検証 日本の統治 vs. 欧米の植民地
アジアを繁栄させた日本
- 戦後70年企画 日本の誇りを取り戻そう2015.02.27
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朝鮮統治を担った朝鮮総督府のトップは、首相候補や大将級の一流人材が務めた。
宮中行事の席次では第6位に位置づけられ、当時の日本は朝鮮を大切にした。
それは政府の対応にも見られる。日本は、現在価値に換算して60兆円を超える資金を持ち出し、朝鮮のインフラやコメの増産、近代的な医療制度などを整えた。税率も内地よりも低めにした結果、20年から30年代の経済成長率は平均約4%を記録。これは当時の日本や欧州を超える高度経済成長だ。それに伴い、1944年の朝鮮の税収も約28億円に急増し(上図)、餓死者や犯罪者も激減した。
評論家の黄文雄氏は「半島経営で"搾取"されたのは、むしろ日本人のほうだった」と指摘する。
戦後、三星や現代などの財閥が韓国経済を牽引してきたが、韓国財閥の上位50グループの創始者のうち、約6割が日本の統治時代にビジネスを学んだ。
日本は朝鮮に資本主義の精神を教えたと言える。
聖者と慕われた重松髜修(まさなお)
朝鮮を平等に扱ったばかりか、日本人が現地人に尽くしたエピソード。
1915年、重松髜修は、貧しい朝鮮人を救いたいという熱い思いに動かされ、朝鮮総督府の役人になった。持ち前の語学力を活かし、現地人とすぐに打ち解けたが、19年に起きた独立運動の暴徒に銃撃され、右足に障害を負う。
しかし、重松は「残る不具の半生を半島農民のために捧げよう」という思いを変えず、その後、農民の副業として養鶏を広め、わずか2年で卵の生産数が約60倍に増えた。豊かになった農民が重松の頌徳碑を建立するなど、聖者として慕われた。
ところが終戦になると、総督府の役人であったことから、重松は逮捕されてしまう。厳しい取り調べが続く中、ある検事が重松と2人きりになった途端、「先生、私を覚えていませんか。先生の(養鶏での)卵の貯金で学校に行った金東順です」と切り出した。
金は学力が優秀だったが、家庭が貧乏であったために、学校をやめようとしていたところ、重松が現れ、母親に鶏を譲り、学校をやめさせるべきでないと説得したおかげで、今があるという。
「先生は必ず私が守ります」と金は語り、実際に重松は無事釈放された。その後も金は、重松が帰国するまで食料を届け、面倒を見続けた。
写真参考:1945朝鮮景気減速の理由
1945年3月10日 東京大空襲
1945年8月15日、日本の無条件降伏が発表、35年にわたる朝鮮統治が終了。
朝鮮の人々は、この日を光復節として祝ったが、日本軍が撤退すると入れ替わりに、ただちに南部にはアメリカ軍が、北部にはソ連軍が進駐。こうして、米ソがにらみ合う中、朝鮮の分断は次第に固定化
1948年、南の大韓民国と北の朝鮮民主主義人民共和国という分断国家として独立することとなる。