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錦絵で識る我が街の歴史2

2016年03月18日 | 我が町探訪
先日は我が市から見た東海道五十三次の話をしましたが、東海道五十三次の話をしたら次は当然冨嶽三十六景です。冨嶽三十六景と言えば葛飾北斎の傑作。この中に我が市で描いたんじゃないかと思われる作品があります。相州仲原。我が市には「仲原」という地区名はありませんが、「中原」という地区名はあります。時を経て「イ」が取れてしまったのでしょう。
この絵が冨嶽三十六景相州仲原です。



さて、この絵の場所はどこなのでしょうか? 私は伊勢原街道と渋田川が交差する場所と判断しました。

我が市から伊勢原市に行くときは県道61号線、別名伊勢原街道という道を通ります。江戸時代には大山街道という名の道がたくさんありましたが、この道も江戸時代には大山街道だったと推定していいでしょう。
伊勢原街道を北上すると、六本とい交差点で左に30゜曲がる道があります。35年前はこの道が伊勢原街道でした。ここから「中原」という地区名をよく見かけるようになります。



さらに北上すると、川とそれに掛かる橋が見えてきます。それが渋田川、橋は大繩橋です。ここが絵の場所だと推測し、この橋の上から富士山を撮影しました。



う~ん、かなり川の向きが違うかな? しかし、「中原」という地区名はここで間違いありません。もしかすると治水工事で川の流れが変わったのかもしれませんし、当の葛飾北斎の記憶違いかもしれません。

この写真に写る現在の地区名ですが、手前東側が中原3丁目、手前西側が御殿3丁目、向こう東側が中原下宿、向こう西側が御殿4丁目です。中原下宿はかなり小さな地区です。歴史的な地名ということで残しておきたかったのでしょうか? しかし、この地区名、何か変です。上に掲げたバス停の写真を見てください。
中原下宿というバス停と中原上宿というバス停。南側のバス停は「中原下宿」で北側のバス停は「中原上宿」です。当たり前です。日本ではう~んと昔から現代まで北を上としてきましたから、南から北へ向かって走ったら、当然先に出てくる地名は「下」です。としたら、前述の地区名「中原下宿」は不自然。「中原上宿」でないといけませんねぇ。
もしかしたらそこより北側も「中原」なのかも? いえいえ、ここより北側の地区名は「豊田(南豊田)」です。う~ん、なんでこんな地区名を残したんでしょうか? ちょっと理解できませんねぇ。

最後に、先に掲げた大繩橋から撮影した冨士山の写真、思いっきりズームインした写真を掲げておきます。



今は建物の間からかろうじて見えるだけとなってしまいました。