LIFE IS GOOD! うろうろ人生旅日記

20代はいろんな国を歩き30代はサラリーマン。40で早期退職に手を挙げた。現在訪問69か国+1。只今バンコクで生活中。

エギーユ・ディ・ミディ

1993年03月31日 | ヨーロッパ日記1993
3月31日 (水) シャモニ 快晴 (夜行列車)

久々のシングルであったのでゆっくり9時起床。シャモニからロープウェイ(160FF)でプラン・ド・レギューユを経由してエギーユ・ディ・ミディに。時速約40キロのスピードであっという間に3842Mの地点についた。

昨日は雲がかかって見えなかったモンブランの頂上4807Mも今日は真っ白い頂を見せてくれた。グランドジョラスをはじめマッターホルン、モンテローザなどの山々が見渡せた。なんといっても心に残ったのはドリュの豪快な姿であった。猛々しい男の山である。-9度のミディの山頂で3,40分ほど風景を楽しんで下山。ほとんどの人はそのままスキーを履いて広大な山の中へ下りていった。

シャモニに下りてからは芝生の上で昼寝したりスーパーに行ったり山岳博物館(15FF)などで時間をつぶした。また広場で穴があいて羽の出てきたダウンジャケットを繕ったりもした。

午後6時ホテルに荷物をとりに行き、19時34分発の登山電車に乗り20時15分St.GERVAIS到着。列車を乗り換え20時14分山々に別れを告げてパリに向かった。

フランス・シャモニーへ

1993年03月30日 | ヨーロッパ日記1993
3月30日 (火) ツエルマット 快晴-シャモニー 快晴 (LA CHAUMIERE)

7時前起床、学生さんの部屋から見えるマッターホルンは白く光り輝いていた。もう一日滞在したいという想いに後ろ髪を引かれつつ9時10分列車(27SF)に乗った。

VISP、MARTIGNYと列車を乗り換え一両だけの列車でスイス、フランス国境駅へ、気のいい親父と2人だけでフランス入りし、列車乗りかえてシャモニーに午後1時38分到着。インタ-ラーケンですごいと思い、ツェルマットでもっとすごいと感動し、シャモニはもうなんと言葉で表せばいいのか?ヨーロッパ最高峰モンブランこそ雲に頂を隠されているものの、針のようにとがった山々が天をつらぬいている姿にびっくりした。世の中にはこんなところがあるのか。

今日はどうしてもシングルに泊まりたかったのでインフォメーションで一番安いところ(157FF)を紹介してもらい20分かけて歩いていった。ここのホテルの親父は山岳ガイドらしい。2階の部屋からはアルプスが正面に見える。荷物を置いて駅に戻り明日のジュネーブ行きのチケットを買おうと思ったが、たまたま見た掲示板にパリ、リヨンまでの夜行列車のことを書いてありいきなり予定を変更してパリ(416FF)に行くことにした。

街ブらをして食料を買い込みホテルに6時過ぎ戻ってきた。おいしそうに見え買ってきたハムサラダがとても食べられる代物ではなくゴミ箱行きとなり悲しい。おいしそうな真っ赤なイチゴも日本のものほど甘くなく缶詰のフルーツもスイスで食べたものよりおいしくなかった。

少しだが山に雲がかかってきている。明日は晴れてくれと祈るだけだ。部屋の窓から山々を見ながら今回も持ってきた植村直己の本のモンブラン登山の部分を読むと痛いほどに彼の感じていることが痛いほどわかった。シャモニを飛ばそうかと思っていた昨夜、そうしなくて良かったとつくづく思う。

割と広いシングルルームで一人山を見ながらパンなんかをかじっていると、隣に彼女がいてくれればどんなに素晴らしかったか、などと考えてしまう。いつかまたシャモニを訪れてこの部屋にでも一緒に泊まる日がくれば今日のことを懐かしく語るのであろう。そんな日が早くくるといいのだが。

ツエルマット

1993年03月29日 | ヨーロッパ日記1993
3月29日 (月) ツエルマット 快晴 -4℃ (HOTEL BAHNHOF)

神経質の私は1,2時間しか眠れずに6時40分BRIGに戻ってきた。そこから登山電車に乗り替え久々に山々を見ながら8時47分ツエルマットに登場、三角帽子のマッターホルンがくっきりと姿を見せて歓迎してくれた。

駅前にドミトリー(22SF)を取り、マッターホルンを眺めながら街ブラ、硬いパンを昼食にして登山電車に乗りゴルナーグラート(26.5SF)へ。約40分間広大なスキー場と、はるかかなたまで連なる雪山は美しかった。その中でマッターホルンはずば抜けて美しかった。ゴルナーの上のカフェで震えながらコーヒーを取り、4000メートル級の山々を見ながら時間をつぶした。

3時に降りてきて3時30分彼女にTEL。お金もつきてきたと言うのにTELすることが楽しみになってしまって困る。ホテルはドミトリーなので気が落ち着かず、ゆっくりできない。前のシングルの部屋に日本人(日医大・27)が入ってきたので、机を貸してもらってハガキなどを書いた。ラーメンを2袋もっていたので地下のキッチンへ行くと、ドイツ人4人組が夕食の残りをくれた。ありがたく遠慮なくいただき久々にラーメンを食べた。11時、恐怖の12名タコ部屋に戻っていびきに怯えながら寝た。

ヴァチカンでローマ法王登場

1993年03月28日 | イタリア日記
3月28日 (日) ローマ 快晴 (夜行列車)

7時起床。
8時過テルミニから64番のバスに乗り、10分程でヴァチカン市国へ、先に美術館へ行った。月末日曜日は無料ということでいっぱいになることが予想されたので、8時45分オープン8時30分についたが、すでにすごい行列ができていた。それでも早くきたかいがあり9時には中に入り、ミケランジェロやラファエロの絵を眺めることができた。

11時過ぎ広場のほうへ、正午かラローマ法王の祝福があり、芸能人を見つめるような目で見つめていた。

昼食を取ったあとオリンピックスタジアムへイタリアのフィナーレを飾るサッカー観戦である、LAZIO対UDINESEのゲームは前半1-0、後半3-0の圧倒的なLAZIOの勝利で地元の人々と一緒にゴールのたびに立ち上がっては叫び、ミスを起こすとブーイングをした。MILANOでみたゲームの数倍面白かったが、ただでさえ寒い今日、スタジアムの一番上に座った私達には風がピュ-ピュ-吹きつけ震えながらの観戦であった。

バス、メトロの乗り継ぎ、ピザを買ってホテルに戻り、8時、中央駅へ。
旅は道ずれの平本君ともお別れ、19日間も一緒に行動した。9時定刻で列車はホームを離れ、イタリアともおさらばした。

サマータイムスタート

1993年03月27日 | イタリア日記
3月27日 (土) ローマ 快晴 (HOTEL DI RIENZO)

7時30分起床。昨日とはうって変わって快晴の朝だ。

8時過ぎ、歩いて観光に出発、昨日同様吐く息が白いほど冷え込んでいる。テルミニ駅からヴェネト通をえて2度目のスペイン広場へ。ポストカードでは花いっぱいに飾られた華やかなスペイン階段だが、初春ということもあり花などはなかったが、天気がいいこともあり昨日とは比べものにならない明るさをもっていた。そのあとに行ったトレビの泉も賑やかであった。

ベネチア広場でウェディングケーキといわれるエマヌエ-レ2世記念堂を見てパンテオン、そしてテヴィレ川沿いを歩いて真実の口、パラティーノの丘を右手に見ながらフォロロマ-ノ、そしてあまりにも有名なコロッセオと見て周った。街のいたるところに遺跡らしき古い建物がごろごろと転がっていてローマは歴史が生きているなと思った。日本では博物館に入ってそうもないものが、ローマと言わずヨーロッパでは手に触れることができるというのは素晴らしい。ジプシーも何回か見たが、もはやなんとも思わないほど慣れてしまった。

サンタマリア・デッリ・マジョーレ教会を通ってホテルに戻ってきた。昼飯を取ってまた街ブラに、ナッツィオナーレ通りを歩いた。三越には日本人の客しかいなく、高い品々を手にとっていた。カプリ島の砂浜でサングラスをなくしてしまったので、大きなメガネ屋に入り、SWATCHのサングラス(70000L)を買った。

夕食にピザとタコ・イカリングを買って来てホテルに戻った。昨夜ぬるいシャワーだったので今日は早めに8時に浴びた。9時やどの娘さんがわざわざサマータイムのことを教えにきてくれた。時計は10時に進め、日本との時差が7時間になった。

ナポリからローマへ

1993年03月26日 | イタリア日記
3月26日 (金) ナポリ 曇り-ローマ 曇りのち雨 (HOTEL DI RIENZO)

6時半起床。
駅で朝食(ドーナツ、かプチ-ノ)をとり、8時15分発の列車(15400L)に乗る。車窓からは柔らかな緑と梅の花のようなピンクと山々、海など色とりどりの景色が美しかった。

11時ローマ着。テルミニ駅を出るといきなり騒がしい何かのデモを見てさすが都会だな、と思った。駅から3分ほどのところに宿を取り、荷物を置いて早速サッカーの前売りチケット(38000L)を買いに行った。ここで平本君と別れCTSに行ったがシエスタタイムで4時に再OPENだというので2時に待ち合わせのスペイン広場近くのマクドへ行き昼食。

2時半になっても彼は現れなかったのでスペイン広場で写真をとって不親切な地図に迷わされながらトレビの泉に行っている途中で雨に降られた。こんな雨はマルマリス、セルチュク以来である。傘も持ってきていなかったのでびっしょり濡れながら泉にコインを投げ彼女との再訪を願った。

雨宿りをしながら4時CTSに戻った。パリか、バルセロナのどちらかに行くつもりだったが、パリ行きは火曜日まで待たなければいけないし(サウジ航空198000L)、バルセロナ(タイ航空177000L)はここがカードが使えないということでCASH不足になりロンドンまでたどり着けなくなる可能性が出てくるので見送り。

テルミニ駅のトランスアルピーノ社でBRIG行きのチケット(54400L)を取り当初の予定通りZERMATTに行くことにした。航空券を買うためCTSで80ドルを両替したのが大変余計であった。

夕食は何故か贅沢にもレストランにてツーリストメニューをとってしまった。涙が出るほどおいしいというわけでは全然なかったがイタリアに入ってミラノでほとんどサンドイッチで済ませていたのでたまにはいいかな、と思って入った。街中でSWATCH SHOPを見つけてスクリブルの値段を聞いたところ29000Lであった。

ポンペイ遺跡

1993年03月25日 | イタリア日記
3月25日 (木) ナポリ 曇り時々雨-ポンペイ 曇り時々晴れ (HOTEL GINEVRA)

8時起床。9序36分発のヴェスヴィオ周遊鉄道(2400L)に乗り40分かけてVILLA DEI MISTERIへ行く。そこから5分くらい歩いてポンペイ遺跡(10000L)の入口に入った。資料を何も持っていなかったので平本君が日本語で書かれたガイドブックを買いそれを見ながら周った。トルコのエフェス遺跡に似た感じであった。

西暦79年にヴェスヴィオ山の噴火によって埋没させられた当時の生活をイメージしてみて同じ時期の日本文化と比較するととても進んだ文明を持っていたのだと感心した。午後2時半頃までほとんど休みなく歩きつづけ見て回ったが、ホテルに戻ったあと肝心な「ポンペイの赤」を見ずに帰ってきたことを知り愕然とした。遺跡にはどこから沸いてきたのか、ツアー客も多く見られガイドの話もろくに聞かず写真をとりに走る日本人で一杯であった。情けない限りだ。

くたくたに疲れ果てポンペイの駅に着き彼女にTEL。3時半発車して4時ナポリ到着。話し足りずに10000Lのテレカを勝手もう一度電話を入れ満足した。いったん宿の戻ったあと街ブらをしてフィルムと歯磨き粉を買って帰ってきた。傘、傘袋、寝袋の袋の裁縫をした。

Grotta Azzurra 青の洞窟

1993年03月24日 | イタリア日記
3月24日 (水) ナポリ 曇り-カプリ島 曇りのち晴れ (HOTEL GINEVRA)

今日は素晴らしく不思議なものを見せてもらった。

8時起床。約30分歩いてカプリ島行きのフェリーの出るベヴェレッロ港まで生きホテルがただでくれたバウチャーをチケットに替え近くのヌオーヴォ城を少し見て周る。

10時10分、晴れたなら美しく見えたであろうナポリの町を後ろに見ながら出航。夏なら観光客でごった返しているのに違いないが今日の船内はガラガラであった。80分ほど乗って島に到着。

すぐに小さなボートに乗り換え岩壁を頭上に見ながら青の洞窟の入口に。このあたりの海の色もすでに濃い青色であった。10000Lは高いと思いつつ払い小さな手こぎボートの乗り換え頭を抱えて洞窟に入る。するとそこは言葉ではあらわせない真っ青な夢の世界とでもいうのであろうか、こんな水の色はかつて見たことがない。船頭の親父は陽気に歌を歌ってみせ、ぐるりと洞窟内を一周した。

2,3分ほどで終わってしまいあせってシャッターを切っているうちに外に出てしまった。この洞窟は少しでも波があったりすると入れないようで見れた人はラッキーだと本に書いてあり、くる前は天気もよくないことだし、また入れたとしても天候のせいであまり青くないのではないか、などと心配したが本当に良かった。素晴らしかった。世の中にはいろんな所があるな。出た後チップをせしめていた親父の顔も明るく見えた。

港沿いに歩いてささやかな昼食をとり歩いてCAPRIへ。ずっと登り坂だったので汗をかきながらあがった。一様に景色を眺めたあとバス(1500L)に乗りANACAPRIへ。ここからリフトの乗り換えてソラーロ山(MONTE SALATO)に上がった。この頃はかなり天候も回復してきていたが、そのせいか海側から山頂まで霧が上がってきていてよく景色が見えなかった。標高589Mから見るカプリ島はほのぼのとした田舎の風景が印象的であった。また15分かけANACAPLIまで戻りバスでCAPLIへ。そこからきた道を歩いて港まで下りた。

海には小学生が遠足でたくさんきていて石を投げて遊んでいると寄ってきて一躍石投げヒーローに仕立てあげられた。午後6時15分、カプリ島を出航。戦中では疲れ果てひたすら眠ってしまった。マクドナルドで夕食をとり9時怖いナポリの夜を歩いて無事に宿に戻ってきた。

ナポリを見て死ね

1993年03月23日 | イタリア日記
3月23日 (火) フィレンツェ 曇り-ナポリ 曇り (HOTEL GINEVRA)

8時過ぎ起床。頭を洗っていつものCAFÉにカプチーノとドーナツを食べにいく。
9時半チェックアウト。フィレンツェ中央駅でナポリまでの切符(50700L)を買った。ナポリまでの直通列車だったのでかなり高かった。
11時発車。南下していくに従って緑がだんだん増え美しく田舎の風景に変わっていった。

午後3時ナポリ到着。インフォメーションに行き地図をもらって宿を探した。目に付いた最初のホテルで決定し荷物を置いて中央駅に戻った。このあたりにたむろしている奴らの目は鋭くおっかない。イタリアの中でも特に恐ろしい街の一つの一部を見たような気がした。北に比べ貧しい南というのは家々を眺めても感じ取ることができる。

ガリバルディから地下鉄(4000L)でモンテサントまで行き街ブら、小汚い店が並んでいた。ここからフニコラーレ(ケーブルカー1500L)に乗りボーメロ地区まで行きサントエルモ城を右手に見ながらナポリの街を上から見下ろした。かなり曇っていたので遠くは霞んでいたが高層ビル群なども見えたりして今まで通ってきたどの街とも違う景色であった。天気さえよければ港も海も美しく見えたはずだった。

モンテサントで米、芋等を揚げたものを8つ(3000L)も食べ気分が悪くなった。240円ばかりのディナーであった。ナポリは埃っぽくクラクションの音がうるさい。なんとなくカイロの雰囲気に似ている。

ピサの斜塔

1993年03月22日 | イタリア日記
3月22日 (月) フィレンツェ 晴れ-ピサ 晴れ (HOTEL TONY‘S INN)

8時半起床。
10時発の列車に乗って約55分間、ピサ(11000L)に行った。

中央駅から30分歩いてピサのドゥオモ,斜塔に着いた。なるほどかなり傾いていたこのまま放って置けばいつか倒れるというので何らかの工事をしているらしく塔内には入れないようになっているし周りを壁で囲っていて下のほうは見えなかった。

芝生で寝転がって時間をつぶしたあと着たときとは違うルートで駅まで戻った。13時46分発の列車でフィレンツェに戻り街ブらをしながら一枚革の小銭入れ(65000L)とキーケース(48000L)を買った残金もチェック750ドルとなり非常に苦しい状況となってきてついにカードを切ってしまった。

久々に部屋のヒーターが暖かくなっていて洗濯に励んだ。