え~と。
芝居の感想を書こうと思ってるんですが、突然思い出したので回り道。
この記事のタイトルは、レイ・チャールズのかなり流行った曲の名前です。
邦題が「旅立てジャック」と言うのを、おぼろげに知っていたのが間違いの始まり。
同じタイトル(日本語)で、吉田拓郎の歌があります。
英語に堪能でない私は、高校生の頃、吉田拓郎は内容も「参照」して作ったんだろうから、オリジナルも似たような歌なんだろうと勝手に思っていました。
レイ・チャールズ Hits The Road Jack(リンク先は個人ブログ?)
吉田拓郎 旅立てジャック
全然違うじゃん。
作詞松本隆だし。
そうなるとレイ・チャールズの邦題をつけた人に問題があるような気がするんですが……。
ここまでは枕。
さて、本題は、いろんな連想で繋がるいくつかの芝居のこと。
去年、SPACの「わが町」を見ました。
その前に脚本(勿論邦訳)も読んであった。
今年に入って、新国立劇場版も見ました。
アメリカ演劇の古典的名作、世界で一番上演されている演劇、と言われる作品らしいんですが、正直、現代にこのまま受け入れられる内容だとは思えない。
そこが問題であり、Hits The Road Jack(意味は違うけど)なわけです。
「わが町」演劇ライフレビュー。
評判の舞台です。
これはしょっちゅうやられてる芝居なので、両方観た人のレビューもあります。
結構メジャーな人のを2件リンクしておきます。
しのぶの演劇レビュー SPAC 新国立
某日観劇録 SPAC 新国立
比較に関しては私も似たような感想を持ちました。
特に小堺一機とSPACで進行役をした人の差が大きすぎ。
ほんと、小堺一機の“間”とか、引き込み方とか、すごい。
“座長さん”という感じも良かった。
そして、SPAC版は、今、この戯曲で何をしたいのか解らなかった。
寧ろ、鈴木忠志に演出して欲しかった。
新国立は舞台装置をちょっとだけ贅沢してしまったのがむむむ(「墓穴を掘る」とか、何故??)、と言うところか。
ところで、新国立版でギブズ夫人を好演した斉藤由貴が、先日、ミッドナイトステージ館の「斉藤幸子」に出ていた。
演劇ライフレビュー
日本の下町純情コメディーと、アメリカの小さな町の出来事と、扱い方は違うけれど、大事なところがよく似ている。
斉藤由貴のおかげで面白いところに気づいた。
最後の方で、幸子は、首振り君が東大の研究職を投げ出してペンギン保護のボランティアに行っていることに触れるが、坂本君は、その前の健一郎の話などを引き合いに、地球環境より目の前の自分たちの事からしっかりしようと言う。
これは、澤渡の“幸福観”とも通じていて、この芝居の最終到達点になっている。
この点については、オフィシャルサイトに初演時の朝日新聞レビューが紹介されているので引用。
この記事の家族の再生云々は的外れだと思うけれど、それは今触れてもしかたないとして、ここでもう一つ軸になる記事を引用しよう。
SPAC版のレビューの一つに気になるコメントがあった。
『劇場文化』の内野氏の文章は「スモール・タウンのアメリカと『わが町』をめぐって」(これ、何故SPACのサイトで読めないんだろう。私の「メデイア」はまだ晒されてるのに)というもので、私は、一読して、「我が意を得たり」という印象を持ったのだけれど、多くの人が、興味深い内容だがヘンチキだ、と言う評価をしている感じ。
やっと繋がってきたか?
そうそう。こうなると「わが星」にまで言及したくなるけれど、『ユリイカ』で内野氏が引用している第54回岸田國士戯曲賞選評(2010年)を見てみると、敢えて観るまでもないかなぁと思ってしまうのであるよ。面白いんだろうけど。
さて。
話戻して、上に引用したブログ記事、地名を換えると「わが町」と「斉藤幸子」が一緒になる。月島も虚構のユートピア、郷愁の町だ。
どっちの芝居も、生きていること、親しい人たちとのささやかな暮らしの大切さを謳っている。それ自体を否定しようとは思わないのだけれど、内野氏の指摘するように、そうしたWASP的価値観が、911を引き寄せ、今の世界を作ってきた元凶であることは、やっぱりちゃんと見つめないとまずいんじゃないのか。
世界と関わらなくても生きていける時代が確かにあった、かもしれないけれど、そこを美しく荘厳することが、今必要なのかどうか。
古典戯曲をそのまま上演するにしても、演出によって、そう言う世界観を相対化することだって可能なんじゃないのかと思う。
内野氏はそのことを言っているのだと思う。
古典の骨格は強靱だ。シェクスピアもワグナーも、あり得ないほどの解釈を許容してビクともしない。
ステージに墓穴を掘る演出が許されたのだから、せめて背景に、同じ時代、町の外、広い世界で何が起こっていたのか、ただ映像を流すだけでもそう言うことは出来たんじゃないかと言う気がする。
1900は、果てのない陸地を拒み、狭い船の世界を選んで死んだ。その恐怖も理解できる。
ギルバート・グレイプは、母の死を乗り越えて、閉塞した町を去り、広い世界に旅立つ。
地平線の向こう、まだ見ぬ世界に希望はある。
自分(達)を相対化できないのが、一番恐い。
芝居の感想を書こうと思ってるんですが、突然思い出したので回り道。
この記事のタイトルは、レイ・チャールズのかなり流行った曲の名前です。
邦題が「旅立てジャック」と言うのを、おぼろげに知っていたのが間違いの始まり。
同じタイトル(日本語)で、吉田拓郎の歌があります。
英語に堪能でない私は、高校生の頃、吉田拓郎は内容も「参照」して作ったんだろうから、オリジナルも似たような歌なんだろうと勝手に思っていました。
レイ・チャールズ Hits The Road Jack(リンク先は個人ブログ?)
吉田拓郎 旅立てジャック
全然違うじゃん。
作詞松本隆だし。
そうなるとレイ・チャールズの邦題をつけた人に問題があるような気がするんですが……。
ここまでは枕。
さて、本題は、いろんな連想で繋がるいくつかの芝居のこと。
去年、SPACの「わが町」を見ました。
その前に脚本(勿論邦訳)も読んであった。
今年に入って、新国立劇場版も見ました。
アメリカ演劇の古典的名作、世界で一番上演されている演劇、と言われる作品らしいんですが、正直、現代にこのまま受け入れられる内容だとは思えない。
そこが問題であり、Hits The Road Jack(意味は違うけど)なわけです。
「わが町」演劇ライフレビュー。
評判の舞台です。
これはしょっちゅうやられてる芝居なので、両方観た人のレビューもあります。
結構メジャーな人のを2件リンクしておきます。
しのぶの演劇レビュー SPAC 新国立
某日観劇録 SPAC 新国立
比較に関しては私も似たような感想を持ちました。
特に小堺一機とSPACで進行役をした人の差が大きすぎ。
ほんと、小堺一機の“間”とか、引き込み方とか、すごい。
“座長さん”という感じも良かった。
そして、SPAC版は、今、この戯曲で何をしたいのか解らなかった。
寧ろ、鈴木忠志に演出して欲しかった。
新国立は舞台装置をちょっとだけ贅沢してしまったのがむむむ(「墓穴を掘る」とか、何故??)、と言うところか。
ところで、新国立版でギブズ夫人を好演した斉藤由貴が、先日、ミッドナイトステージ館の「斉藤幸子」に出ていた。
演劇ライフレビュー
日本の下町純情コメディーと、アメリカの小さな町の出来事と、扱い方は違うけれど、大事なところがよく似ている。
斉藤由貴のおかげで面白いところに気づいた。
最後の方で、幸子は、首振り君が東大の研究職を投げ出してペンギン保護のボランティアに行っていることに触れるが、坂本君は、その前の健一郎の話などを引き合いに、地球環境より目の前の自分たちの事からしっかりしようと言う。
これは、澤渡の“幸福観”とも通じていて、この芝居の最終到達点になっている。
この点については、オフィシャルサイトに初演時の朝日新聞レビューが紹介されているので引用。
幼児虐待のニュースが後を絶たない。親子のコミュニケーションギャップも縮まらない。日本の家族はどこか変だ。鈴木聡作・演出によるラッパ屋公演「斎藤幸子」は、そんないら立ちをひと時いやし、軽やかな笑いの中から「家族」のあり方を考えさせる舞台だ。
鈴木が「下町」に託したものは、お互いがてらいなく本音をぶつけ合うことであり、人と人とが手触りを感じ合える、身の丈にあった暮らしだろう。家族はここから再生をめざすしかない、という視線。「グローバリゼーション」などという言葉に振り回される今、この腹のくくり方にはホッとさせられる。
(中略)
鈴木が「下町」に託したものは、お互いがてらいなく本音をぶつけ合うことであり、人と人とが手触りを感じ合える、身の丈にあった暮らしだろう。家族はここから再生をめざすしかない、という視線。「グローバリゼーション」などという言葉に振り回される今、この腹のくくり方にはホッとさせられる。
この記事の家族の再生云々は的外れだと思うけれど、それは今触れてもしかたないとして、ここでもう一つ軸になる記事を引用しよう。
SPAC版のレビューの一つに気になるコメントがあった。
グローヴァーズ・コーナーズは舞台の虚構の中にだけ存在するユートピアなのだろう。実際にその姿をとらえようとすると真夏の逃げ水のように消えてしまい絶対に手にすることの出来ない郷愁の町だ。
ところでチラシとともに配られた『劇場文化』という小冊子に内野儀氏の文章はこうした舞台の感傷、感動に水を差す嫌みな内容だった。だが『わが町』という戯曲を味わう上で非常に興味深い内容でもあった。これについてはまた改めて。『ユリイカ』誌2010年9月号でも柴幸男の「わが星」岸田賞受賞にからめ「わが町」について内野氏は言及している。(「10年代の上演系芸術 ヨーロッパの 「田舎」 をやめることについて」内野儀)。忘れないようにメモ書き。
ところでチラシとともに配られた『劇場文化』という小冊子に内野儀氏の文章はこうした舞台の感傷、感動に水を差す嫌みな内容だった。だが『わが町』という戯曲を味わう上で非常に興味深い内容でもあった。これについてはまた改めて。『ユリイカ』誌2010年9月号でも柴幸男の「わが星」岸田賞受賞にからめ「わが町」について内野氏は言及している。(「10年代の上演系芸術 ヨーロッパの 「田舎」 をやめることについて」内野儀)。忘れないようにメモ書き。
『劇場文化』の内野氏の文章は「スモール・タウンのアメリカと『わが町』をめぐって」(これ、何故SPACのサイトで読めないんだろう。私の「メデイア」はまだ晒されてるのに)というもので、私は、一読して、「我が意を得たり」という印象を持ったのだけれど、多くの人が、興味深い内容だがヘンチキだ、と言う評価をしている感じ。
やっと繋がってきたか?
そうそう。こうなると「わが星」にまで言及したくなるけれど、『ユリイカ』で内野氏が引用している第54回岸田國士戯曲賞選評(2010年)を見てみると、敢えて観るまでもないかなぁと思ってしまうのであるよ。面白いんだろうけど。
さて。
話戻して、上に引用したブログ記事、地名を換えると「わが町」と「斉藤幸子」が一緒になる。月島も虚構のユートピア、郷愁の町だ。
どっちの芝居も、生きていること、親しい人たちとのささやかな暮らしの大切さを謳っている。それ自体を否定しようとは思わないのだけれど、内野氏の指摘するように、そうしたWASP的価値観が、911を引き寄せ、今の世界を作ってきた元凶であることは、やっぱりちゃんと見つめないとまずいんじゃないのか。
世界と関わらなくても生きていける時代が確かにあった、かもしれないけれど、そこを美しく荘厳することが、今必要なのかどうか。
古典戯曲をそのまま上演するにしても、演出によって、そう言う世界観を相対化することだって可能なんじゃないのかと思う。
内野氏はそのことを言っているのだと思う。
古典の骨格は強靱だ。シェクスピアもワグナーも、あり得ないほどの解釈を許容してビクともしない。
ステージに墓穴を掘る演出が許されたのだから、せめて背景に、同じ時代、町の外、広い世界で何が起こっていたのか、ただ映像を流すだけでもそう言うことは出来たんじゃないかと言う気がする。
1900は、果てのない陸地を拒み、狭い船の世界を選んで死んだ。その恐怖も理解できる。
ギルバート・グレイプは、母の死を乗り越えて、閉塞した町を去り、広い世界に旅立つ。
地平線の向こう、まだ見ぬ世界に希望はある。
自分(達)を相対化できないのが、一番恐い。
広い世界を見るのだ~!
RCサクセッションにも 旅立てジャック と出てくる詩があります。
http://j-lyric.net/artist/a001cbe/l002ed4.html
これですね。
「サマータイムブルース」も入ってるんだ。
他にも織り込まれてるかも。
吉田拓郎にも「サマータイムブルース」ありますね。
憂歌団にも。
おもしろいですねぇ。
あしからず。