LIFE IS GOOD! うろうろ人生旅日記

20代はいろんな国を歩き30代はサラリーマン。40で早期退職に手を挙げた。現在訪問69か国+1。只今バンコクで生活中。

カイロからアテネに飛ぶ

1993年02月28日 | ギリシャ日記
EGYPT-GREECE 
2月28日(日)カイロ-アテネ (PENTION ARGO)
(レート100円-57DR)

10時起床。荷物は置いたままチェックアウトして昼飯を食べにケンタッキーに。12時45分、荷物をとり地下鉄でサダト駅へ。歩いてメリディアンホテルに行き大学の終わったターレックと2時10分に会う。道を走るらくだ(食用らしい)を見ながら3時に空港に到着。

ターレックと日本での再会を約束して別れ定刻の5時丁度MS747便はアテネに向かって離陸。

7時10分空港で知り合った学生と一緒に一番手で入国審査を通過、バスでオモニア広場へ行く。埃の街から一転、湿った冷気と落ち着いた雰囲気に心が落ち着く。女性もはるかに美しく見えた。以前この学生さんが泊まったホテルにチェックインして飯を食べに行く。

シンタグマ広場からニキス通りを入ったところのレストランでミンチと卵を包んだもの、エジプトでも食べたライスプリンをおいしく食べた。街はプラスチックのバットを持った人々で賑わい時々たたかれた。途中バットを奪い応戦にも転じた。あれはいったいなんだったのか。

アテネにはイスラム社会とはまったく違った文化の香りがぷんぷんしている。飛行機で2時間しか離れていない場所なのに。とにかく今はあのカイロの喧騒から離れられてホッとしている。

ナイルヒルトンでコーヒー

1993年02月27日 | アフリカ日記
2月27日 (土) カイロ 快晴 (ORIENTAL PALACE HOTEL)

10:00AM起床。となりの部屋の東京の学生のノックで目がさめた。

ケンタッキーで朝食。一緒にナイルヒルトンに行き手紙を出した。彼はカイロ大学にIDをつくりに行くというのでバス停で見送り、もう一度ナイルヒルトンへ戻りコーヒーを飲みながら日記を書く。ここは欧米人などがテニスをしていたりして空気が違っていた。大阪ヒルトンのTシャツ一枚でいるので寒い。

とうとう明日でエジプトの旅も終わりを告げる。15日間、いろいろなことがあった。ホームステイさせてもらったことで色々な庶民と階級の違いなどもわかりよかったと思う。ただ残念だったのは自らのルール(お金)に縛られ他にもできたであろう経験があまり出来なかったことである。あの「ジャパニーズハウマッチ」には頭から嫌悪感に満たされてしまった。時がたてばまた楽しかった想い出へとかわるであろうが・・・。

ホテルに戻り植村直己の本を読みながらうたたね。

5:20PMとなりの部屋の工田君という人と晩飯を食べに外にでる。丁度ラマダーンが終わる時間で大勢の人と一緒にスパゲティ、フール(豆)などを食べた。スークでいちご、ネーブル、バナナをそれぞれ1kgづつ買ってきて部屋で食べた。

カイロに戻る

1993年02月26日 | アフリカ日記
2月26日 (金) カイロ 晴れ時々曇り (ORIENT PALACE HOTEL)

10:00AMカイロに到着。一度地下鉄でSADATまででてORIENTAL PALACE HOTELへ。まだ部屋が空いていなかったのでケンタッキーで2時間をつぶした。

昼過ぎ12Pの部屋に荷物をおいて、ハネムーンから戻っていたTAREKのお兄さん夫妻に会う。お兄さんはとても感じのいい人で結婚式のVIDEOと写真をみせてくれた。ラマダーンスペシャルといわれるピーナッツなどを包んで揚げたものにハチミツをかけたものとチーズケーキに似たものを食べた。

09:00PMすぎ地下鉄に乗って新しく近くに見つけた駅ナセルでおりてホテルに戻った。日本人がいきなり5人もいてびっくりした。1時すぎまで水パイプを吸っているシリア人の親父としゃべっていた。

至上最悪の列車でお戻り

1993年02月25日 | アフリカ日記
2月25日 (木) アスワン 快晴 (夜行列車)

9:30AM起床。
11:00AMチェックアウトしてモナリザレストランで例のものを。私はおいしいと思うものはあきるまで食べる主義である。スークを歩いてネーブル10個を240円程で買い、あまりの暑さのためにホテルに戻る。もう部屋はないためにソファに座って食べようとしたが、ラマダーン中の人たちを前にして食べることはできず、ついうとうとと2時間程昼寝。

3:40PM、ASWAN MOONでこれまた死ぬほどうまいグアバジュースを飲んだ。「冷たい!」 冷たいのは初めてである。ナイルをたくさんのフルーカが走っている。乗ってもよかったのだがつまらない意地がそうさせてくれなかった。

4:30PMホテルで荷物をピックアップして駅へ。
5:30PM列車に乗り込んで座席に座ったのはいいが、あとからここは俺の席だという奴がでてきたのですかさずTOURIST POLICEに文句をいいにいったらTICKET COUNTERですぐ今日のに書き換えてくれた。昨日TICKETを見たら24日付けだったのでおかしいと思い確認までしたのだが、いいかげんなものだ。

列車の中はすごかった。来た時よりもひどかった。となりの親父はガンガンラジカセからアラビックミュージックをかけていて気が狂いそうであった。至上最悪の列車であった。

アブシンベル大神殿

1993年02月24日 | アフリカ日記
2月24日 (水) アスワン 快晴 (KEYLANE HOTEL)

夜中3時20分起床。3時半に誰かが起床のノックにきた。頭を洗い4時に下におり車に乗った。さすがにこの時間になるとスークもすっかり静まりかえっていた。

同じホテルからドイツ人2人、違うホテルから日本人2人、アメリカ人2人の計7名の客であった。星の輝く真っ暗な道をワゴン車は全速力で走った。車の中は埃がすごく窓をあけざるを得なかった。荷物になるのを予想してロングTシャツと薄手のセーターだけできた私は、凍えそうになる程寒かった。

東の空がだんだん真っ赤にそまり、砂漠の地平線からゆっくりとのぼってきた太陽は美しかった。8時前アブシンベルに到着。我先にと先入りするエジプト人ガイドに頭にきて罵声を浴びせたものの、20分以上かかってチケットをとった。

ナセル湖を右手にみながら神殿にまわりこむ。たしかに巨大だがあまり威圧感とか感動はなかった。とりあえず見てまわり

9:40AM出発。砂漠の中の一本道を280kmの帰路に入った途中、これまたたいしたことのないアスワンダムを見て2:30PMホテルについた。

手紙でもゆっくり書こうと昨日のASWAN MOONへ。するとまた昨日の学生がいて夕食も一緒に食べた。夕食はビーフを四角に切って焼いたもの、エジプト特製のゴマパンのようなもの、サラダ、ライスで4P。とてもおいしかった。めしを食べている時だけエジプトにもう少しいてもいいなあと思ってしまう。夕方ラマダーンの終わりを告げるスピーカが始まるとともにスークを歩いてまわる。自分で値切りの天才などと勝手に満足しつつ、うるさい親父をもてあそび、6個1Pのネーブルとミネラルウォーターだけ買ってホテルに戻った。

9:30PMまたモナリザレストランに行きグリルドビーフセットを食べた。

夜のナイルは美しく港街のたたずまいであった。何故か潮の香りがしていた。一人きりではもったいないロマンチックさであった。ずっと同じことを考えてすごした。早く日本に帰ろうか。

アスワン到着

1993年02月23日 | アフリカ日記
2月23日 (火) アスワン 快晴 (KEYLANE HOTEL)

雲ひとつないアスワンに午前11時到着。

駅を出ると早速ホテルの客引きがよってくる。その中の一人がしつこく付いてくるので値段を聞いてやったらFiftyだというのでアホらしいという顔をしたら「NoNo Fifteen」といいなおしてきた。それでも高いのでこっちの希望を教えてやった。「FIVE!!」そしたらそれでOKだというのでここから歩いて5分というところに向かって歩いていたが遠いので文句行ったら車に乗せてくれた。

はじめエジプト人は歩くのが好きだなんていってたのに文句言うと昨日サッカーをして足が痛いから車にするなどとずいぶん調子にいい奴だ。アスワン駅からずいぶん遠いところにあるKEYLANE HOTELというところにつれてこられた。とても清潔そうな部屋だったのですったもんだの問答をえて8Pでないた。奴は3Pのチップを手にして消えていった。

アラブ人というのは本当よく分からない。ターレックや友人を見るといい奴ばかりで好感が持てるのだが、それ以外は以下に私をだまそうとしているかのごとく感じられる。お金の額はたいしたことないのだから少々使ってもいいのだが心が狭いのかそうもいかない。彼らの話しているアラビア語がすべて悪口に聞こえてしまうのだ。

1時過ぎカウンターで明日のアブシンベルツアーを予約してから散歩に出かける。ナイル川は美しくヌピア人たちものんびりしていてカイロで見かけるエジプト人より好感が持てた。スークを歩いた後、千葉からきたという学生とASWAN MOONというナイル川の上にあるレストランで虫のついたチキンと恐ろしくうまいグアバジュースを飲みながら落ち着いたひと時を景色とともに楽しんだ。

午後5時45分スピーカーから日没を知らせる声が流れるとともにその日のラマダンが終わり、人々は食事にありつくことになる。スークは一層賑やかになり夜中まで騒がしく、なかなか寝付けなかった。

アスワン行夜行列車に乗りこむ

1993年02月22日 | アフリカ日記
2月22日 (月) カイロ 快晴 (列車)

9時半起床。ホテルの勉強をしているターレックが書くホテルにメニューを取りに行くついでに昼MAADI駅でおろしてもらいサダト駅に。昨日まわった旅行会社の中から一番安かったNAJD MARINE TOURSでアテネまでのチケット(551P)を買う。そこの叔母ちゃんはやたら手際が悪く発券してもらうのに1時間以上かかった。俺の誕生日をごまかしていたりしていた。

MAADIに戻りケンタッキーで昼食。今日からラマダンが始まっていたので店内はがらがらであったが知ったことか、と食べまくり。外ではタバコも吸いまくった。道を迷いながらもどうにか帰宅。荷造りをしているとギゴが遊びに来て3人でMAADI CLUBで卓球。

5時40分駅へ送ってもらいムバラク駅へ。昨日アムールが教えてくれた11番ホームではなく隣のホームから午後7時丁度アスワンに向けて出発。ほぼ満席で隣には物静かなおじさんが座った。コーランを読んでいる人、ゲロを吐いている人、歌っている人などで社内はかなり騒がしかった。ヨーロッパのガイドブックなどを読みながらうとうとした。ちなみにトイレは最悪であった。

ムハンマド・アリ・モスク

1993年02月21日 | アフリカ日記
2月21日 (日) カイロ 快晴 (ターレックの家)

9時50分起床。ターレックが大学に行く途中にダウンタウン近くの駅にアムールと一緒に下ろしてもらいラムセス中央駅に。アスワン行きのチケット(26.6P)をとった。

タクシーに乗りムハンマド・アリ・モスクへ。アムールはここで2回もお祈りをしていた。ここから眺める市街は素晴らしかった。見るものもないポリスミュージアムなどを見て回りタクシーでタハリールへ。ギリシャまでのチケット探しとサングラスを買った。

6時過ぎ帰宅。何十箇所となく猫のダニにやられ顔はめちゃくちゃで痒い。買ったのみ薬はなんか怖くて飲めない。

ホームパーティにお呼ばれ

1993年02月20日 | アフリカ日記
2月20日 (土) カイロ 快晴 (ターレックの家)

8時起床。ターレックは大学なので今日は堀内さんにコプト博物館に連れて行ってもらった。

エンジンのかからなくなったターレックと車をMAADIに残して地下鉄に乗り4つめのマリキルギス駅に。このあたりはオールドカイロと呼ばれているところでコプト教に関する建物などがたくさん残っているカイロ発祥の地である。大学教授と一緒だと一つ一つの遺跡をただ通り過ぎるということはできず小さな博物館を2時間かけてみて回った。

昼食に高い卵焼き(4P)やチーズをはさんだパンなどを食べ、今度は聖ジョージ教会、バーバラ教会などをくまなく見て歩いた。3時半MAADIまで戻ってきてケンタッキーでチキンなどを買って帰宅した。

5時20分、ターレックも戻って着て山内さんという人の家庭に夕食に呼ばれた。私たち4人のほかにももう人家族呼ばれての食事であった。牛カツ、餃子、おにぎりなどがあり遠慮なく食べた。マーゲッドという男の子をからかって遊びとても楽しいひと時を過ごした。9時過ぎ皆で記念撮影をして帰宅。アムールが来て泊まった。

ドライクリーニングは1000円!

1993年02月19日 | アフリカ日記
2月19日 (金) カイロ 快晴 (ターレックの家)

11時起床。お兄さんの部屋にペインターがくるというのでとりあえず5時まで部屋空けられずボーっと過ごす。

夕方買出しに行く途中でおばさんに会い一緒に街へ。汚れたジャケットをクリーニング屋に出し食料品屋、肉屋、あとダニにやられた傷用に薬を買って戻ってきた。

フライドポテトとチキンの夕食。ギゴが遊びにやってきてパソコンゲームで遊んだ。あっという間に一日が過ぎ去った。