LIFE IS GOOD! うろうろ人生旅日記

20代はいろんな国を歩き30代はサラリーマン。40で早期退職に手を挙げた。現在訪問69か国+1。只今バンコクで生活中。

LUNGFUNGのアメリカンチョプシー

1998年02月04日 | パキスタン・インド日記
2月4日 (水) カルカッタ (HOTEL MARIA)

7:30AM石田君サルベーションから引越ししてくる。昨夜は12人中、一人の男がウシガエルであった。隣のベッドは韓国人女性、相撲のキョクシュウ山にそっくりだった。

午前中ジーンズ、ネルシャツを洗濯。洗剤を落とすとすぐに真っ黒い水になった。朝ご飯はいつものZURICHレストランでトースト、アイスコーヒー(23rs)。朝は晴れていたのに昼前急に風が出てきて雷雨になる。こんなに激しい雨が降ったのは今日が初めてだ。すぐに洗濯物を取り込みドミで雨が上がるのを「こちら葛飾区亀有公園前派出所」を読みながら待つ。

雨は30分ほどで上がり航空券をとりにいくと「2時って言っただろ」というので「12時っていうたわボケ」と言うと「あ、雨で遅くなっている、2時ね、2時」と言われた。その後郵便局へ行き昨日書いたはがきを出した。2時に戻ると航空券が届いていた。

この後マザーハウスへ歩いていった。建物の中に入るとミサの最中、なんとなく不思議な気持ちでそれを見つめていた。去年の9月5日までマザーテレサはここにいたのだ。今はここに墓があるだけ。主人のいなくなった家族のようであった。あるおばあさんがアルミでできたペンダントとカードをくれた。ついつい4枚ももらってしまった。できればもうすこし早くここにきてマザーテレサに会ってみたかった。10分ほどで出てきたが不思議にきれいな気持ちになったようなすがすがしさがあった。インド人の行動にいちいちむかついて怒鳴りつけたりするのがとんでもなく馬鹿らしいことのように思えてきた。

ここで石田君と別れ地下鉄に乗りチャドニーチョークのインディアンエアーラインの空港行きバス乗り場を調べに行った。うとりあえずチケットを確認してもらったらリファレンス番号があっていないなどと言われちょっとあせる。バスはここから出ていないとのこと。地下鉄ですぐ戻った。日本の感覚では地下鉄はすぐ来るものというイメージがあるが、もちろんここはそうではなく10分以上待たされた。バスにしておけばよかった。

午後6時30分頃、石田君とインド最後のご飯にでかける。いつものLUNGFUNGでいつものじじいにいつものアメリカンチョプシーを頼む。今夜は最後なので調子に乗ってモモ、VEG FRIED RICEも注文。モモはおいしかったがチャーハンは魚くさくていただけず。じじいがおつり1rsを店に黙ってくすねていた。でも愛嬌のある憎めないいいじじいで最後なので一緒に記念撮影もした。

明日はバンコクに飛ぶ。今考えてみるともう少し後でもよかったかな、という気がしてならない。今ではインド人にも慣れ、気にならなくなってきたところだ。(レストランが込んできて待つ人まで出てきたので追い出されるように店を出る)

屋台でチャイを飲んでいると経った今カルカッタについた日本人が宿探しに奔走していた。今はどこもいっぱいで難しいみたいだ。ついに学生どもの春休みが始まったようだ。夜11時、水シャワーを浴びる。12人のうち11人が日本人、後の一人は韓国人、なんか暗い奴が多く雰囲気が悪い。インド人もロクナノがいないが、訪れる奴らもたいしたことないのが多いようだ。石田君は俺がいなくなると孤立するとぼやいていた。

カーリー寺院

1998年02月03日 | パキスタン・インド日記
2月3日 (火) カルカッタ (HOTEL MARIA)

7:30起床。昨夜つけおきした洗濯物をすすぐ。フロントに行きドミトリーにかえてもらうとそこは日本人でいっぱいだった。9時過ぎサルベーションに行き石田君と会いドミの日本人と3人で朝食。

航空券を取ろうと昨夜訪れたスタートラベルに行くが、今日カルカッタは何らかのストライキに入っておりドゥルックエアーに通じず、パスポートコピーが必要だというので開いているほかの店を探した。その後違う旅行会社に行くと木曜日のドゥルックは一杯だ(ほんまか嘘か知らんけど)、というので機体の大きいインディアンエアー(5000rs)を頼んだ。

インド博物館にも行ってみたが、何も興味をかきたてるものも無くすぐ出てきて、地下鉄に乗り(PARK ST-カーリーガート2rs)羊の首を落とす事で有名なカーリー寺院にいく。これまた特にコメント無し。

街はストライキで昨日の活気が全く無かった。宿に戻り冷たいシャワーを浴びる。4pmいつものZURICH RESTAURANTで石田君と待ち合わせし、一度マリアに戻った後6時過ぎ夕飯を食べようともう一つの中華レストラン「香港」に行き席につくが、メニューを見たら高かったので席を立ち、昨日の食堂に行きアメリカンチョプシー(38rs)を食べた。うまい!インドNo1チョプシーの称号をここに与えよう。このあとまんま浮浪者姿の石田君、髪を切ってすっきりして

今日3回目のZURICH RESTAURANTに。チョコバナナパンケーキ(20rs)を食べる。後から同じ席に日本人2人座ってきて4人で喋る。夜軽く水シャワーを浴びたが少し暑く寝苦しく感じた。今夜は男7人、女5人。喉が少し変だ。誰か分からんがこのドミには1人ウシガエルがいる。

カルカッタ到着

1998年02月02日 | パキスタン・インド日記
2月2日 (月) -カルカッタ (HOTEL MARIA)

朝7時過ぎに目が覚めたが、寝袋に入ったまま窓からの景色を眺めていた。まだガラスは2重以上になってる上に傷つき汚れているので外の様子ははっきり見えなかった。英字新聞、アップルジュースと配られ9:10AM朝食。卵焼き、ラスク、バナナ、ケーキ、チャイ。

上のベッドでは賢そうな(昨日から彼女が英語を喋るのは分かっていた)インド人にサダルストリートにはどうやっていけばいいか聞いた。もちろんこちらとしては連れていってくれる事をあらかじめ頭に描いての行動だった。すると彼女は「タクシーでその向こうまで行くから一緒にどうぞ」と言ってくれた。思ったとおりだった。多分カルカッタは暑いだろうと思い、駅に着く前Tシャツに着替えた。意外にラジダニの17時間30分は早く終わった。

10:50AMほぼ定刻でカルカッタ・ハウラー駅到着。彼女はポーターに荷物を持たせ(20rsも払っていた)駅出口へ。外は夏の陽気でじっとり汗がにじんでくる。彼女はタクシーの運ちゃんと2,3言話し私を乗せてくれた。タクシーは他に2人のインド人も乗せ出発。ハウラーブリッジを通り、カルカッタ市街へ。どこを見てもすごい人、渋滞でカルカッタにたどり着いた事を強烈に感じた。サダルの前のインド博物館の前でおろしてもらうまえに彼女(政府関係の仕事をしているとのこと)とは住所交換をし今回の旅で始めてインド人女性と握手をしてサヨナラした(タダだった)。上流の人は、その他大勢のインド人とは大きく違うのであった。

インド博物館横の通りは安宿の並ぶサダルストリート。バラナシからデリーまで一緒だった石田君と再会できるかどうか分からなかったがとりあえず泊まると聞いていたサルベーションアーミーへ行き台帳を調べていると名前があった。部屋まで行くと荷物があったが奴はいなかった。部屋を出ると階段から奴が下りてきて2週間ぶりの再会。

サルベーションにはベッドが開いていなかったので宿探し。8,9軒当たってみたがどこもシングルは一杯、または高かった。結局ホテルマリアの高いシングルに泊まらざるを得なかった。180rsも取られて一体どんな部屋かと思いながら行ってびっくり、監獄のような部屋だった。

2人で街ブラ。まず屋台のようなところで焼き飯。一度宿に戻り水シャワーでさっぱりしてニューマーケットへ行ったが何にも無くすぐでた。食堂でコーラを飲んでビクトリア記念堂、カルカッタ公園、ではたくさんの人々がそれぞれ楽しく過ごしていた。夕食はガイドブックを読んでとても行ってみたかった中華レストランのHOW HUAへ。日本の味と同じという触れ込みであったが、そのとうり。酢豚、中華丼(あとコーラで96rs)とおいしくいただけた。今9pmレストランを代え、バナナラッシー、コーヒーを飲みながら書いている。

今次なる問題が起きている。それはバンコク(航空券代4600rs)へ行くか、シンガポール(7500rs)へ飛ぶかである。今夜は1月5日以来の久々のシングルルームである。

ラジダニ・エクスプレス

1998年02月01日 | パキスタン・インド日記
2月1日 (日) -ニューデリー- (夜行列車)

隣のベッドはガマガエルであった。普通では考えられないようなおおいびきで発作を起こして死ぬんじゃないかというぐらいうるさくベッドに蹴りを入れようが、チェーンを叩き付けても一向におさまらなかった。ガマガエルはこいつだけではなく、周りのいたるところからの大合唱で、またまた気が触れそうになる。ウォークマンを最大ボリュームで聞いてもクソジジイのいびきが聞こえなくなる事はなかった。それでもどうにかこうにか寝ることができ朝7時前寝袋を詰め直す。

私のすごいところは思った時間に目覚し時計をかけなくても起きられる事だ。この列車はボンベイ行きなので寝過ごすとまずいのだがうまくちょうどいい頃にはきちんと目が覚める。定刻より10分ほど遅れてニューデリー到着。この後ジャイサルメールに行くか、とっととカルカッタに向かうか迷いながらHOTEL HARERAMAへ。ここは24時間チェックアウト制なので朝はいると朝でなくてはいけない。今日デリーで一泊すべきか?ホットシャワーも浴びたい。だがシングル150rsは高すぎる。

あー、どうしよう、どうしようと思いながらとりあえず荷物はラゲージストア屋に預けた。ニューデリー駅2回の外人用予約室に行くと日曜日で閉まっていて「あかん、今日はスタックや!」と思い宿を探そうとメインバザールに戻ってくる。

前回2回いったチョプシーのうまい中華系食堂で列車時刻表をめくっているとカルカッタ・ハウラー行きの特急を発見。再度駅に戻り今度は通常の窓口へ直行。するとこの列車は既に一杯との事。しかしまだ取れる可能性は十分あるというので(44番目のキャンセル待ちらしい)金を払って(ラジダニ・エクスプレス1120rs)午後2時の確認しにこいといわれた。駅に行く前20ドル(740rs)両替しておいて良かった。行ってなかったらもう一度往復しなくては行けないところであった。

駅、メインバザールで歩いているといろんな客引きが声をかけてくる。ツーリストインフォメーション、ホテル、ハシシ、マネーチェンジ、土産屋、こいつらは本当にただのあほだ。あまりにあほすぎる。とても人間としてあつかえない。教育を受けずに成長するとこうなるといういい見本だ。1日中ツーリストに声をかける、ただそれだけの人生である。詐欺師として生きる毎日はその表情にどうしようもない卑屈さを浮かびあがらせる。

2週間ぶりにデリーに帰ってきたが暑くなってるような気がする。Tシャツ1枚で十分だ。午後1:40駅に行く。チケットが取れた。さあこれから時間をつぶすのが大変である。ハレラマの屋上のレモンティーに続いて道端のレストランでコーラ。今朝ニューデリーに着いてもう3軒目である。

ハレラマの屋上で再度時間をつぶして午後4時荷物を取りに行く。そこで鋸のようなもので鍵を無くして用の無くなったただ重いだけのチェーンを切ってもらった。まさか切るものなんて持っていないだろうと思って聞いたのだが、その鋸を目の着かないところに隠していた。まさか客の荷物に手を出してるんじゃないだろうな。

4:40pm10番プラットフォームに着くとちょうど列車が入ってきた。インドの誇るラジダニ・エキスプレスだからさぞかしご立派なのだろうと期待してたら何てことない、他の列車とまったく変わらなかった。車内もほとんど変わらない。違うのは電灯の代わりに蛍光灯が使われ明るいのと、鏡が貼られている事ぐらいだ。あともう一つの大きな違いは客層である。あまりに値段が高いために金を持っている人しか乗れないということが姿を一目見れば明白だ。

AS7号車の55番に行くともう一人のジジイが同じ番号を持っていた。今のところ2人で1つのBERTHを使っている。只今8:05pm水筒に入ったチャイ、コーヒー、スープ、お菓子のスティック、ミネラルウォーター1本がサーブされた。8:25pmジジイが他の場所に移りようやくこの場所が俺だけのものになった。なかなかうまく英語を使ういいジジイだった。

9:10pm夕食が運ばれてくる。ベジ、ノンベジから選べ、ノンベジを選んだら骨付きチキンカレーのターリーだった。とりあえず食べ終え、寝る用意をする。皆、食べ終えると追い立てられるように準備に入った。枕、シーツ、毛布は支給されたが自分の寝袋の方が清潔そうなので使わなかった。マットの一部を荷物を置くのに使っていた為足が完全に伸ばせず、窮屈な体制で寝ざるを得なかった。ウォークマンを聞きながらいつのまにか眠りに落ちていた。

今回の列車は、上のベッドに上流階級インド人女性、すぐ隣に4人の欧米人女性、他の場所にもそのグループの一部、目の前にファミリー(子供3人の女の子、ほとんど黒人、お母さん子供をよくしばく)がいて、なかなか安心できる雰囲気だ。何といっても高級列車なので貧乏くさくないのがいい。

アムリトサル2

1998年01月31日 | パキスタン・インド日記
1月31日 (土) アムリトサル- (夜行列車)

11時前起床。とっくに目は覚めていたのだが起きられなかった。3人目が覚めた所で両替に出向く。昨日も行ったPANJAB BANKは両替してもらえず聞いていったBANK OF INDIAは12:15に行ったら12時までといわれ、結局インド銀行ちかくの両替屋で若干レートは悪かったが、現金が無いとチケットが変えないのでしょうがなく30ドル(1115RS)替えた。

すぐリクシャにのり1人でアムリトサル駅へ。今夜のデリー行きを手に入れまたリクシャーに乗ってゴールデンテンプルに戻った。部屋でロッカーから日記帳を取り出し書いているところに他の2人も戻ってきて、また昨夜の足の臭い奴も帰ってきたうるさく喋るので祐司君と2人でチャイ屋に逃げてきてこれを書いている。

目の前にはターバンを巻いた姿が滑稽な欧米人女性(その国の色に染まろうとするのはまことに素晴らしい事ではあるが笑える)、後ろには同室のスペイン人がいる。彼は相変わらずうるさく他の外人と喋っている。宿に戻ると中根さんがいなかったので帰ってくるまで1時間ほど寝た。7時、3人で昨日のレストランで夕食。とても腹が減っていたので2品VEG CHOMEN 25rs
VEG FRIED RICE 25rs食べた。両方とも全く同じ味付けであった。場所を代えいつものタバコの吸えるチャイ屋(今回は吸えなかった)に行き宿に戻る。

荷物をまとめて2人に途中まで見送ってもらいサヨナラした。リクシャで8:50pm駅に到着。プラットフォームにすぐ電車を煮付ける事が出来たのでチャイを飲みながら時間をつぶす。9:33pm定刻より3分遅れで出発した。アムリトサルのインド人はいい意味でインド人ではない。シーク教の力なのか?

アムリトサル・ゴールデンテンプル

1998年01月30日 | パキスタン・インド日記
PAKISTAN-INDIA
1月30日 (金) ラホール-アムリトサル (GURU RAM DASS SARAI)

5:45am起床。6時過ぎ眠い目をこすりながら3人で3回目のバードシャヒーモスクへ。まだ夜も明けないうちにモスクについたがまだほとんど人は来てなかった。もしかしてまた時間を間違ったか、とも思ったがかなりの数の警官が警備に出ていたので明らかに昨日とは雰囲気が違った。近くにチャイ屋を探して時間をつぶした。夜も明けて8時前にはモスクに戻り、人々がモスクに入っていくさまを見つめる。

8時10分過ぎから絶え間無く2つの入り口から人が入ってくる。パキ人と同じ列に並ぶのはためらわれたので、いい写真を撮れるようにと場所を探す。中根さんが広場を360度見渡せる建物の2回に上る階段を見つけてきたので、上がってみるとそれはそれはすごい光景であった。

8時30分過ぎお祈りが始まる。豆粒のように見える数万の人々が立ったりひざまずいたり同じ行動をマスゲームのように繰り返す。今日ここには首相等のおえらさんも来ているらしかった。写真を撮りに来ている外人、パキ人ジャーナリストは皆ここの場所でシャッターをきっていた。私も沢山写真を撮って下に降りる。

20分程度でお祈りは終わっ他のだが、朝靄の中も空くと礼拝する人々のコントラストは非常に美しかった。お祈りの最後に皆周りの人たちと抱き合っているのが印象的であった。子供たちもたくさん来ていた。通常女の人はあまり外に出てこないのだが、この日だけは別。化粧をし着飾っていた。みんなラマダンがあけてほっとしてるのだろうか?

9時過ぎオートリクシャーに乗ってYWCAに戻り、昨日の所でパキスタンで初めての合法的?朝食。残ったパキrpでたばこ「K2」を5箱買いパキ土産とした。

YWCAでパッキングを終え、フンザであったイギリス人にもサヨナラし、予定より2日遅れてインドに向かうことにする。YWCAの前から43番のバスに乗りラホール駅の前に。ワガーまで行くバスを幸運にもすぐ探し出す事ができはじめて前の席に乗り込む。前の席は基本的に女性が座る場所である。ワガーでバスを乗り換え国境へ。

12:30pm頃国境到着。以前くつろがせてもらった茶店でパキ製の偽マイルドセブン2個、コーラ飲んで残り金すべて使う。さてここでむかつくインド入国対策として現金をすべて隠す事にした。どこに隠すか散々迷った挙げ句ランドリーの靴下の中に隠し包んだ。ネパールrs等は日記帳にはさんでのぞんだ。まずパキ側。「両替しろ、両替しろ」としつこかったので、こいつはパキ人か?と苦笑。国境を越えあの屈辱のインドイミグレへ。こんなに準備してきたのに、エックス線に引っかかったチェーンを出さされただけで、拍子抜けしてしまった。入国してくる奴にはばれた後が怖いので盗まないのか?

隠し持っていたインドルピーを出しオートリクシャーでアターリーの街に行き3:30pm発のバスでアムリトサルへ。今朝早かったのでバスの中では荷物を背に熟睡。

4:30pm到着。懐かしいポテチ親父もそこにいた。タンガ(馬車オグリキャップ号)に揺られながらゴールデンテンプルへ。人に聞きながら無料宿泊施設にようやく着くと、ラホールYWCAにいた自転車軍団と再会した。どこでやられたのか、体のいたるところ湿疹が出たようになっており、特に腕、首、足が蚤に食われたようになっている。

1月23日以来からだを洗っていないので(水浴びはしていたが)ここも湯は出ないが水シャワーを浴びる事を決心。しかし水を浴びる所は仕切りなど無く外から丸見えなので海パンをはき浴びた。1回目のシャンプーは全く泡立た無いほど汚れてた。寒さと戦い、周りの目を気にしながらどうにかシャワーを浴び終えすがすがしい気分に。

食堂(ここも無料)に行くと閉まっていたので3人で外に食べに行く。近くのレストランで食べたホットガーリックチョーメンは塩こしょうききすぎで辛すぎた。ゴールデンテンプル内はもちろん、この付近も禁煙らしく、歩きながらたばこを吸っていると注意された。テンプルの入り口で電話をかけられる所があったので実家に電話。フィルムが着いたとのこと。ほっとした。まだ現像していないらしい。足を水につけて洗い、夜のライトアップされ水面に浮かんでるように見えるゴールデンテンプルを見に行く。美しかった、がそれだけ。ちょうど御輿のようなものが寺院から運び出されているところで人をそれを見て拝んでいた。

その後食堂へ行きタダ飯にありつこうとする。少し待たされたあとようやく入ることができた。いつでも入れるわけではないのだ。皆、列を作って座りダル、チャパティー、漬物のようなもの、水をいただく。お腹は全く空いていなかったしダルも素晴らしくまずかったのでチャパティー1枚だけ食べてまた外に出てチャイを飲む。

今日はいろいろな出来事があり部屋で日記を一生懸命書いていたのだが、そこに他の日本人がやってきた。俺の隣に腰を下ろしたのはいいが奴の足があまりにも臭かったので気分も機嫌も悪くなり書くのをやめ午前1時寝袋に入った。同室にはデリーのパキスタンであったスペイン人がいた。あれから2週間たつというのにいまだイランビザはどうやって取ればいいのか?と会う日と会う人に聞いている。進歩の無い奴だ。

ここはシーク教徒の聖地。外には布団も与えられていない巡礼者(こじきのようなものも多数)が布1枚巻き付けて眠っている。生活の奥深くまで浸透している宗教。今日はイスラム教、シーク教と2つの宗教の姿を見せてもらった。とても日本人の持つ信仰心とは次元が違うように思えた。

パキスタン最後の夜

1998年01月29日 | パキスタン・インド日記
1月29日 (木) ラホール (YWCA)

朝7時祐司君に起こしてもらう。
7:45AMオートリクシャーに3人で乗りバードシャヒーモスクへ。なんとなく嫌な予感はしていたのだが、目的としていた集団礼拝は明日の朝だとのこと。この集団礼拝、ラマダン明けの朝10数万人もの人がここラホールにあるアジア最大のモスクに集まって祈りを捧げるもので、たまたまピンディーの宿においてあった雑誌NATIONAL GEOGRAPHICに写真が載っていたのを読んでいた。

それを中根さんはどうしても見てみたいと思っていたらしく、この日の為にラホールに下りてきたのだ。私も圧倒的な写真を見てその場を見られるのなら、と中根さんの申し出に乗った形になった。とにかく明日だということが分かったのですごすごと昨日歩いた道を歩いてYWCAに戻ってきた。

9時頃バザールはまだ開いてなく閑散としていた。YWCAからちょっと南に行った所に食事(チャイ3rs、サンドイッチ12rs)が出来る所を発見。まだラマダン中だというのに不良モスリムが一杯いた。食っていいのか?と聞くと、ここだけはいいのだ、とチャイをすすりたばこを吹かしていた。何なんだ、こいつらは!

そういえばフンザの雑貨屋の親父、アリアバードのバス停前のレストランでもたくさんの奴等が物を口に運んでいた。まあフンザの人たちは人種的にも土地的にもちょっと違うだろうから、と思っていたがラホールの人間もこの調子だとは。ラマダンはエジプトに続いて2度目だがいまだ良く分からず。何事にも例外があるのだろう。たばこを売っている所でハイライトスーパーマイルド赤パッケージ(15rs)発見。見慣れた青パッケージもあった。日本製の(多分)未発売のたばこがこんなに安く売られているのは驚きである。味もうまい。いつもおいしく吸っていたパキ製タバコ「K2」もなかなかいけるが。

今日から4日間パキはEID HOLIDAYという休みに入るらしい。イギリス人曰く「国境は閉まるんじゃないのか?」そんなあほな話しはないと思いながらも心配ではあるのでツーリストインフォメーションへ。そこは閉まっていたが近くにいたおっさんが「開いてる」というのであいているのだろう。

その後またバザールをうろつく。車、特にリクシャーから出る排気ガスと砂埃で空気の汚さといったらない。太陽も霞んで見える。電話局のような所から実家に久々に電話(1分60rs)。親がいなかったのでフィルムがついたかどうかいまだ分からず。

午後5時ごろ歩き疲れてYWCAに戻りベッドに横になってるとあっという間に気を失った。その間にあごと首を蚊に刺された。途中祐司君が買っていたパキ&世界地図付1998DIARY(約90rs)を私も欲しいと思ったがこれまた荷物になるのが嫌でまた諦めた。途中で別れた中根さんが戻ってくるのを待ってからまたまたPIZZA HUTへ。メニューは全く昨日と同じ物。7時頃行ったので店内はガラガラであった。

おめでとう。本日5:35pmとうとうラマダンの全日程終了。皆喜び溢れる夕食を取った事だろう。めでたし。めでたし。自分の分だけカードで支払おうとしたが駄目で、皆から金をかき集めて払った。明日パキを出る際少しでもパキrsの手持ちを少なくしたい為の行動であった。

YWCAのスタッフも全員休暇に入り今夜は客だけである。(日本人3人、イギリス人5人)あ、そういや変なパキ人1人いたっけ?明日からインドに戻る。お金どこに隠そうか。今夜も中根さんに緑茶を入れてもらい飲む。

インドのビザ切れの為に急遽来たパキスタンであった。あっという間の12泊であったが来て良かったと思う。カラコルムハイウェイの素晴らしく雄大な景色。多分もう2度とパキを訪れることはないと思うがもし来れたならば夏のフンザからMtラカポシの雄姿を眺めたいものである。ぴったりラマダンの期間に入り、不便であったが外人特権で飲み食いしたし何といっても後半ホテルのレストラン通いでいいものを沢山食べた。せっかくネパールのトレッキングでやせたのにかなりふっくらしてきた気がする。

本当に優しいパキ人。元インドとは思えないほどインド人とは違う。これほどまでに人間性を変えてしまう宗教って何なんだ?いい奴等が多かった。明日からは本家インドが待っている。またいらいらする毎日なんだろうな。フンザのハイダーじーさん、元気かなぁ?

ラホールで再会!!

1998年01月28日 | パキスタン・インド日記
1月28日 (水) ラホール (YWCA)

目覚し時計で8時起床。インドに行くつもりで起きたものの散々迷ったあげく今日は見送り。

YWCAに止まっていた他の日本人2人とHOLIDAY INNに朝食を食べに行く。朝食はEXECTIVE BREAKFAST(202rs)。ステーキサンドイッチをおいしくいただきながら買って来た絵葉書をかいた。

1人はピンディーに行く為抜け、残った大阪の学生とバードシャヒーモスク目指して歩く。そこまでの道はバザールで、人でごったがえしていた。靴屋が沢山あり人がショーウィンドーの前に群がっていた。遅れがちになるぼさっとした学生のおかげで2時間もかかってモスクにつく。あまり人はいず掃除をする人たちが結構いた。特に見るものはなくすぐ引き返す。途中学生があまりにも遅いので先に行く事を告げ別れた。ある土産物でいくつか気になるものがあったが荷物になるのが嫌だったので結局買わずに出た。少し道に迷いながら4時ごろ宿に戻ってきた。

学生も後から戻ってきてここに泊まっていた韓国人と共に汽車でぺシャワールに向けて去っていった。夕食に何か食べようとマールロードをさまようが何も見つからず、PIZZA HUT へ。久々に口にする生野菜。出来ないお代わりも店員に頼み込んでした。CHICKIN TIKKA PIZZAはまあまあの味。日本と変わらないピザ生地であった。大変満足して外に出ると、何と祐司君と中根さんにバッタリ。もしかしてまた会えるかな、とは思っていたがまさかこんなところで会えるとは。すごく嬉しかった。彼らはまだ夕食を食べていなかったのでうろうろするのに付き合う。

夜YWCAの管理人らしきババアが来てレジストに記入。この時昨日誰にお金を渡したかでもめる。もしかしたら偽管理人かもしれないようだが、こちらとしては渡した(1泊70rs)、の一点張りで逃げ切る。実際チーターかもしれない気もする。レシートをくれといってもくれなかった事を考えると相当臭い。ここでは他にフンザであったイギリス人にも再会した。シャワーは湯も出ず、蛇口から流れる水をすくうだけであった。

12時寝袋に入る。夜中蚊の攻撃を受けよく眠れず。手を2か所さされて首が大きく腫れ上がった。

ラホール着

1998年01月27日 | パキスタン・インド日記
1月27日 (火) -ラーワルピンディー-ラホール (YWCA)

朝4時頃23日に夕食を食べたキーマのおいしい食堂にバスが止まり、それほどお腹が空いてないのに先日の味が忘れられずまたまたキーマ、ナン、チャイのトリオをいただき気分悪くなる。

7時過ぎ結局ほとんど眠れないまま17時間かけてピンディーのピールワダイバス停到着。ここは巨大なバス停でピンディーから出るバスのほとんどが集まっている所だ。8時発のラホール行きのチケット(66rs)を手に入れ、今夜はPOPULAR INNに1泊するという祐司君とサヨナラしバナナ4本(6rs)買って乗り込む。

前回ラホールから来た時は110rsだったのに安いなー、と思っていたらこのバス、何と長距離ミニバスであった。窓の隙間から冷たい風はビュービュー吹き込んでくるは、狭いシートにぎゅうぎゅうにされるはで疲れた体にかなりこたえた。昨日の朝から4本目のバスである。

既に24時間以上が過ぎている。疲労はピークのはずだがとにかくギルギット-ピンディー間が予想以上に快適であったので、ピンディーに宿を取らずラホール直行という道をとらせたのだ。客を拾いに停まる度に直行バスにすれば良かったと後悔した。用を足すのを我慢して我慢して午後2時懐かしのラホールへ。フンザからここラホールまで29時間のバス旅であった。

YWCAまで歩く気力もないのでオートリクシャーに乗る。親父に「YWCA。YMCAじゃないよ」と数回念を押し、OKOKとという返事をもらって乗ってたら連れて行かれたのはやっぱりYMCAだった。YMCAから地図を見ながら指図しどうにかYWCAに着く。

荷物を置くと結構お腹が空いている事に気づきホリデーインホテルに行く事を決心。行く途中でペプシを飲み、ホリデーインではカプチーノ、チーズバーガー、アイスティーをむさぼるように食べる。ラマダン中なのでこうゆうホテルしか食べる所がないので来てるわけだが、これは結構いいホテルの使い方のような気がする。物価の安い国の高級ホテルなら私のようなものも十分利用できる。但しレストランだけだが。さすが一流ホテル。パキで初めて上流階級然とした女の人を見た。

5:40pm頃のラマダン明けに備えてレストランのボーイが次々に料理を用意している。その国に入ればその国の習慣に従うのが普通かもしれないが私は本当マイペースである。お腹を空かした人の前で食うわ、飲むわ、吸うわ、少しはきを遣えばいいのだが性格なのでしょうがない。あと外人だからとじろじろ見られるのも好きではない。そういう奴には思いっきり睨み付けてやる事にしている。アイスティーにレモンを入れすぎてただのレモンジュースになってしまった。

今5:10pm続々と金持ってそうな連中がレストランに入って来ている。
5:20pm追い出された。ラマダン中なので予約でいっぱいなのだそうだ。予約せずに来たファミリーが入れずにいた。カードで支払い借りたボールペンを腹いせにとって出てきた。YWCAに戻って隣のベッドの日本人と晩飯に出かける。(コーラとチャイだけ)夜のラホールは電灯けばけばしく人出もかなりのものであった。甘くないソフトクリームをなめながら宿に戻ってきた。YWCAは広間に大きな机、キッチンもありとても過ごしやすい。出来れば休憩もかねてもう1泊したいが必要以上に日数を使っているのでなくなく明日インドに向かうことにする。フンザの寒さが嘘のようで今は普段どおりの格好をしている。

久々の落ち着いた夜を迎えられている。

また夜行バス

1998年01月26日 | パキスタン・インド日記
1月26日 (月) フンザ-ギルギット- (夜行バス)

8時起床。寝るのが遅かったので起きるのが結構辛かった。外を見ると少し青空が山々の上にのぞいている。フンザで見る初めての青空だ。(昨日までは白だった)

今日ここを去る事をこの天気のおかげで少し戸惑ったが、こんな寒さにはもう耐えられないと思い荷物をまとめる。凍りそうな水で髪だけ洗いもう1日いるという佐藤君に2日分の宿代(1泊50rs、総合計200rs)を渡してサヨナラし、(ハイダーには会えなかった)祐司君と街を歩いて下りた。スズキ(5rs)に乗りアリアバードへ行きすぐギルギット行きのバス(50rs)を捕まえる事が出来た。

チャイ屋に入ったもののゆっくり飲む間もなく(4rs)9:45AM出発。12時前に到着するまでの約2時間、私は感動で胸がいっぱいであった。「カラコルムハイウェイ」美しい響きを持つ魅力的なその名前、あまりにも雄大な景色、険しい道。フンザに行く時は寝てたのでほとんど見ていなかったしフンザでは白かった。

バスが止まる度に窓から顔を出して夢中でシャッターをきった。今まで私の中でのアジアNo1はベトナム、メコンデルタであったがその称号はこのカラコルムハイウェイに譲る事にしよう。夏にもう一度この景色を見てみたい、そう思わざるを得ないほど美しい景色であった。(美しいという言葉のなんと貧困な事か!)

ギルギットのNATCO(バス会社)で2時発のBIG BUSのチケットをとり、それまでの時間ギルギット市内を散歩。コーラさえ飲めず、腹へってこまっていたらバス停にレストランがあった。バスはギルギットを出てピンディーに向かって走った。その間一体何度「すげー、すげー」と連呼しただろう。夜途中立ち寄った所でキーマカレー、ナン、チャイ(33rs)を食べたが、来る時食べてキーマより味が劣っていた。前回食べたキーマはパキスタンに来て初めておいしいと思えるものであった。

そんなに寒くもなく快適なバスであった。ミニバスの方が早く着くとガイドブックにかかれていたが、遅くてもよっぽどこっちの方がいい。来る時にのったミニバスは2度と乗りたくない史上最悪の乗り物1位に認定。しかしバスの中でたばこを吸う奴等にはむかついた。それに加えてバスの乗客はなんでこんなにむさっくるしい男ばっかりなんだ!