コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

不人気教師。授業編。

2010-06-09 15:27:33 | 
4月のあたまに、私の指導学生がいない、と言うことを愚痴ったり分析したりしてみた(これと、これ。他にも時々書いてると思う)。
こういう考察では、自分の“信念”みたいな物は曲げる気がなくて、どうしたらそれに学生達が気づいてくれないんだろう、と言う嘆きになってるんだけれど、もう、そういう段階ではないんだと認めないわけに行かないのかも知れない。

今日の文学史の授業は、出席率5割ちょうど。
就職した最初の年にはもっとひどいことがあったけれど、専門の講義でこう言うのは滅多にない。しかも、休んだ学生の多くは他の授業には来る顔見知りだ。
つまり、私の授業の中でも、この授業は出席する価値がない、と言う評価を下しているのだよね。

たぶん、今日休んだ学生達の誰かがこの記事を読めば、「いえいえ、出たかったんですが、今日は……の理由で出られなかったんです。」と言うような事を言うでしょう。
それは、表面的には本当かも知れない。
でも、本当に出たかったら、何があったって、出られるのです。
熱があったって、身内が死んだって、本当に必要な物だったら、そこに行く。
「そこまでしなくてもいいや」というのが、アンケートなんかよりずっと正確な“授業評価”。

ついでに言いそうなのは「やすんですみません」。
いえいえ、私は学生が一人も来なければ別の仕事が出来るからありがたいような物、欠席が多くても損はしないのです。寧ろ、謝るなら自分に謝れ、と。
あなたは私の話を聞き逃して損をしたのだよ。
そういう気持ちで授業をしているつもり。

何を置いても出なきゃ損、と思わせたいからこそ、出席を取らなくてもちゃんと来る人だけに向けて話す、と言うことを20年続けてきた。
非常勤先でも、その大学の規則に逆らって、「出席は評価の対象にしない」を貫いてきた。
解ってくれてた時代もあったよな~、と遠い目をしても仕方ない。
出席率が5割という事態が続くようなら、内閣支持率2割より深刻。
自分だけ良いと思っていても通用してない事を認めて“改革”が必要だろう。
勿論、それは、出欠厳格化とか、そういう強要ではなくて。


それにしても、今日の授業、というか、今年度の文学史の授業はそんなに面白くないのだろうか。
例の“職業作家の誕生まで”の話。
難しすぎる、と言う感想は確かにいつもより多いと思う。
他では多分聞くことも読むことも出来ないようなアプローチを試みているし、若干情報が多すぎるかも知れないとも思う。

それにしても、自分としては、こういうカタチで文学史を語ることが、今を考える大きなヒントにもなるはずだと思っているし、それなりに工夫してもいるつもり。
「つもり」では通じないのだよね。

静大フェスタの記事のコメントにも「何がいいたいんだ、とまでうちの娘は言っておりました。」と言う厳しい指摘があったけれど、親である御本人が賛同しなきゃ書きませんよね。

そういうことなんだよなぁ。
多分、多くの学生にとって、私の授業は「何が言いたいんだ」状態。

寧ろ私は訊きたい。
「何が聞きたいんだ?」

私にはもう、それがさっぱりわからない。
わからないまま、それでも面白がってくれる数人に向かって喋るしかない。


学生達は、例えば、「文学史」の授業に、何を求めてるんだろう。

“文学史”と言うことについて第1回目のプリントに書いていることを引用しようかな、と思ったけれど、検索したら10年前に書いた物が残っていたのでリンク。
授業の内容は毎回相当大きく変わりますが、この“前提”は今もほぼ変わっていません(使い回しって事ですな)。


文学史、或いは歴史そのものの深さをどうしたら伝えられるんだろう。
まったくわからん。


来週は西鶴後半~八文字屋本
面白いと思うんだけどねぇ。

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