ゆらぎの文化 感情、思考、感覚、生活観念、対人感覚それの大きな揺らぎ。ある限度を超えるとそれが異常なのか?
だれにもゆらぎがある。それがある線を越えれば、常識を逸した行為、思考、感情、生活、対人感覚感情といわれる。
そして別の世界の人間としてはじいていく。
「ゆらぎ」これが統合失調症、または精神障害者の文化なのかもしれない。
正常異常のの区別、それが病気の区別!?その大きな揺れが押さえるのが、薬による対症療法だとしたら、人との出会い、つながり、信頼から来るのは、「ゆれ」を内から受け止め、また「ゆれ」を周りが受け止め、「ゆれる」ままにいられるようになる。そのゆれるままが不安を取り除き、安心してゆれる(病気になれる)のだと思う。
それがSonに起こったことだ。ゆれを止める=治療だと思っていたが、親の独りよがりな思いだった。今は安心してい揺れている。
べてるの家の当事者研究はこの「ゆれの文化」の発見なのかもしれない。新大陸の発見と同じだと思う。違う世界の中で暮らしていた人・・・自分のまわりになじまない・・・異・・・それが長い漂流の後に新大陸にたどりつき、同じ文化をもった人々に出会い、自分の心の国を見つけた。それがピアなのなかなと思った。
わたしたちはまだ気がつかないのかも知れないが、本当にゆれの文化というのがあるのかもしれない。それをただ一言で、異常だとか、病気だとはいえない。
異質な文化を恐れ警戒し、それを排除することがいいことと思い込み、それが病気が治るとか治療とかリカバリーと思い込んでいたら、当事者主義の医療や福祉は無理だと思う。
それは次に見た映画「カッコーの巣の上で」が証してくれた。
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