・innerchld 『i/c(アイ・シー)』 吉祥寺シアター
・チャリカルキ 『世界の誰より、私は遅い。~雫石さんの恋~』 SPACE雑遊
11月はなかなかに忙しくて、週末の予定の中からどれを選ぶか、というのはかなり難しい。
11/15・16の土日は学祭があり、半ば主催者でもある鶴岡法斎さんのイベントが15日に決まっていたので、それを軸にしながら、芝居や展示会の日程をエクセルに並べて(これ、ほんとです)、ピンポイントで東京に行ける日を考えた結果、16日は、最初に予定していたSPACの「ハムレット」(アフタートーク彦星先生)を涙ながらにカットして(こちらは24日~アフター伽藍の佐藤さん~に行きます)東京で芝居のハシゴ。
ちなみに「ドン・キホーテ」は、12/20(アフタースノドの柚木さん)。
芝居は14時からだったので、その前の時間を使って練馬区美術館で石田徹也展。
思いがけずすいていた。
静岡県立美術館で観た人はもう行かない、と言うことだったのか、ある種の熱気が醒めたのか。
それにしても会場におかれたノートに書き込む人の熱さは相変わらず。
会期は長いし、これからなのかな。
絵の前に立つ事の怖さ。
解釈せよと迫られながら、意味だのメッセージだのとは全く別の所で明らかに嬉々とした没入がある。
実物に直面することだ。
********************
で、インナーチャイルド。『i/c』。
十周年記念公演第二弾(第一弾は「(紙の上の)ユグドラシル」)ということで、劇団の名前ともかぶるタイトル、内容になった。
インナーチャイルドの芝居を見るのはこれが三度目なのだけれど、壮大すぎて言葉で説明したり批評したりすることが出来ない。
もう、ごめんなさい、お見事です、としか言いようがないのだけれど。
母の葬儀が終わった中年男子が、妻子をおいて「自分探し」の旅に出る。
それが、心理療法と構造的に一致する形で、時空を遡り、父母の歴史を追体験し、妻子(特に息子)との関係を再構築していく話。
……なんと陳腐なまとめ方。
芝居は、東京~香港~インド~ネパール~チベットと、主人公(翼)とともに移動しながら、時間は父母の時間に遡る。
それが文字通り“二重写し”になってみたり。
戦争や国家や文化や言語や……と言った問題に対する明確なメッセージを発信しつつ、チベットの「死者の書」、輪廻、魂の再生-曼荼羅……と、相変わらず壮大な構造物を作り上げる。
演出や装置や音響や、それぞれについて言葉を尽くしてもどうしようもなく、高度な撮影技術を持ってしても録画で見て伝わる物でもなく。
********************
一方チャリカルキの「雫石さん」は2002年作品の改作の由(あらすじもこのリンクを参照)。
「比喩ではなく、文字通りに」周りの時間がゆっくり流れてしまう雫石さんの住む地下室での出来事。
これも、プロローグが最後の場面であって、三つの小話は時間を遡る。
空間は移動せず、雫石さんには殆ど変化がない。
チャリカルキは、ママチャリカルキを2回みて、本公演はこれが2回目。
一旦しっかり構成した話を解体・再構築し、徐々に真相が見えてくるようなツクリにしているのが多いの印象。
あり得ないような設定のもとで繰り広げられる暖かいドラマとくすぐり、そして何より仕掛の妙。
なるほど! と言う快感。
至近距離で観る小さな芝居の楽しみも格別だ。
しかし、どうも、それだけではないところが、この劇団の深層のような気がする。
明らかになる事実(=歴史)はしかし、登場人物全員が正確に理解する、という訳ではなく、雫石さんと我々観客に見える世界。
雫石さんが語る物語。
********************
ここで、無理矢理なのは承知なんだけれど、二つの芝居を同日に観たことで繋がってくる問題の話をしようと思う。
[i/c]の主人公翼は、母の葬儀のあと、不在の父親を求めて旅に出る。
そして、両親の足跡をたどった末に、和解する(それは、内面の出来事でもあるのだけれど)。そのことは、彼の息子、史郎との和解でもある。
予め、“捨て子”である男達は、父を認めることで自分を確立するに至る。
「雫石さんの恋」では、“父殺し”が語られるが、そのことと、男性主人公(誰?)の成長は殆ど関わりがない。
むしろ、やはり、“雫石さん”なのだよね。
“世話焼き婆”の半生は、悲劇的だけれど、その中で“自分に出来ること”を見つける。
待つこと。
あれやこれやを考え合わせてみると、この芝居が、実は、自己を受け容れる雫石さんの物語であり、“待つ女”の物語であり、そして、北極星のように、通り過ぎていく人々を導く大いなる母の物語であることに気づく。
チャリカルキの芝居は、ちょっとした場面や台詞にほろっとさせられたり、思わず声を上げて笑ったり、そう言う魅力にあふれたコンパクトで意外性のある面白さがが魅力です、と言う風にまとめきれないのは、背後にとんでもなく大きな、神話的な“モノガタリ”が潜んでいるからなんだと思った。
あらためて。
すいません。
散漫です。
自分で読んでも、伝わらないだろうなぁと思います。
一週間時間を見つけてはだらだら書き足していたのでテンションが持続してない。
しかも今日はSPACの「ハムレット」を観てしまったので、なんだか、またオイディプスか、と言うような話。
かといってこのままさらに続けるわけにも行かないので、一曝しておきます。
叩かれて気づくことも多いと思うので、色々ご意見お願いします。
コメントの中で「修正」していきます。
・チャリカルキ 『世界の誰より、私は遅い。~雫石さんの恋~』 SPACE雑遊
11月はなかなかに忙しくて、週末の予定の中からどれを選ぶか、というのはかなり難しい。
11/15・16の土日は学祭があり、半ば主催者でもある鶴岡法斎さんのイベントが15日に決まっていたので、それを軸にしながら、芝居や展示会の日程をエクセルに並べて(これ、ほんとです)、ピンポイントで東京に行ける日を考えた結果、16日は、最初に予定していたSPACの「ハムレット」(アフタートーク彦星先生)を涙ながらにカットして(こちらは24日~アフター伽藍の佐藤さん~に行きます)東京で芝居のハシゴ。
ちなみに「ドン・キホーテ」は、12/20(アフタースノドの柚木さん)。
芝居は14時からだったので、その前の時間を使って練馬区美術館で石田徹也展。
思いがけずすいていた。
静岡県立美術館で観た人はもう行かない、と言うことだったのか、ある種の熱気が醒めたのか。
それにしても会場におかれたノートに書き込む人の熱さは相変わらず。
会期は長いし、これからなのかな。
絵の前に立つ事の怖さ。
解釈せよと迫られながら、意味だのメッセージだのとは全く別の所で明らかに嬉々とした没入がある。
実物に直面することだ。
で、インナーチャイルド。『i/c』。
十周年記念公演第二弾(第一弾は「(紙の上の)ユグドラシル」)ということで、劇団の名前ともかぶるタイトル、内容になった。
インナーチャイルドの芝居を見るのはこれが三度目なのだけれど、壮大すぎて言葉で説明したり批評したりすることが出来ない。
もう、ごめんなさい、お見事です、としか言いようがないのだけれど。
母の葬儀が終わった中年男子が、妻子をおいて「自分探し」の旅に出る。
それが、心理療法と構造的に一致する形で、時空を遡り、父母の歴史を追体験し、妻子(特に息子)との関係を再構築していく話。
……なんと陳腐なまとめ方。
芝居は、東京~香港~インド~ネパール~チベットと、主人公(翼)とともに移動しながら、時間は父母の時間に遡る。
それが文字通り“二重写し”になってみたり。
戦争や国家や文化や言語や……と言った問題に対する明確なメッセージを発信しつつ、チベットの「死者の書」、輪廻、魂の再生-曼荼羅……と、相変わらず壮大な構造物を作り上げる。
演出や装置や音響や、それぞれについて言葉を尽くしてもどうしようもなく、高度な撮影技術を持ってしても録画で見て伝わる物でもなく。
一方チャリカルキの「雫石さん」は2002年作品の改作の由(あらすじもこのリンクを参照)。
「比喩ではなく、文字通りに」周りの時間がゆっくり流れてしまう雫石さんの住む地下室での出来事。
これも、プロローグが最後の場面であって、三つの小話は時間を遡る。
空間は移動せず、雫石さんには殆ど変化がない。
チャリカルキは、ママチャリカルキを2回みて、本公演はこれが2回目。
一旦しっかり構成した話を解体・再構築し、徐々に真相が見えてくるようなツクリにしているのが多いの印象。
あり得ないような設定のもとで繰り広げられる暖かいドラマとくすぐり、そして何より仕掛の妙。
なるほど! と言う快感。
至近距離で観る小さな芝居の楽しみも格別だ。
しかし、どうも、それだけではないところが、この劇団の深層のような気がする。
明らかになる事実(=歴史)はしかし、登場人物全員が正確に理解する、という訳ではなく、雫石さんと我々観客に見える世界。
雫石さんが語る物語。
ここで、無理矢理なのは承知なんだけれど、二つの芝居を同日に観たことで繋がってくる問題の話をしようと思う。
[i/c]の主人公翼は、母の葬儀のあと、不在の父親を求めて旅に出る。
そして、両親の足跡をたどった末に、和解する(それは、内面の出来事でもあるのだけれど)。そのことは、彼の息子、史郎との和解でもある。
予め、“捨て子”である男達は、父を認めることで自分を確立するに至る。
「雫石さんの恋」では、“父殺し”が語られるが、そのことと、男性主人公(誰?)の成長は殆ど関わりがない。
むしろ、やはり、“雫石さん”なのだよね。
“世話焼き婆”の半生は、悲劇的だけれど、その中で“自分に出来ること”を見つける。
待つこと。
あれやこれやを考え合わせてみると、この芝居が、実は、自己を受け容れる雫石さんの物語であり、“待つ女”の物語であり、そして、北極星のように、通り過ぎていく人々を導く大いなる母の物語であることに気づく。
チャリカルキの芝居は、ちょっとした場面や台詞にほろっとさせられたり、思わず声を上げて笑ったり、そう言う魅力にあふれたコンパクトで意外性のある面白さがが魅力です、と言う風にまとめきれないのは、背後にとんでもなく大きな、神話的な“モノガタリ”が潜んでいるからなんだと思った。
あらためて。
すいません。
散漫です。
自分で読んでも、伝わらないだろうなぁと思います。
一週間時間を見つけてはだらだら書き足していたのでテンションが持続してない。
しかも今日はSPACの「ハムレット」を観てしまったので、なんだか、またオイディプスか、と言うような話。
かといってこのままさらに続けるわけにも行かないので、一曝しておきます。
叩かれて気づくことも多いと思うので、色々ご意見お願いします。
コメントの中で「修正」していきます。
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