今日は3年生の指導教員決定面接。
予想通り、私のゼミは今年もゼロでした。
ずっと休学していたKちゃんが今年は復活してるし、翻訳コンクールのブレイク君がいるので、仕事無し、と言うことではないのだけれど、それにしても私が拒否していると思われると困るな。
そんなことはありませんよ。
来てくれれば歓迎です。
色んな判断の結果、選ばれてないのだから仕方ないのですよ。
面接をしていると「目的がはっきりしていて、確かにコニ研ではないなぁ、残念だなぁ」か、「かすってるかも知れないけど、私のゼミに来てもしょうがないな」か、どっちかでした。
前者は、私が関わったらもっと面白くなるかもな、と思わなくもないんだけれど、意志がしっかりしてるので、残念だけど、仕方ない。
後者は、話を聴いていると、ウチのゼミに来た方が良いんじゃない? という感じもあるんだけれど、私がそう言うジャンルをカバーできると思ってないのだよね。それは、気づいてない時点で、ウチに来てもかみ合わないだろうな、と。教員の業績、知らないんだものね。
逆に、ちょっとでも引っかかりがあれば「どうぞいらっしゃい」と言う教師もいるので、まぁ、おまかせしますよ、と。
自分が大学生の頃、どうだったか、と言われれば、良くは知らなかったと思う(というか、みんな大物だったからなぁ)。
でも、今の学生は調べるツールがいくらでもあるんだから、同じ条件ではないのに、こういう事に関してはずっと退化している。
夜、若者二人を引き合わせる愉快な食事をした。
隠すことでもないけれど、まぁ、ほぼ私的なことなので具体的には書かないけれど、この二人を見ていると、若い時にちゃんと動けるってすごいな、とおもう。
動くこと、食い付くことで、更に拡がっていく。
その愉しさに気づいてしまえば、人生は何倍も面白くなっていくのに、多くの学生たちは、こっちが見つけた井戸の水をこわごわ飲んで、満足しきっている。
他にもっとおいしい水脈があるかも知れない、とか、水以外の何かでも渇きを癒すことが出来るんじゃないかとか、そう言う発想を持つ人がホントにいない。
学問でも全く同じなんだよね。
微妙な引っかかりを手がかりに引き寄せれば、向こう側に全く違う風景が見える。
教師としては、その歓びを気づかせなきゃならんのだけれど、指し示されることに慣れすぎて、また次の餌を待ってしまうようではどうしようもないのだ。
もう何年も、身近にコイツのためなら出来ることは何でもしてやろう、と思える学生がいない。
しかし、実際に若い人がみんなそうか、といえば、今夜の二人のように、心から応援したくなるようなのもちゃんといるのだ。
何を変えなければならないのか、まだ答えが見つからない。
ただ、はっきりしているのは、何がしたいのか判らない人に、これをしなさい、と選んで勧めることはその人の可能性をつぶすことにしかならないだろうということ。
沢山ありすぎて困ってる人には選び方を伝えられるし、もっとはっきりしている人になら、いくらでも援助できる。
まぁ、精一杯不親切な教師を続けよう、と改めて思うのでありました。
予想通り、私のゼミは今年もゼロでした。
ずっと休学していたKちゃんが今年は復活してるし、翻訳コンクールのブレイク君がいるので、仕事無し、と言うことではないのだけれど、それにしても私が拒否していると思われると困るな。
そんなことはありませんよ。
来てくれれば歓迎です。
色んな判断の結果、選ばれてないのだから仕方ないのですよ。
面接をしていると「目的がはっきりしていて、確かにコニ研ではないなぁ、残念だなぁ」か、「かすってるかも知れないけど、私のゼミに来てもしょうがないな」か、どっちかでした。
前者は、私が関わったらもっと面白くなるかもな、と思わなくもないんだけれど、意志がしっかりしてるので、残念だけど、仕方ない。
後者は、話を聴いていると、ウチのゼミに来た方が良いんじゃない? という感じもあるんだけれど、私がそう言うジャンルをカバーできると思ってないのだよね。それは、気づいてない時点で、ウチに来てもかみ合わないだろうな、と。教員の業績、知らないんだものね。
逆に、ちょっとでも引っかかりがあれば「どうぞいらっしゃい」と言う教師もいるので、まぁ、おまかせしますよ、と。
自分が大学生の頃、どうだったか、と言われれば、良くは知らなかったと思う(というか、みんな大物だったからなぁ)。
でも、今の学生は調べるツールがいくらでもあるんだから、同じ条件ではないのに、こういう事に関してはずっと退化している。
夜、若者二人を引き合わせる愉快な食事をした。
隠すことでもないけれど、まぁ、ほぼ私的なことなので具体的には書かないけれど、この二人を見ていると、若い時にちゃんと動けるってすごいな、とおもう。
動くこと、食い付くことで、更に拡がっていく。
その愉しさに気づいてしまえば、人生は何倍も面白くなっていくのに、多くの学生たちは、こっちが見つけた井戸の水をこわごわ飲んで、満足しきっている。
他にもっとおいしい水脈があるかも知れない、とか、水以外の何かでも渇きを癒すことが出来るんじゃないかとか、そう言う発想を持つ人がホントにいない。
学問でも全く同じなんだよね。
微妙な引っかかりを手がかりに引き寄せれば、向こう側に全く違う風景が見える。
教師としては、その歓びを気づかせなきゃならんのだけれど、指し示されることに慣れすぎて、また次の餌を待ってしまうようではどうしようもないのだ。
もう何年も、身近にコイツのためなら出来ることは何でもしてやろう、と思える学生がいない。
しかし、実際に若い人がみんなそうか、といえば、今夜の二人のように、心から応援したくなるようなのもちゃんといるのだ。
何を変えなければならないのか、まだ答えが見つからない。
ただ、はっきりしているのは、何がしたいのか判らない人に、これをしなさい、と選んで勧めることはその人の可能性をつぶすことにしかならないだろうということ。
沢山ありすぎて困ってる人には選び方を伝えられるし、もっとはっきりしている人になら、いくらでも援助できる。
まぁ、精一杯不親切な教師を続けよう、と改めて思うのでありました。
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