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コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

that is an answer.

2008-11-25 13:59:09 | 
観劇ネタをもう一本。
これも熟考したわけではないので、とりとめのないメモになるけれど、むしろ、色々ご教示頂きたいので投げかけ。

SPACの『ハムレット』。最終日に見てきました。
2列めど真ん中。
字幕が高すぎて見えないと言う辛さはありましたが、特等席です。

この芝居に関しては、既に彦星先生が、二度、ブログで触れています。
 初見のあとと、アフタートークのあとと。

彦星先生の批評は明確です。
舞台というものを観て、ここまで体の中から何かがわき上がってきたことって今までにあっただろうか。
 大袈裟に云うのではない。私はこの舞台を「演劇史上 ひとつの事件」だと位置づけたい。

と言うことで、項目だけ抄出すると、

・まず衣装の出来が良い。
・セリフがすばらしい。
・音の使い方が秀逸である。
・照明が効いている。
・それにしても、美しい舞台である。


トークでは、言葉と身体がそれぞれ引き受ける演技の分量という話、いかに一挙手一投足に自らの経験を盛り込みながら演じるか・多数の点を意識的に通過しながら演技をするかという話で盛り上がった由。

色々検索してみても、ここまで明解な感想を書いている人は、案外少ない。
「よかった」「感動した」で日記は済むからねぇ。
しかし、概ね絶賛している印象。

なのだけれど、今回私はあんまりピンと来なかったわけです。
前週のinnerchildみたいな、震えるような体験にはならなかった。
好みの問題なので、どっちが正しいとか言うつもりはないのだけれど、それでも、ク・ナウカを追っかけ、加藤訓子を追っかけた身としては、どうなのよ、SPAC宮城聰? と思わなくもないので、やっぱりひと言書き留めたいわけです。


佐藤さん@伽藍のアフタートークや配り物で宮城さんの狙いみたいな物は何となく受け取ったけれど、それにしても、大時代な近代青年だったなぁ。
パロディです、と言うなら納得するけど。

彦星先生の挙げられた5点については、台詞のこと以外は同意できる。

衣装も、音も、照明も、装置も。
トータルには柔らかい能舞台の印象で、橋懸かりはないけれど結界としての機能はちゃんとあったし、最後の使い方はともかく、あのブリキ(?)の衝立状の物も能の作り物的な機能があった。真四角なスポットライトや色の使い分けも工夫されてるなぁと思ったし。
エスニックな衣装とパーカッションの使い方に関しては、ク・ナウカで見慣れてる感じなのだけれど、たとえば劇中劇の場面で個々の役割と楽器の関係の必然性とか、私には読み切れなかった。

セリフは……。
ハムレット、あれで良かったのかなぁ。
これもク・ナウカのように声を別の人が担当するなら面白いのだけれど、みんな「頑張ってる感」があって、むむむぅ、であった。
文楽の太夫がそのまま役者をやっているような。
声と身体、と言う課題は、ク・ナウカでさんざん試行錯誤してきて、それで、あぁいう様式的な節回しも出来てきたんだと思うけれど。う~ん。


あ、でも、オフィーリアの人の声はちょっと良かったかな。
山本安栄の若い頃って、こんなだったのかなぁ、なんて言ったら褒めすぎか。
衣装のせいかもしれないけれど、ちょっと頭の隅っこをよぎった。

さて。
良かったところはそういうわけで、色々ありました。
でも、やっぱり「ピンと来ない」。
「体の中から何かがわき上がって」は来なかった、と言うのが正直の所。
感性鈍いのか。

まぁ、それは否定しないけど。



正直、私はかなり筋金の入ったSPAC嫌いです。
とはいえ、静岡にいて安く芝居を見られるんだから、選り好みはしつつも、鈴木時代からそれなりに観てるつもり。
その中でク・ナウカにも出会って、追っかけになったわけだし。
で、芸術監督が宮城さんになって、風通し良くなるかなぁ、というのもあるし、少なくともク・ナウカの明晰さには好感を持っていたので、かなり期待もあるから諦めずに通っているわけで……。

そういう人間の言うことなので、偏見に満ちていることも、ここを読む人はちょっと頭に入れておいた方が良いだろうな。


ネット上のいくつかの批評で、解りやすい、と言うことを書いている人がいます。
曖昧な解釈を放置しないで明確にしたところがすごいとか。
今回のハムレットは、「最初の現代人」「未決定の人」らしいです。


実際、かなり大胆にカットして、ドメスティックな葛藤のドラマとして見えやすくなっているように思う。
しかし、そうなると、最後のハーシーズがあんまり唐突すぎないか??
「そういうドラマだったのか?!」ってビックリすればいいのか。

解りやすくした、と言う意味では、ホレーショには先王の亡霊が見えてないらしい、と言うところもかなり大胆な答え。
神経病か。

そういえば、いくつかのブログで、最後の場面でホレーショが毒酒をあおって死んでしまうのはどうなんだ、と言うコメントがあったんですが、それ、ほんとでしょうか?

ホレーショが死ぬ「ハムレット」なんてあるわけないと思っているので、杯を取り上げたけれど空っぽだったので飲めず、不本意ながら武士らしく死ぬことが出来なかった、と言う解釈をしたんですが、如何に?

実際、原作では酒は残っているけれど、断末魔のハムレットが取り上げてしまい、名誉のために語り伝えてくれ、と言うことになるんだけれど、今回は、とにかくハムレットのセリフを大幅に減らしているので、ここでも先にハムレットは死んでるから、ホレーショは自分でナントカしなきゃいけない。彼はローマ人になりたいんだから、あれば飲むでしょう。

で、その方が、日本の戦後、と言うところには繋げやすいし。
違うのかなぁ……。
この辺、事実確認したいなぁ。


もう一つ、わかりやすさの罠というか、付け焼き刃のストッパードファンとしては、ローゼンクランツとギルデンスターンとハムレットとの難解なことば遊びを、今の自分がどのように受け止められるのか楽しみにしていたのに、無駄死にどころか彼らは登場もしなかった。

そんなわけで、「あや」があんまりない印象。
これはやっぱりことば好きには残念なんだよなぁ。

あ、もう一つ、謎。
劇中劇が「リチャード三世」なのはなぜ?
自己言及的遊びなのかなぁ。
わかりやすさ?
「幡随長兵衛」を思い出した。


今回検索してみてまわったなかで、この批評は面白かった
この人もク・ナウカファンだなぁ。

ク・ナウカを喪ってしまったたくさんのファンが、それでも宮城さんは静岡に行って良かったなぁと、心から思えるような舞台が見たいなぁ。

いまは、ク・ナウカの芝居をもう一度見たい。

さて、「ドン・キホーテ」も行きますよ。

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1 コメント

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ホレーショ (コニタ)
2008-11-26 22:44:00
いろんな人の話を総合すると、はじめのうち、ホレーショが毒酒を飲んで倒れる(死ぬ)が、例のついたては倒れない、と言う演出だったらしい。

で、やっぱり最終日は、飲んだとは見えなかった、と言うことで一致してるように思う。

上にも書いたように、飲もうと思ったが飲めなかった、というのは、不本意ながら生き残ってしまった日本人像として意味を持つかも知れない。
しかし、だとすれば、最初のプランは(というか、ただの不徹底のような気もするが)なんだったのか、よく解らない。

SPAC「ハムレット」については、改めて書くつもり。
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