スティーブ・ジョブズ(本命スティーブン・ポール・ジョブズ)は13才にして夢のHP
(ヒューレット・パッカード)社にアルバイトとして働き、高校時代友とオリジナルのブルー
・ボックス(無料長距離電話)を作り売った。大学は入ったがすぐ中退した。
しかし中退後もリード大学の哲学など興味のあるクラスだけを聴講するもぐり学生で、
合計18ヶ月をリード大学に費やした。
ジョブスは「自分探し」するため、ビデオゲーム製作会社アタリに「雇ってくれるまで
帰らない」と言いトップのブッシュネルに気にいられ入社し費用を作り「自分探し」後
アタリに複職しブッシュネルに人気ゲームブロックくずしの儲けを増すため回路の
部品減らしを命じられウォズニアックに山分けで頼み5000ドル受け取り、ブッシュネル
には700ドルと言い350ドル渡した。
復職した時代にAltair8800というコンピュータ・キットが人気でウォズApple Iを売り出
した。その後1977年1月3日インテルの社員マイク・マークラと3人でAppleコンピュータ社
を作った。4人目の社員は後に社長となるNSの中堅社員マイク・スコットを引きぬいた。
ウォズは独力でApple Iの再設計、同年Apple IIを6月5日、1,298ドルで販売を
始めた。1984年には200万台を超える売り上げで、莫大な利益をアップルにもたらした。
しかしIBMがPCを発売し、AppleはLisa(リサ)・プロジェクと新しく入社したジェフ・
ラスキンは誰にでも扱えるMacintoshプロジェクトも開始され、ジョブは勝手過ぎる
態度から社長スコットにLisaプロジェクトから外され、Macintoshプロジェクトに入った。
その後プロジェクトを始めたラスキンとジョブズの考えの違いから対立し、役員は
ラスキンを切った。ジョブズの理想の高さから5年係りMacintoshがデビューした
のは1984年であった。
しかしアップルは業績不振で、ジョブズは会長職以外、アップルでのすべての仕事を
剥奪されジョブズは、理想のコンピュータ像を求めて大学を歩いて回った際に、スタン
フォード大学でノーベル賞受賞者生物学者ポール・バーグと一緒に昼食を取った時
DNA組み替え実験の難しさの話題が上がりジョブズはバーグへコンピュータでのシ
ミュレーションを提案し、ジョブズは、新しい会社NeXTを立ち上げるために、正式
にスカリー宛てに辞表を送付して決算報告を受け取るため1株だけを除いて、当時
所有していたアップルの約650万株をすべて売却しジョブズは700万ドルをNeXT
に投資し、1987年までには新しい製品が投入出来ると思ったが実際にNeXTの製品
(NeXTcube) を発表出来たのは1988年秋で、最終版の出荷は、1989年になって
のことだった。
発表当初からNeXTの評価は高かったものの、ジョブズの強硬な主張によって、
生産コストが高くその他のハードウェアと直接的に接続することが出来ないなどの
理由で1992年にIBM互換機で動作するNEXTSTEPのPCバージョンが発表された。
しかし1993年2月には全社員530人のうち280人をカット、ハードウェア部門をキヤ
ノンに売却し、NeXTはソフトウェア会社へと転じることとなる。
NeXT社の仕事の一方で、ジョブズは、1986年2月7日に、ルーカスフィルムの
コンピュータ関連部門を1000万ドルで買収し、CEOの座に就いた。ピクサーの主要
商品は、レンダリングソフトであり、約10万本のセールスを記録し『ジュラシックパーク』
のコンピュータグラフィックス制作でも使われた。
ジョブズは、ピクサーにあまり口出ししなかったが、手っ取り早く利益があげられるコンテ
ンツ作成を、ピクサー社のメンバーに提案した。
1991年、ピクサーは、ディズニーにCGアニメーション映画作成の売り込みを行い、
同年3月契約を結んだ結果、4年の歳月、70台のSGIワークステーション、117台の
SUNワークステーションを使った、全編C.Gのアニメ映画『トイ・ストーリー』が、1995年
11月22日に封切られた。公開までの4年間ジョブズはピクサーに5000万ドルを投資
していたがトイ・ストーリー公開直後に、ピクサーは株式上場、またもジョブズは多額の
資産を手に入れることになった。
2006年5月ディズニーはピクサーを買収しディズニーの完全子会社となった。
また、ジョブズ自身も、ディズニーの個人筆頭株主(持株率約7%)になると同時に、
ディズニーの役員に就任した。
ジョブズは1996の暮、アップルが自社内でのOS開発が暗礁に乗り上げ次期OSの
基本技術を外部に求めているという話を聞きアップルにNEXTSTEPを売り込むべく、
当時アップルのCEOだったギル・アメリオに電話をかけた。12月上旬1985年の退社
以来アップルを訪れ、アメリオやマークラ達と話し合いを持ち、簡単なプレゼンテーション
を行った。アメリオは後に、この時のジョブズの対応を愛想の非常に良い、好感の持て
るものだったと言っている。
アメリオとアップルCTOのエレン・ハンコックは、次世代Mac OSの候補として、Be社
の BeOSサン・マイクロシステムズ社のソラリス、マイクロソフト社の WindowsNT
、NEXTSTEPの4つを挙げていた。元々アメリオは、ワークステーションやサーバで用
いられ、堅実に動作するUNIXの中でも、特にカーネギー大学で開発されたMachに目
を奪われていた。そして、そのMachについて調べて行くうちに行き着いたのが、
NEXTSTEPであった。NEXTSTEPの高い信頼性、先進的な機能、特にWebObjects
の出来に感動し、ジョブズの売り込みがなくても、交渉は行うつもりだった。
同年12月20日アップルがNeXT社を4億ドルで買収することに合意、次期OSの基盤
技術としてNEXTSTEPを採用すると発表した。ジョブズはアップルに非常勤顧問
という形で復帰した。
8月に、ボストンで開催されたMacworld Conference & Expoでは、議決権のない
株式譲渡と技術提携(特許裁判をしないための条件)という名目を条件に、マイクロソフト
から1億5000万ドルの資金提供と、マック版のマイクロソフトオフィスとインターネット
エクスプローラの提供を受けることを柱とした、業務提携を発表する。
最大のライバルとされたビル・ゲイツが、エキスポのゲストとしてスクリーンに
登場すると、何も知らなかった観客にはブーイングする者も多く、複雑な心境で
その様子を見つめていた。しかし、この提携が一定の役割を果たしたのは事実で、
その後PDAのニュートン事業の清算を始めアップル社内の大規模なリストラを行った。
前後して、パワー・コンピューティングを買収してインターネット直売事業への参入 (Apple
Online Store)を行い、Macintosh互換機メーカーへのMac OSライセンスを停止、
利益率の高いPowerPC G3搭載機種を市場に独占投入。こうした矢継ぎ早の改革により、
アップルの再建を軌道に乗せた。1998年には、iMacを市場に投入、斬新なコンセプトが
話題を呼び、アップルの復活を人々に強く印象づけた。
2000年には、それまで拒否していたCEO就任を、正式に受諾。2001年3月、
NeXTとアップルの技術を融合させ、オープンソース由来の技術を積極的に取り込
んだMac OS Xを発売。従来のMac OSの後継とした。
同年、iTunesとiPodによって音楽事業に参入、音楽事業をパソコンと並ぶアップル
の事業の柱にした。2007年1月9日、Macworld 初日の基調講演にてジョブズが
iPhone発表、アップルはNewton撤退以来9年ぶりに携帯コンピュータ事業に復帰する。
iPhoneはスマートフォンを再定義する製品となり、ジョブズがCEOを退任する2011年まで
、携帯電話事業はアップルの総売上高の5割を占めるまでに成長した。
2003年、膵臓癌と診断されたが、幸いにも治療可能なので、医学的治療は遅れ、
9か月後の検査で癌が大きくなり8月に摘出手術を受け療養後復帰した。
2005年スタンフォード大学の卒業式に招かれ、「Stay hungry, stay foolish」
という言葉で締めくくられたそのスピーチは多くの共感を持って迎えられた。
2008年6月9日、第二世代iPhone(3G)発表時に痩せた姿で登場し、同年9月10日
の第四世代iPod nano発表時に健康面に触れ、「自分の死亡説を流すのはやりすぎだ」
と、健康不安についての臆測を一掃したが実際には2008年に肝臓への癌の転移が
判明していて容態は深刻な状況で2009年1月6日に、「体重減少はホルモン異常の
ため」との書簡を発表し、重病説や辞任説を否定し「アップルのCEOとしての義務遂行
が継続できなくなったら、最初に取締役会に話す」と宣言したが、1月14日に「6月末まで
治療に専念」するためのCEO休職を発表した。6月23日の公式発表によると、良好に
回復しているということであったが実際には2009年3月に肝臓の移植手術を受けていて
、一旦体調は回復し、2010年5月にはお忍びで京都に家族旅行に出かけるなどしてい
たが、取締役会の承認を受けて会長職へ就いた。ジョブズがCEOを退任する8月には、
アップルは時価総額でエクソンモービルを抜き、世界最大の企業となっていた。
すでにこの時ジョブズは自力では歩くことができず、車イスで取締役会に駆けつけた。
そしてティム・クックら幹部社員を部屋から退出させた上で、社外取締役に対し上記の
内容のメッセージを読み上げた。この時社外取締役の一人は涙を流していたという。
2011年10月5日、膵臓腫瘍の転移による呼吸停止により妻や親族に看取られながら
パロアルトの自宅で死去。 56歳没。正確な死亡時刻はアップルからは公表されなか
ったが、当局の死亡証明書を取得したロイターやCNN等により現地時間5日15時頃
(日本時間の6日7時頃)と判明した。遺体は7日パロアルトの無宗派墓地に埋葬された。
死去前日(10月4日)の午前中にiPhone 4Sの正式発表が行われていて、かろうじて
その発表を見届けてからの死去となった。長年ライバル関係であったが30年来の良き
友人でもあったビル・ゲイツを始めとする世界中の業界関係者からその死を惜しむ声が
相次ぎ、バラク・オバマアメリカ合衆国大統領も弔意を表明した。
ブダペストのグラフィソフトパークに建立されたジョブズの像ArchiCADなどの建築CAD
ソフトウェアを手がけるグラフィソフトでは、同年12月21日、ハンガリーの彫刻家であ
るErno Tothによって彫られたジョブズの銅像をブダペストのグラフィソフトパークに
建立した。同社は創業期以来、商品の開発および販売面でジョブズ率いるアップルか
ら支援を受けており、同社の本社があるグラフィソフトパークはジョブズの魂を追悼する
のに最もふさわしい場所であるという。
技術だけでない、人生その物だった。
wikiの一部を転載さしてもらいました。