悪く言えば職業病。
まぁ、ある種の特殊技能だと言っても良いのだけれど、“研究者”というのは、取りあえず、AとBとの間に、ちょっとした共通点を見つける、と言うのがまぁ、習い性。
それは、形が似ている、同じ言葉が出てくる、と言った分かりやすいものから、かなり深いところまで探っていかないと普通は気づかないところまで、色々。
「わが町」を巡って書いた記事も、連想関係で繋がるいくつかの歌や映画や芝居をぶつけることで考えてみたわけだ。
新国立劇場で観た「焼肉ドラゴン」も、また「わが町」変奏曲の一つのように感じた。
これは、もう、冒頭の語りからして判りやすい類似で、検索したら既に言ってる人がいましたね。
さらに、「部分的には『屋根の上のヴァイオリン弾き』やチェーホフの『三人姉妹』『桜の園』、あるいは台湾映画『非情城市』を想いださせるところもある」と言う指摘も(あ、これ、松井今朝子のブログだ!)。
みんな知識としては入ってるはずなのに気づきませんでした(“三人姉妹変奏曲”だよな、とは思ったけど)。修行が足りません。
「わが町」はホントに古典だ。
で、ちょっと面白いな、と思ったのは、「斉藤幸子」を並べてみると、また似ている。初演は「斉藤幸子」の方が先だ。
「斉藤幸子」は月島のもんじゃ焼き屋家族とその周辺の、下町根生いの人たちの話。世の中の流れと関係なく、そこに根を張るという。
「焼肉ドラゴン」は、国有地に不法占拠し、結局退去させられて離ればなれになる話。
そして、二階からの眺め。
問題は、そう言う“類似”を認めた上で、次に、差異や影響関係について証拠立てた分析が出来るかどうか。
ブログは学術論文ではないので、誰かが丁寧に育てて収穫してくれたらいいな、と思いながら、種だけ蒔いておく。
微妙に血の繋がっていたりいなかったりする3人の娘と1人の息子。その、一番下に生まれた長男が、「わが町」の“舞台監督”だとすると、逆に、“舞台監督”は町にとって何だったのか、と言う問題設定も可能になる(単純に牧師なのかな、とも思うけれど死んでる人かも知れない)。
「わが町」も「斉藤幸子」も、内側に向かって大団円という構造を持っているのに対し、「焼肉ドラゴン」では、子供達と、夫婦と、それぞれみんな別々の道を歩んでいくところで終わる。
「こんな日は、昨日がどんなに辛くても、明日を信じられる」という反復は、単純に小さな世界で生きていく家族の強さの話ではなく、これから先この家族を襲うはずのもっと悲惨かも知れないあれこれを暗示しながら、それでも希望を捨てないで戦い続ける意志の現れだ。
だからそれは、家族が同じ場所で、世の中や宇宙と関わりなくささやかな幸せを営んでいければ良いよね、と言う「わが町」的価値観をかなり暴力的に批判している。
歴史の中で、否応なくそう言う「わが町」を喪っていく人たちがいること。
これは郷愁の物語ではない。
万博の開会式の実況のなかに、よど号事件や全共闘、三島由紀夫の演説などを混ぜ込んだ音声は、まさに「わが町」でやって欲しかった演出だ。
もう一つ付け加えておくと、とても重要な点で「焼肉ドラゴン」は明らかに「わが町」を承け継いでいる。
それは、やがて忘れられてしまうかも知れない町の暮らしについて残し伝えようとする意志。
平凡だから記録が必要という「わが町」と、抹消される在日の歴史では大きな隔たりがあるのだけれど。
万博は別の意味でも大阪の暗部を抹消する機能を持っていた。
“チャベス・ラヴィン”を思い出した。
アフタートークでは、和気藹々と、この芝居の幸福感や感動について語られ、そうしたクリティカルな眼差しについては触れられなかった。
それは仕方ないのかも知れないし、作・演出と、夫婦役の役者さんの表情を間近に見られたのは収穫だったので、高望みはしないでおこう。
演劇に、特に公共機関が制作する芝居に、社会的なメッセージを期待する事自体無茶なんだろう。
「わが町」でも、「斉藤幸子」でも「焼肉ドラゴン」でも、“いろんな境遇”が設定されて、そこで、仲間たちと一所懸命に格闘して生きて、手近な相手と結婚して新しい家族を作り、高望みはしないけれど、ささやかな幸福を得る話として、同じ感動の話にしてしまえば、歴史は捨象されるべき“おかず”の様な物でしかない。
「焼肉ドラゴン」の凄みは、多分、その“いろんな境遇”、“おかず”の中にちゃんと毒が潜ませてあることだ。
先日ボタニカであった若者が、「わが町」の墓地に眠る人たちが外の歴史との関わりで死んだと語られることで、そういう問題も読み取れるのではないか、と言っていた。
なるほど。
微かな仄めかしでしかないかも知れないけれど、そこに突破口はあるのかも知れない。
まぁ、ある種の特殊技能だと言っても良いのだけれど、“研究者”というのは、取りあえず、AとBとの間に、ちょっとした共通点を見つける、と言うのがまぁ、習い性。
それは、形が似ている、同じ言葉が出てくる、と言った分かりやすいものから、かなり深いところまで探っていかないと普通は気づかないところまで、色々。
「わが町」を巡って書いた記事も、連想関係で繋がるいくつかの歌や映画や芝居をぶつけることで考えてみたわけだ。
新国立劇場で観た「焼肉ドラゴン」も、また「わが町」変奏曲の一つのように感じた。
これは、もう、冒頭の語りからして判りやすい類似で、検索したら既に言ってる人がいましたね。
さらに、「部分的には『屋根の上のヴァイオリン弾き』やチェーホフの『三人姉妹』『桜の園』、あるいは台湾映画『非情城市』を想いださせるところもある」と言う指摘も(あ、これ、松井今朝子のブログだ!)。
みんな知識としては入ってるはずなのに気づきませんでした(“三人姉妹変奏曲”だよな、とは思ったけど)。修行が足りません。
「わが町」はホントに古典だ。
で、ちょっと面白いな、と思ったのは、「斉藤幸子」を並べてみると、また似ている。初演は「斉藤幸子」の方が先だ。
「斉藤幸子」は月島のもんじゃ焼き屋家族とその周辺の、下町根生いの人たちの話。世の中の流れと関係なく、そこに根を張るという。
「焼肉ドラゴン」は、国有地に不法占拠し、結局退去させられて離ればなれになる話。
そして、二階からの眺め。
問題は、そう言う“類似”を認めた上で、次に、差異や影響関係について証拠立てた分析が出来るかどうか。
ブログは学術論文ではないので、誰かが丁寧に育てて収穫してくれたらいいな、と思いながら、種だけ蒔いておく。
微妙に血の繋がっていたりいなかったりする3人の娘と1人の息子。その、一番下に生まれた長男が、「わが町」の“舞台監督”だとすると、逆に、“舞台監督”は町にとって何だったのか、と言う問題設定も可能になる(単純に牧師なのかな、とも思うけれど死んでる人かも知れない)。
「わが町」も「斉藤幸子」も、内側に向かって大団円という構造を持っているのに対し、「焼肉ドラゴン」では、子供達と、夫婦と、それぞれみんな別々の道を歩んでいくところで終わる。
「こんな日は、昨日がどんなに辛くても、明日を信じられる」という反復は、単純に小さな世界で生きていく家族の強さの話ではなく、これから先この家族を襲うはずのもっと悲惨かも知れないあれこれを暗示しながら、それでも希望を捨てないで戦い続ける意志の現れだ。
だからそれは、家族が同じ場所で、世の中や宇宙と関わりなくささやかな幸せを営んでいければ良いよね、と言う「わが町」的価値観をかなり暴力的に批判している。
歴史の中で、否応なくそう言う「わが町」を喪っていく人たちがいること。
これは郷愁の物語ではない。
万博の開会式の実況のなかに、よど号事件や全共闘、三島由紀夫の演説などを混ぜ込んだ音声は、まさに「わが町」でやって欲しかった演出だ。
もう一つ付け加えておくと、とても重要な点で「焼肉ドラゴン」は明らかに「わが町」を承け継いでいる。
それは、やがて忘れられてしまうかも知れない町の暮らしについて残し伝えようとする意志。
平凡だから記録が必要という「わが町」と、抹消される在日の歴史では大きな隔たりがあるのだけれど。
万博は別の意味でも大阪の暗部を抹消する機能を持っていた。
“チャベス・ラヴィン”を思い出した。
アフタートークでは、和気藹々と、この芝居の幸福感や感動について語られ、そうしたクリティカルな眼差しについては触れられなかった。
それは仕方ないのかも知れないし、作・演出と、夫婦役の役者さんの表情を間近に見られたのは収穫だったので、高望みはしないでおこう。
演劇に、特に公共機関が制作する芝居に、社会的なメッセージを期待する事自体無茶なんだろう。
「わが町」でも、「斉藤幸子」でも「焼肉ドラゴン」でも、“いろんな境遇”が設定されて、そこで、仲間たちと一所懸命に格闘して生きて、手近な相手と結婚して新しい家族を作り、高望みはしないけれど、ささやかな幸福を得る話として、同じ感動の話にしてしまえば、歴史は捨象されるべき“おかず”の様な物でしかない。
「焼肉ドラゴン」の凄みは、多分、その“いろんな境遇”、“おかず”の中にちゃんと毒が潜ませてあることだ。
先日ボタニカであった若者が、「わが町」の墓地に眠る人たちが外の歴史との関わりで死んだと語られることで、そういう問題も読み取れるのではないか、と言っていた。
なるほど。
微かな仄めかしでしかないかも知れないけれど、そこに突破口はあるのかも知れない。
歴史的社会的背景をきちんと織り込み、それらが「今」に続いていると投げかけるラスト。
閉ざされたままの「わが町」、
自ら選んで出て行った「ギルバート・グレイプ」、
そして、追い出される「焼肉ドラゴン」。
そういえば、「さすが」と思ったのは、
「僕が日本人だから結婚に反対なんですか」とか、
職業差別等々の現実を「言い訳」にして働かない次女の婿とか、
自分たちを客観視してただの「被害者」にしていない、というところです。
ただ、上演後、「懐かしい感じ」「在日も日本人も韓国人もみな同じ」「家族の暖かさ」
「韓国人の明るさがうらやましい」という感想を聞かされると、やっぱり「韓流」は
うわっすべりなんだなあと残念に思いました。
在日当事者にも好評だったようです。
http://blog.goo.ne.jp/parksangyoung/e/f4bd3c04f28fa52acd60182d1fc17dcb
このブログのコメント欄をみると、
長男の受けたいじめも就職差別も、今も続く現実なんだと思い知ります。
それから40年、何が変わったんだろう、と考えさせられますね。
そして、哲男の造形は色々興味深いですね。
その彼が長女を連れて北に行ってしまうことも、なんともやりきれない話です。
実際、どういう客層が多いんでしょうね。
「わが星」は、ある意味私好みの戯曲でした。
本歌取り、というか、引用の方法が「現代的」で、美術や音楽のコラージュとか、(良く分かんないけど)カットアップとか、そういう物が演劇でも出来るんだな~というのに感心。
ただ、その材料が“わが町変奏曲”なのは何故だろう、と言うのは残るけれど。
日程的に再演も見られない感じなんだけれど、舞台を見てみたい、と言う気持ちになる戯曲なのは確か。