊本典道元裁判官が主担となり、残りの裁判官2人
が死刑と決め付け、熊本典道元裁判官が主となり死刑判決。
弁護側が再三の再審請求。
熊本典道元裁判官自虐の念で退職。
そして調査を始めた。
警察の取調べ。
袴田への取調べは過酷をきわめ、炎天下で1日平均12時間、最長17時間にも及んだ。さらに取調べ室に便器を持ち込み
睡眠時も酒浸りの泥酔者の隣の部屋にわざと収容させ、その泥酔者にわざと大声を上げさせる等して一切の安眠もさせなかった。
そして勾留期限がせまってくると取調べはさらに過酷をきわめ、朝、昼、深夜問わず、2、3人がかりで棍棒で殴る蹴るの取調べに
なっていき、袴田は勾留期限3日前に自供した。取調担当の刑事達も当初は3、4人だったのが後に10人近くになっている。
- 1966年8月19日 - 取調べ(3回 計10時間30分)
- 1966年8月20日 - 取調べ(3回 計7時間23分)
- 1966年8月21日 - 取調べ(2回 計6時間5分)
- 1966年8月22日 - 取調べ(6回 計12時間)
- 1966年8月23日 - 取調べ(3回 計12時間50分)
- 1966年8月24日 - 取調べ(3回 計12時間7分)
- 1966年8月25日 - 取調べ(4回 計12時間7分)
- 1966年8月26日 - 取調べ(3回 計12時間26分)
- 1966年8月27日 - 取調べ(3回 計13時間17分)
- 1966年8月28日 - 取調べ(3回 計12時間32分)
- 1966年8月29日 - 取調べ(5回 計7時間19分)
- 1966年8月30日 - 取調べ(4回 計12時間47分)
- 1966年8月31日 - 取調べ(3回 計13時間18分)
- 1966年9月1日 - 取調べ(3回 計13時間18分)
- 1966年9月2日 - 取調べ(4回 計9時間15分)
- 1966年9月3日 - 取調べ(2回 計9時間50分)
- 1966年9月4日 - 取調べ(3回 計16時間20分)
- 1966年9月5日 - 取調べ(3回 計12時間50分)
- 1966年9月6日 - 取調べ(3回 計14時間40分)
- 1966年9月9日 - 静岡地検が強盗殺人罪、放火罪、窃盗罪で起訴。
犯行を頑強に否認していた袴田が勾留期限3日前に一転自白するがそれは取調べの恐怖から逃れるためだったのだろう。
2010年4月20日衆参両院議員による「袴田巌死刑囚救援議員連盟」設立総会を開催。
2011年8月 - 第二次再審請求審において静岡地裁は事件当日にはいていたとされるズボンの他、5点の衣類の再鑑定
をすることを決定したことが、弁護団などから明らかになった。
再鑑定の結果次第では再審の可能性があるとされた。
2014年3月27日 - 静岡地裁が再審開始と、死刑及び拘置の執行停止を決定した。袴田は同日午後に東京拘置所から
釈放された。
2014年8月5日 - 抗告審理で、弁護側の開示要求に対して検察側が一審当時から「存在しない」と主張し続けて来た、
袴田有罪の証拠“5点の衣類の写真”のネガフィルムが、実際には警察で保管されていた事が判明。
袴田は30歳で逮捕されて以来45年以上にわたり拘束されいつ行われるかも知れない死刑の恐怖、無念。
苦しんだ熊本さんは7年前、守秘義務を破って異例の告白をしました。この中では、警察の厳しい取り調べで、袴田さんがうその
自白を強いられたと見ていたこと、無罪にしようとしたが、ほかの裁判官を説得できず、心ならずも死刑判決を書いたこと
を明らかにしました」と指摘した。
週刊現代は、袴田事件裁判にかかわった裁判官・刑事・検事を実名であげ、その裁判の不当さを批判した。
裁判所が警察・検察とグルになって、袴田さんを殺人犯に仕立て上げた構図が浮かび上がる、と表現している。