雨が降りそうだったから、と言うのが、昨日の理由。
満月の前の晩だったか、自転車で安倍川を越えて帰宅中、本当に明るい月夜で、川に月光が映って、キラキラしてた。そのときは、カメラは背中のバッグに入っていたのだけれど、うまく撮れないのは分かっていたし、撮るものじゃない、と思ってそのまま暫く眺めて帰った。
そう、昔っから、良い風景に出会って写真を撮ろうと思うと頭の中をよぎることがある。
何を見、何を記憶しようとしているのかって。
単純にいえば、写真は、デジタルかどうかにかかわらず、光を記憶する。撮影している本人の気づかない部分も含め、そのときの条件にかなう光を記憶する。
しかし、自分がそのとき、その場で見た物は、それではない。
だから、あとで写真を見ても、そのときの感動が甦るとは限らない。
むしろ、言葉やスケッチの方がずっと記憶を再生しやすいかも知れない。
写真は好き。人に見せたいと思う。でも、何か違う、と言うことも、ね。
大好きな人と一緒に眺めた夕焼けは、写真にして飾っておく物じゃなくて、心の中で反復し、語り合い、もっともっとキレイになっていく物だと思う。
写真を撮ることで、記憶を外在化させ、安心してしまうと、脳は多分、しっかり憶えなくていいや、と判断して解像度を下げてしまう。ほら、写真には、そのとき気づかなかったあんな物が写ってる!
何を見てたんだい? そこで。
昨夜は、カメラを持たずにデッサン会に行った。
アトリエのすぐ下にある小梳神社の祭りで、小さな境内で、チープな花火大会があった。あぁ、カメラ、と思ったけど、どんなに高性能なカメラで撮ったって、あの、境内の空気を細大漏らさず写し取ることは出来ない。懐かしい火薬の匂いと一緒に、何にも憶えていないような子供の頃の切ない気持ちが甦ってきたり。一緒に見に行った仲間達の話し声や、息づかいや、そういう空気を、我々の脳みそは、混沌のまま、記憶してくれていて、また、別の機会にふと、呼び起こしてくれる。
場合によっては思い出したくないこともあるし、写真が思い出に繋がることもたくさんあるけれど、そこにいることそのものは、何物にも代え難い。憶えていようとしなくても、それは、しっかり記憶される。外のメディアに記録しようと思うと……。
その後、みんなで、書道大会になった。筆を使って、墨で、沢山の文字や絵を書いた。鉛筆のデッサンとは全く違う緊張感。習字は苦手だけれど、好きな字を好きなように書くのは楽しい。これも、デッサンに似ている。色んな思いが出てきたり、伝えたいことが伝わらなかったり、色々。
でも、みんな、自分があるから個性のある物が書けるんだなぁ。
色んなメディアで書く。同じ人が、全然違う。多分写真でも、撮る人によって違うんだろうけどね。
どんなメディアを使っても、人が表現するとき、される物そのものではないし、しようとしたそれ、でもない。それは、常に別の物だ。
何を見てるのか。何を感じ、何を記憶したのか。何を伝えたいのか。
でも、どのように?
デッサン会は、ライブだよね。それは、まるごとからだが覚え、憶える。
みんな、別々の記憶として、それを残しながら、同じ感覚を共有してもいる。
おもしろいなぁ。
とか何とか言って、次行くときはまた、カメラ持っていくんだろうな。
満月の前の晩だったか、自転車で安倍川を越えて帰宅中、本当に明るい月夜で、川に月光が映って、キラキラしてた。そのときは、カメラは背中のバッグに入っていたのだけれど、うまく撮れないのは分かっていたし、撮るものじゃない、と思ってそのまま暫く眺めて帰った。
そう、昔っから、良い風景に出会って写真を撮ろうと思うと頭の中をよぎることがある。
何を見、何を記憶しようとしているのかって。
単純にいえば、写真は、デジタルかどうかにかかわらず、光を記憶する。撮影している本人の気づかない部分も含め、そのときの条件にかなう光を記憶する。
しかし、自分がそのとき、その場で見た物は、それではない。
だから、あとで写真を見ても、そのときの感動が甦るとは限らない。
むしろ、言葉やスケッチの方がずっと記憶を再生しやすいかも知れない。
写真は好き。人に見せたいと思う。でも、何か違う、と言うことも、ね。
大好きな人と一緒に眺めた夕焼けは、写真にして飾っておく物じゃなくて、心の中で反復し、語り合い、もっともっとキレイになっていく物だと思う。
写真を撮ることで、記憶を外在化させ、安心してしまうと、脳は多分、しっかり憶えなくていいや、と判断して解像度を下げてしまう。ほら、写真には、そのとき気づかなかったあんな物が写ってる!
何を見てたんだい? そこで。
昨夜は、カメラを持たずにデッサン会に行った。
アトリエのすぐ下にある小梳神社の祭りで、小さな境内で、チープな花火大会があった。あぁ、カメラ、と思ったけど、どんなに高性能なカメラで撮ったって、あの、境内の空気を細大漏らさず写し取ることは出来ない。懐かしい火薬の匂いと一緒に、何にも憶えていないような子供の頃の切ない気持ちが甦ってきたり。一緒に見に行った仲間達の話し声や、息づかいや、そういう空気を、我々の脳みそは、混沌のまま、記憶してくれていて、また、別の機会にふと、呼び起こしてくれる。
場合によっては思い出したくないこともあるし、写真が思い出に繋がることもたくさんあるけれど、そこにいることそのものは、何物にも代え難い。憶えていようとしなくても、それは、しっかり記憶される。外のメディアに記録しようと思うと……。
その後、みんなで、書道大会になった。筆を使って、墨で、沢山の文字や絵を書いた。鉛筆のデッサンとは全く違う緊張感。習字は苦手だけれど、好きな字を好きなように書くのは楽しい。これも、デッサンに似ている。色んな思いが出てきたり、伝えたいことが伝わらなかったり、色々。
でも、みんな、自分があるから個性のある物が書けるんだなぁ。
色んなメディアで書く。同じ人が、全然違う。多分写真でも、撮る人によって違うんだろうけどね。
どんなメディアを使っても、人が表現するとき、される物そのものではないし、しようとしたそれ、でもない。それは、常に別の物だ。
何を見てるのか。何を感じ、何を記憶したのか。何を伝えたいのか。
でも、どのように?
デッサン会は、ライブだよね。それは、まるごとからだが覚え、憶える。
みんな、別々の記憶として、それを残しながら、同じ感覚を共有してもいる。
おもしろいなぁ。
とか何とか言って、次行くときはまた、カメラ持っていくんだろうな。
そして後からその時の写真を見ると楽しかったイメージがわっとよみがえってきます。
動いてるものを静止画像にして記録するからその行為自体は面白いけど、頭の中にそれと同じ位強く脳にやきつける事が毎回毎回できたらいいな~と良く思います。