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古本には、物念や想念や微生物がいる

2016-09-22 19:26:19 | 日記


私は古本が大好きでして、そのおかげでたくさんの本を読ませて頂きました。
一時は半端なく書籍が増え続け、自分の部屋では置き場所が無くなってしまいました。
景山民夫氏のボルネオホテル (角川ホラー文庫)のように、本当に怖さを感じるものは感じますし、体がかゆくなってくる本もありましたので、その後は、これまたたくさん処分しました~って、それじゃダメじゃん春風亭昇太です~(爆)

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古本に付着する「物念」や「前所有者の想念」

今は、本を買うにも「アマゾン(ネット通販サイト)」等で買っている人も多いと思うし、私自身も、新聞の広告等から買うものを決めていることが多いのです。 昔は、実際に本屋へ行って一冊一冊買っていた時代もありました。《中略》
学生時代までであれば、古本屋で本を選んで買い、読むことができたのですが、霊体質になってからは、どういうわけか、古本を読むのが駄目になってしまいました(笑)。 霊的に過敏になっているからかもしれませんが、いわゆる古道具屋の道具を買うのと同じように、「物念」、物の念を感じる場合もあるし、「前の所有者の想念」を感じる場合もあります。 あとは、古い本になるとシミがあり、微生物がたくさんいるので、読んでいるうちに体が痒くて痒くてしかたがなくなるのです。昔はそれほど痒い感じがしなかったのに、今は小さいものが這い上がってくるのを感じるのです。 これも霊能力なのかどうか、私には十分に分かりませんが、どうも、そうなのではないかと思います。微生物の感覚が伝わってくるのです。生き物ではあるのでしょうけれども、感じるものがあるので、古本が読めなくなり、知的な面では〝マイナス〟が出ています。 《中略》しかたなく古本を注文した場合には、秘書にコピー製本をしてもらうこともあります。手間がかかって申し訳ないのですけれども、コピー製本をすれば、少なくともシミやダニ等は避けられるので、そういうお願いをすることもあるのです。



死んだ著者の霊が来てしまうこともある
なかには、コピー製本をしても、何だか気持ちの悪いものもありますが、これは、もしかすると、死んだ著者の霊が来ている可能性もあります。 《中略》
十年ほど前だったか、「やっぱり、もう少し、悪の研究もしなければいけないかな。悪の研究や犯罪の研究もしないと、宗教家として駄目かな」と思い、その離れた書庫から松本清張の全集を取り寄せたことがありました。 研究に当たり、「とりあえず伝記みたいなものも読んだほうがいいかな」と思い、本人の人生を書いた自伝を読み始めたところ、半分も読まないうちに本人(霊)が出てきてしまい、「うーん、これは困ったなあ」ということになりました(笑)。
当会で霊言を録ったこともありましたが(地獄の条件─松本清張・霊界の深層海流)、その人の本は読めないのです。勉強をしたかったのに、著者が出てきて居座られると、読めなくなってしまいます。おそらく、読者はたくさんいるはずなのに、ほかに行くところがないのでしょう。 犯罪ばかり書いているうちに、犯罪者が死後に行く世界と自分の心が同通していたと思われます。本の創作においても、そのようなテーマばかり書いていたら、そういうことになるでしょう。心が暗くなっていても、自分ではそれが普通だと思っていたのでしょうから、死んでから行く世界は、やはり、そういった人たちが行っている世界へ行くことになります。 このように、この世的には大作家であり、かなり高額の収入もあったでしょうし、努力においても非常に頑張った部分があるとは思うのですけれども、「読めない」ということもありました。」


霊的なものを信じなかった仏教学者・宗教学者の死後

仏教学者の中村元の先生であった人についても、貴重な古本で厚い全集があり、買ってはいたのですけれども、どうしても読めませんでした。
東大名誉教授の宇井伯寿という人で、文化勲章等をもらっている偉い偉い学者なのですが、どこを読んでも本人が出てくるので、どうしても読めません。
日本の仏教を間違わせた張本人のような人で、サンスクリット語等の昔の言葉を通じて、文献学的、考古学的にいろいろとインド仏教を研究し、「最古層のものほど真実だ」というような感じで仏教学を組み立てた人です。中村元先生の師に当たります。
この人が、魂のようなものを完全に頭から否定しているのです。「いろいろな神秘現象のようなものは、みな、戯言であって、よくある新興宗教と同じような方便でしょう。奇跡など、麗々しく書いて物語にしているだけで、ありはしない。そんなものはすべて取り払わなければいけないんだ」という立場でした。 あくまでも考古学的な史料や文献となっているものだけに基づき、言語学的に解析して仏教学をつくったのでしょうけれども、完全に唯物論・無神論の仏教になっています。
何か犯罪を犯しているわけでもなく、学者として生きていて、この世的には偉い人なのだろうとは思いますが、結局、地獄へ堕ちているのです。
言わば、「論語読みの論語知らず」と同じように、「仏教書読みの仏教知らず」でしょう。要するに、仏教を学んでいるにもかかわらず、「釈迦は無神論・唯物論・無霊魂説を説いた」と思っていて、その言葉だけを一生懸命に追っていたわけです。

同じようなことは、東大の名誉教授で宗教学者の岸本英夫という人にもありました。ハーバード大学で宗教学を勉強して帰ってきて、宗教学では有名な人であり、東大附属図書館の館長も務めたものの、ガンに罹っています。そして、宗教学を学んだ悟りとして何があったかといえば、「とにかく、死ぬまでの間、一生懸命に生きることが大事なのだ」というような〝悟り〟を得たようです。 この人を尊敬している方も多いのですが、それは、宗教学を学びながらも、あの世を信じておらず、魂を信じておらず、霊的なものをまったく信じていない人生でした。
要するに、頭の知、知識のほうが立ってしまい、知識的にのみ宗教を理解しようとした人の最期だったのです。 このような生き方をした人は、あの世に還ったあと、自分の居場所の説明もできないことになります。自分がなぜここにいるかも分からない、心を失った宗教学というものは、結局、そういうことになってしまうわけです(悲劇としての宗教学)。
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