自分自身について自慢できることはそれほど無いのだけれど、今の自分を形成する過程で自慢できるのは、沢山の優れた研究者・教育者から学ぶことが出来た、と言うことだと思っている。
本当にすごい人たちから直接学ぶことが出来た。
その中で、文学研究の基礎が曲がりなりにも身についているのは、なんと言っても栃木孝惟先生の演習のお陰。間違いなく。
先生の『平家物語』演習は、担当者が必ず研究室に泊まり込んで準備するきつい授業で、しかし、土曜の授業終了後にはみんなでそば屋で歓談するのも殆ど決まりだった。
この授業には、色々苦い想い出があるのだけれど、最初の頃の緊張感は今でも身体が震えるほどの記憶だ。
担当者の報告のあと、他の受講生に質問を促す。発言者が居ないとなるとひとこと、「これで満足するんですか」と仰って、目を瞑り、口を閉ざしてしまう。
逃げ場がなかった。
あのとき同じ場所にいた10人ほどの仲間の内、半分近くが大学の教師になった。今思うと、地方国立大学では珍しい事だったんじゃないかと思う。
しかし、私にとって大学の演習とは、そう言う物だった。
私の演習では、みんなが黙り込んでしまったら私が判る範囲で説明してしまう。
これでは成長しないよね。
いかんいかん。
何でこんな事を思い出したか、というと、今日の情報意匠論の発表会が、例年に比べて恐ろしく小粒になってしまったからだ。
実を言うと、前期に私が担当した静岡の文化も、随分こぢんまりした内容で、発表会も地味だった(今確認したら、記事、書いてないんだな)。
静岡の文化の場合、原因は受講者数が少なすぎたことと、私がはしゃぎすぎて全体にゆるい授業になってしまったせいではないかと思っている(自分では)。
情報意匠論の場合は、逆に、受講者数が多すぎたのかなぁ、という印象。
彦星先生も、寝る間もないほどのご活躍で、今までのようなケアが出来ていないのではないかとお察しする。
それにしても、今回の、個々の発表には、色々言いたいことがある。
どうやら部外秘の情報も含まれるようなので、個別の発表についての具体的なコメントは控える(本人達が来れば直接話します。改善案もあります)。
「情報意匠論」という授業で、みんなは何を学んだんだろう。
去年の発表には、あぁ、これは平野メソッドが活きてるな、と言うのが伝わってくる物があった。
今回は、よくあるフィールドワーク演習の発表会のような印象。
総評で彦星先生が仰ったように、内側にぐっと入り込んだ力こぶも見えなかった(さすがに、去年からの継続のチームには、良い具合の脱力感とともに、しっかり見据えた覚悟が見えたけれど)。
大学教育の現場が地域社会と繋がるというのは、単純に世間や業界の論理を教室に招き入れると言うことではない、と私は思う。
もちろん、学問の論理で社会に殴り込みをかけるのでもない。
ただ、世間では普通に受け容れられ、ある種の「業界」がそれを追認し、蔓延させているように見える不合理については、敢えて異議を唱えるのが、アカデミズムの使命であり、教育現場の役割であるはずだ。
もしも私が授業を担当していて、“イケメン・美人”をクローズアップするような企画が出てきたら、全員巻き込んで徹底的に議論すると思う。
「アリです」などと簡単に言う人は教室にいる資格はない。
なんだかとても残念な発表会でした。
こういう事は、誰かが言わないとね。
水曜のシンポジウムのように、良かった良かったで終わりにして欲しくない。
今年は社会学科のフィールドワーク基礎演習の発表会に行けなかった。
結構毎回出席だったのでかなり心残り。
そのほか、今週は自分が喋る会が多かったので、まとめて書こうと思ったんだけれど、長くなったのでまたあとで。
本当にすごい人たちから直接学ぶことが出来た。
その中で、文学研究の基礎が曲がりなりにも身についているのは、なんと言っても栃木孝惟先生の演習のお陰。間違いなく。
先生の『平家物語』演習は、担当者が必ず研究室に泊まり込んで準備するきつい授業で、しかし、土曜の授業終了後にはみんなでそば屋で歓談するのも殆ど決まりだった。
この授業には、色々苦い想い出があるのだけれど、最初の頃の緊張感は今でも身体が震えるほどの記憶だ。
担当者の報告のあと、他の受講生に質問を促す。発言者が居ないとなるとひとこと、「これで満足するんですか」と仰って、目を瞑り、口を閉ざしてしまう。
逃げ場がなかった。
あのとき同じ場所にいた10人ほどの仲間の内、半分近くが大学の教師になった。今思うと、地方国立大学では珍しい事だったんじゃないかと思う。
しかし、私にとって大学の演習とは、そう言う物だった。
私の演習では、みんなが黙り込んでしまったら私が判る範囲で説明してしまう。
これでは成長しないよね。
いかんいかん。
何でこんな事を思い出したか、というと、今日の情報意匠論の発表会が、例年に比べて恐ろしく小粒になってしまったからだ。
実を言うと、前期に私が担当した静岡の文化も、随分こぢんまりした内容で、発表会も地味だった(今確認したら、記事、書いてないんだな)。
静岡の文化の場合、原因は受講者数が少なすぎたことと、私がはしゃぎすぎて全体にゆるい授業になってしまったせいではないかと思っている(自分では)。
情報意匠論の場合は、逆に、受講者数が多すぎたのかなぁ、という印象。
彦星先生も、寝る間もないほどのご活躍で、今までのようなケアが出来ていないのではないかとお察しする。
それにしても、今回の、個々の発表には、色々言いたいことがある。
どうやら部外秘の情報も含まれるようなので、個別の発表についての具体的なコメントは控える(本人達が来れば直接話します。改善案もあります)。
「情報意匠論」という授業で、みんなは何を学んだんだろう。
去年の発表には、あぁ、これは平野メソッドが活きてるな、と言うのが伝わってくる物があった。
今回は、よくあるフィールドワーク演習の発表会のような印象。
総評で彦星先生が仰ったように、内側にぐっと入り込んだ力こぶも見えなかった(さすがに、去年からの継続のチームには、良い具合の脱力感とともに、しっかり見据えた覚悟が見えたけれど)。
大学教育の現場が地域社会と繋がるというのは、単純に世間や業界の論理を教室に招き入れると言うことではない、と私は思う。
もちろん、学問の論理で社会に殴り込みをかけるのでもない。
ただ、世間では普通に受け容れられ、ある種の「業界」がそれを追認し、蔓延させているように見える不合理については、敢えて異議を唱えるのが、アカデミズムの使命であり、教育現場の役割であるはずだ。
もしも私が授業を担当していて、“イケメン・美人”をクローズアップするような企画が出てきたら、全員巻き込んで徹底的に議論すると思う。
「アリです」などと簡単に言う人は教室にいる資格はない。
なんだかとても残念な発表会でした。
こういう事は、誰かが言わないとね。
水曜のシンポジウムのように、良かった良かったで終わりにして欲しくない。
今年は社会学科のフィールドワーク基礎演習の発表会に行けなかった。
結構毎回出席だったのでかなり心残り。
そのほか、今週は自分が喋る会が多かったので、まとめて書こうと思ったんだけれど、長くなったのでまたあとで。
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