男が女に優しいときは、大抵下心がある。
男が女に冷たいときは、気を惹きたいときか、ホントに遠ざけたい時のいずれか。
まぁ、私の場合は、基本人間嫌いですから間違いなく後者です。
さて、ぼんやりしている間に私の書いた文章がネットで公開されていたので、周辺のことをちゃんとしなきゃ、と言う事態になった。
SPACのSHIZUOKA春の芸術祭2010が始まっている。
今回も海外を含め、すごい人たちを招聘している(らしい)。正直、説明されないと判らない。
判らないけれど、時間の許す限り行こうと思って、購入したチケットは六演目。
人によって何に期待するかは違うはずだけれど、私にとっては、とにかく『王女メデイア』が再演されることを嬉しく思っている。
ちょうど10年前、「Shizuoka春の芸術祭」に登場したク・ナウカの『王女メデイア』には本当に驚かされた。
SPACにはずっと不満を持っているのだけれど、宮城聰が芸術監督になったのは嬉しくもあり、ク・ナウカの休止は寂しくもあり……。
そう言う経緯があって、SPAC版『王女メデイア』の登場。ク・ナウカとの違いも気になるし、ク・ナウカを識らないSPACファンがどう観るのかと言うのも興味がある。
そういうことを言いふらしていたのをSPACの人にかぎつけられて、そんならお前、コラム書けよ、と言われて書いたのが、これです。
来場者に無料で配布している冊子「劇場文化」に掲載される物を宣材として使うことになったそうで、上演前にネットでも公開。
ま、前座、露払いですからお気軽にお読み下さい。続く真打ちの文章で、歴史的な背景や上演史はきっちり押さえられてますので、そちらをしっかりお読み頂ければと。
あ、ちなみに、これ、「鞠水書屋主人」の名前が初めて余所様のメディアに出た仕事です。
これで検索してくれる人がいたら嬉しいなぁ。
で、それはさておき、「メデイア」を観る前に関連して書いておきたいことがあったのですよ。
ちょっとあわててるので、いつもにまして怱卒な文章になりますが御寛恕願上奉申候。
話は半年前に遡ります。
暮れにSPAC+グランシップ企画の『椿姫』を観た、と言うことはちょっとだけ書いた。
まぁ、議論を呼びたいと言う狙いもあったんだろうけれど、私には演出意図が今一解りませんでした。
何処で読んだか、今探し出せないのだけれど、鈴木忠志は、この演出にはヴィオレッタの救済、と言う狙いがあったというようなことを言っていた(と思う。これがそもそもの誤解の始まりかも知れない)。
あれ、救済じゃないでしょ、と。
で、当日配布されたパンフレットを改めて読んでみたら、鈴木忠志は、
これはねぇ、ストーリーは一時代前の日本人好みの純愛物語で、ばかばかしいんですが、なんといってもヴェルディの曲がいいし、こんなたわいのない話をもとにして、こんな音楽をつくったヴェルディという人の集中力の異常さに興味をそそられるのです。…………そのヴェルディが、フィクションとしての憧れの女性をつくりあげていくときの手つきを舞台化しています。
と、書いている。
バカバカしく、他愛ない話を、ここまで盛り上げてしまったヴェルディと言う奴の、内面を晒した、っていうことですね。
これなら、ホントによく解る。
この『椿姫』は、ヴィオレッタがタイトルロールを歌える状態じゃなかったこともあって、不満だらけだったのに、結構良い評判も聞こえてきたし、まぁ、そこそこ悪口もあったけど、いずれにしても、この鈴木の“悪意”を、ちゃんと受け止めた批評って、あんまり見てない、と思うのは気のせいだろうか。
「ジュゼッペ」のフレームをつける事によって、古典的な(≒ばかばかしい)純愛の悲劇は、陳腐な男の自己正当化の妄想であることが暴露された。
つまり、ヴィオレッタを救済(しようと)したのは、鈴木ではなく、ヴェルディであり、ヴェルディは、そうやって、自分の罪を自ら赦そうとしているのだと。
あの、終幕の、コクーン歌舞伎のような紙吹雪の理由も、それなら説明が付く。
そして、こんな事をされたら、ヴィオレッタは化けて出るに違いない。
可能な限りの荘厳を尽くして向こう側の世界に葬り去ったはずのヴィオレッタが鬼の形相で戻って来る幕切れの演出は、そういうわけだ。
ヴィオレッタはヴェルディによって救済されてはいない。
ここでは「一時代前」、日本人に限らず多くの愛好家がいたドラマの欺瞞が明らかになっている。
我々が、ロマンチックな(≒ばかばかしい)純愛悲劇の欺瞞に気づき始めたのは、前世紀の終わり頃だった。
私にとってその一つは、谷脇理史が示した『万の文反古』「京にも思ふやうなる事なし」の読み替え。もう一つは、岡真理がショシャナ・フェルマンを引用して紹介した『アデュー』の読み替え。
成立過程も語られる状況も全く異なるこのふたつの話は、嘗て、純な男の物語として読まれてきたこと、それが、男の妄想と欺瞞に他ならないことが、(どう考えても没交渉の)新しい読み手たちによってさらけ出されたと言う点に於いて共通している。
女の側から見てみる、という、至極単純な作業によって、男の嘘は簡単に暴かれる。
例えば、『鉄道員(ぽっぽや)』。
妻や娘は、本当に赦しているのだろうか。
主人公である鉄道員の妄想の中で、自己正当化しているに過ぎないのは明らかだ。
幽霊というのは、そうやって、こちら側で生きている人たちが、自らを救うために作ったシステムだ(この件に関しては別稿参照)。
だから、もし、本当に懺悔したかったら、もっと悲惨な形で男を始末しなければならない。『火垂るの墓』は、野坂昭如が自分自身を少年時代に戻ってむごたらしく抹殺することで、初めて、妹への鎮魂歌たり得ている。本人はそれでも自分を赦し得ていないのかも知れないが。
男の欺瞞を暴くことは、既にある許多のテクストの解釈でいくらでも可能だ。
鈴木版『椿姫』は、オペラという、殆どいじりようがないと思われたテクストを、演出によって読み替えてしまったところに凄さがある。
とはいえ、成仏できない女の恨みは、この世に向かって何も発することが出来ないでいる。
それは、この「原作」の限界かも知れない。
遡って、昨年2月末、フェスティバル・トーキョーで上演された『オセロー』の話。
これは既に感想を書いているので、詳しく書かないけれど、ここで宮城(たち)は、「語り得ない女」デスデモーナの声を、霊媒を使って現前させた。
勿論、霊媒はそれ自体、こちら側に奉仕する制度に違いない。
だから、細かいことを言えば、これだって欺瞞なのだけれど、ここには『椿姫』の続きが見える。
複式夢幻能と韓国の霊媒を合体させた鎮魂・祝祭の様式が、男の欺瞞をはぐらかすためでなく、声を持ち得なかった向こう側の女に語らせる回路を与えた。
それは、在りもしない「男の論理」に対する異議申し立てを超えて、演劇は、決定的な弱者の側に就くことが出来るかも知れないという希望だったように思う。
あぁ、やっと『王女メデイア』の話が出来る。
「メデイア」は、「女の論理」の話ではない。
昨日、『プレシャス』のところで書いたように、問題なのは[男/女]という対立軸そのものだ。
一昔前まで、と言いたいところだが、今でも、“女”を前に出してくる気の利かない“フェミニズム批評”や“ジェンダー批評”がなくならない。
女らしさを言う以上、男らしさを認めてしまうじゃないか、と言うことも前に書いた(これ、その後、どうなったんだろう)。
論理の枠組みから、もう一度疑い直してみた方が良いんじゃないのかね、と。
答えは当分見つかりそうにないのだけれど。
男が女に冷たいときは、気を惹きたいときか、ホントに遠ざけたい時のいずれか。
まぁ、私の場合は、基本人間嫌いですから間違いなく後者です。
さて、ぼんやりしている間に私の書いた文章がネットで公開されていたので、周辺のことをちゃんとしなきゃ、と言う事態になった。
SPACのSHIZUOKA春の芸術祭2010が始まっている。
今回も海外を含め、すごい人たちを招聘している(らしい)。正直、説明されないと判らない。
判らないけれど、時間の許す限り行こうと思って、購入したチケットは六演目。
人によって何に期待するかは違うはずだけれど、私にとっては、とにかく『王女メデイア』が再演されることを嬉しく思っている。
ちょうど10年前、「Shizuoka春の芸術祭」に登場したク・ナウカの『王女メデイア』には本当に驚かされた。
SPACにはずっと不満を持っているのだけれど、宮城聰が芸術監督になったのは嬉しくもあり、ク・ナウカの休止は寂しくもあり……。
そう言う経緯があって、SPAC版『王女メデイア』の登場。ク・ナウカとの違いも気になるし、ク・ナウカを識らないSPACファンがどう観るのかと言うのも興味がある。
そういうことを言いふらしていたのをSPACの人にかぎつけられて、そんならお前、コラム書けよ、と言われて書いたのが、これです。
来場者に無料で配布している冊子「劇場文化」に掲載される物を宣材として使うことになったそうで、上演前にネットでも公開。
ま、前座、露払いですからお気軽にお読み下さい。続く真打ちの文章で、歴史的な背景や上演史はきっちり押さえられてますので、そちらをしっかりお読み頂ければと。
あ、ちなみに、これ、「鞠水書屋主人」の名前が初めて余所様のメディアに出た仕事です。
これで検索してくれる人がいたら嬉しいなぁ。
で、それはさておき、「メデイア」を観る前に関連して書いておきたいことがあったのですよ。
ちょっとあわててるので、いつもにまして怱卒な文章になりますが御寛恕願上奉申候。
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話は半年前に遡ります。
暮れにSPAC+グランシップ企画の『椿姫』を観た、と言うことはちょっとだけ書いた。
まぁ、議論を呼びたいと言う狙いもあったんだろうけれど、私には演出意図が今一解りませんでした。
何処で読んだか、今探し出せないのだけれど、鈴木忠志は、この演出にはヴィオレッタの救済、と言う狙いがあったというようなことを言っていた(と思う。これがそもそもの誤解の始まりかも知れない)。
あれ、救済じゃないでしょ、と。
で、当日配布されたパンフレットを改めて読んでみたら、鈴木忠志は、
これはねぇ、ストーリーは一時代前の日本人好みの純愛物語で、ばかばかしいんですが、なんといってもヴェルディの曲がいいし、こんなたわいのない話をもとにして、こんな音楽をつくったヴェルディという人の集中力の異常さに興味をそそられるのです。…………そのヴェルディが、フィクションとしての憧れの女性をつくりあげていくときの手つきを舞台化しています。
と、書いている。
バカバカしく、他愛ない話を、ここまで盛り上げてしまったヴェルディと言う奴の、内面を晒した、っていうことですね。
これなら、ホントによく解る。
この『椿姫』は、ヴィオレッタがタイトルロールを歌える状態じゃなかったこともあって、不満だらけだったのに、結構良い評判も聞こえてきたし、まぁ、そこそこ悪口もあったけど、いずれにしても、この鈴木の“悪意”を、ちゃんと受け止めた批評って、あんまり見てない、と思うのは気のせいだろうか。
「ジュゼッペ」のフレームをつける事によって、古典的な(≒ばかばかしい)純愛の悲劇は、陳腐な男の自己正当化の妄想であることが暴露された。
つまり、ヴィオレッタを救済(しようと)したのは、鈴木ではなく、ヴェルディであり、ヴェルディは、そうやって、自分の罪を自ら赦そうとしているのだと。
あの、終幕の、コクーン歌舞伎のような紙吹雪の理由も、それなら説明が付く。
そして、こんな事をされたら、ヴィオレッタは化けて出るに違いない。
可能な限りの荘厳を尽くして向こう側の世界に葬り去ったはずのヴィオレッタが鬼の形相で戻って来る幕切れの演出は、そういうわけだ。
ヴィオレッタはヴェルディによって救済されてはいない。
ここでは「一時代前」、日本人に限らず多くの愛好家がいたドラマの欺瞞が明らかになっている。
我々が、ロマンチックな(≒ばかばかしい)純愛悲劇の欺瞞に気づき始めたのは、前世紀の終わり頃だった。
私にとってその一つは、谷脇理史が示した『万の文反古』「京にも思ふやうなる事なし」の読み替え。もう一つは、岡真理がショシャナ・フェルマンを引用して紹介した『アデュー』の読み替え。
成立過程も語られる状況も全く異なるこのふたつの話は、嘗て、純な男の物語として読まれてきたこと、それが、男の妄想と欺瞞に他ならないことが、(どう考えても没交渉の)新しい読み手たちによってさらけ出されたと言う点に於いて共通している。
女の側から見てみる、という、至極単純な作業によって、男の嘘は簡単に暴かれる。
例えば、『鉄道員(ぽっぽや)』。
妻や娘は、本当に赦しているのだろうか。
主人公である鉄道員の妄想の中で、自己正当化しているに過ぎないのは明らかだ。
幽霊というのは、そうやって、こちら側で生きている人たちが、自らを救うために作ったシステムだ(この件に関しては別稿参照)。
だから、もし、本当に懺悔したかったら、もっと悲惨な形で男を始末しなければならない。『火垂るの墓』は、野坂昭如が自分自身を少年時代に戻ってむごたらしく抹殺することで、初めて、妹への鎮魂歌たり得ている。本人はそれでも自分を赦し得ていないのかも知れないが。
男の欺瞞を暴くことは、既にある許多のテクストの解釈でいくらでも可能だ。
鈴木版『椿姫』は、オペラという、殆どいじりようがないと思われたテクストを、演出によって読み替えてしまったところに凄さがある。
とはいえ、成仏できない女の恨みは、この世に向かって何も発することが出来ないでいる。
それは、この「原作」の限界かも知れない。
遡って、昨年2月末、フェスティバル・トーキョーで上演された『オセロー』の話。
これは既に感想を書いているので、詳しく書かないけれど、ここで宮城(たち)は、「語り得ない女」デスデモーナの声を、霊媒を使って現前させた。
勿論、霊媒はそれ自体、こちら側に奉仕する制度に違いない。
だから、細かいことを言えば、これだって欺瞞なのだけれど、ここには『椿姫』の続きが見える。
複式夢幻能と韓国の霊媒を合体させた鎮魂・祝祭の様式が、男の欺瞞をはぐらかすためでなく、声を持ち得なかった向こう側の女に語らせる回路を与えた。
それは、在りもしない「男の論理」に対する異議申し立てを超えて、演劇は、決定的な弱者の側に就くことが出来るかも知れないという希望だったように思う。
あぁ、やっと『王女メデイア』の話が出来る。
「メデイア」は、「女の論理」の話ではない。
昨日、『プレシャス』のところで書いたように、問題なのは[男/女]という対立軸そのものだ。
一昔前まで、と言いたいところだが、今でも、“女”を前に出してくる気の利かない“フェミニズム批評”や“ジェンダー批評”がなくならない。
女らしさを言う以上、男らしさを認めてしまうじゃないか、と言うことも前に書いた(これ、その後、どうなったんだろう)。
論理の枠組みから、もう一度疑い直してみた方が良いんじゃないのかね、と。
答えは当分見つかりそうにないのだけれど。
『或質的な面が物理的に確定する場合の確定要素は【0】である。』
【0特性】
◇絶対性
『拡がりが無い,』
◇不可分性
『分けられない,』
◇識物性
『存在の1の認識が可能, 即ち考えるもとの全てが【0】より生ずる, 但し質的な変化に対し絶対保存できない,』
◇変化性
『物による逆の確定が不可能な変化 (可能性の確立), 即ち存在の【1】を超越して変化する。』
【0特性】が真理であるならば, 時間平面的な視野は物的ではなく, 質的に変化していることになる。その根據(‐拠)が【0∞1】, 有限的無限性を有する物による質の確定が不可能であること, そもそも確定する質が何かを知り得ない以上, 物理的確定論は絶対的ではなく類似事的な確定であること, である。
零的確定論では, 一つの時間平面が, 拡がり無き【時の間(はざま)】に確定していると考える。同様に空間を捉え, 【空の間】に空間を置き, 絶対的変化を与える【質】を流し込む。つまり時間平面は, この表裏不可分の裏側の【絶対無】により0的に確定されることになる。
△無は有を含む。
意味が取れなかったので検索してみると、この半年くらいの間にものすごく多くのブログに同じコメントがありますね。
http://www.google.co.jp/search?q=%E6%88%96%E8%B3%AA%E7%9A%84%E3%81%AA%E9%9D%A2%E3%81%8C%E7%89%A9%E7%90%86%E7%9A%84%E3%81%AB%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A0%B4%E5%90%88%E3%81%AE%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E8%A6%81%E7%B4%A0%E3%81%AF%E3%80%90%EF%BC%90%E3%80%91%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&hl=ja&lr=&as_qdr=all&sa=2
流行ってます?
SPAM認定しもいいんですが、丁寧に対応された人もいますので、私も取りあえず消しません。
http://blog.livedoor.jp/kenhappy1/archives/51707452.html
もう一度戻ってこられるか判りませんが、判りやすい言葉に言い換えていただければと思います。
同時に、なぜこの記事に、なのかも教えていただきたいですね。